Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん)

日本に暮らす昭和生まれの猫ぷりりんの、そこはかとない時事放談と日記です。政治経済から科学、サッカー、手芸まで

アテルイのお墓はきっとここ

2018年11月21日 22時00分56秒 | 神話・伝承・民話

アテルイのお墓の続き、筆写個人の説です。

「斬於河内国椙(?榲?)山」日本後紀

河内国榲山はどこ?

斬られた場所とお墓は別の場所かもしれません。交野郡が最も京の都に近く、可能性は高いと推測しています。

伝・阿弖流為の墓がある旧交野郡坂村の宇山バス停前・牧野公園(元は交野郡に2つしかない式内社・片埜神社敷地内。もうひとつの式内社・久須須美神社も隣接していた)は、昔は牧野村でした。

その牧野村の飛び地が山城国と河内国の国境にあります。粘土質の土です。周囲には楠葉平野山窯跡美濃山瓦窯跡群がある地域です。この飛び地は牧野村に合併された宇山村と養父村のものです。伝・阿弖流為の墓のすぐ近くにも牧野阪瓦窯跡があります。(赤枠の☆=片埜神社と伝・阿弖流為の墓)


河内国交野雄徳山とは?

阿弖利為が没した802年の6年後、宮中御器の陶土採取のため河内国交野雄徳山への埋葬禁止のお達しがでますが、現代では雄徳山は石清水八幡宮がある「男山」で京都府のはずだというイメージなのに、河内国と記載されています。

「禁葬埋雄河内国交野雄徳山。採造御器之土也。」類聚国史,巻七十九大同三年正月(808)

牧野村の飛び地がある場所はその「男山」の裾野にあたるので、その頃河内国交野雄徳山と呼ばれていた可能性があります。京都府側には太平記の登場人物が眠る大きな墓地もあります。

牧野村飛び地の南東に四人山がありますが、中井家文書・石清水八幡宮全図にも四人山やニゴリ池は描かれています


この牧野村(の中の旧宇山村・養父村)飛び地あたりが元々アテルイが斬られた地では?と推定しています。終戦後に送電線が引かれるのですが、その際に飛び地の元の地の旧牧野村の式内社・片埜神社の旧敷地である牧野公園の古い古墳山の上に弔いの石碑が牧野村飛び地から引っ越してきたのではないか?と推定しています。旧宇山村や旧養父村や養父山にも神社があったのですが、周辺の神社は九頭神の式内社・久須須美神社も含めて片埜神社へ合祀されています。

もしくは、斬られた場所である牧野村(の中の旧宇山村・養父村)飛び地から離れた牧野村(の中の旧宇山村・養父村)村内の神社でいつからか弔いのための石碑が建てられるようになり、それが明治維新後の合祀で式内社・片埜神社旧敷地内の牧野公園へまとめられたのではないか、と推定しています。

本当にアテルイは処刑されたのか?

疑問です。日本後記は散逸して日本略記にしか記録が残っていませんが、それぞれの版でこの部分の漢字が異なっていて、中には空白のものもあるからです。中には朱書きで「置水」と書いてあるものもあります。「置水之情 」の故事の通り、表だっては処刑されたようでいて実は京から離れた桓武天皇の遊興の地で反省を促されていたのだとしたら?

聖武天皇死刑禁止の詔

神亀2年(725)12月聖武天皇は死刑廃止の詔を下しました。

神亀二年(725)十二月庚牛。(聖武天皇) 詔曰。死スル者ハ不(㆑)可(㆑)生。刑セラル ル者ハ不(㆑)可(㆑)息(イコフ)。…見禁囚徒。死罪宣降徒流。流罪宣(㆑)従(㆑)徒。
〔殺された者は生き還ることも、刑を科せられる者が憩うこともない。死罪を宣告されたものは流罪に、流罪を宣告されたものは懲役刑に。〕続日本紀

アテルイは死罪の斬ですが、この聖武天皇神亀二年十二月庚牛の詔に従えば流罪です。818年嵯峨天皇が改めて死刑を実質停止しますが、検非違使等の現場での私刑はあったという二重基準だったようです。そこから逆に考えると、都にて公文書で死刑と記されたアテルイは死刑判決によりおのずと流罪扱いになったと思われます。坂上田村麻呂が現地で殺さず都へわざわざ連れ帰ったのは、都で死罪を宣告されれば流罪になれるからだったのではないでしょうか。



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