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日本に暮らす昭和生まれの猫ぷりりんの、そこはかとない時事放談と日記です。政治経済から科学、サッカー、手芸まで

教育勅語は発布後に意味が改変された-学問の戦争責任

2017年03月23日 17時05分15秒 | 政治

教育勅語は発布後に意味が改変された

教育勅語(現代語訳はこちら)の問題箇所「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」がお国のために戦争で死ぬべき的意味へと変貌した理由は、学問側による国語辞典・漢和辞典上の「義勇」の定義変更によりもたらされたようです。

明治天皇が1890年教育勅語を発布直後

義勇の意味は「義を見ていさむこと」 「1.義の心より出づる勇。2.義勇兵」でした。 「義とは自らの志より生ずる満足な決定であり、自分の心が命ずるゆくべき道である」、対義語は「利」、義は「行ふべきことを爲し、爲すべからざることをなさぬこと」であり、自分の思う正義に従うことで、政府や王様のいいなりとは全く別です。
義勇兵は「自ら進みて兵たるもの」という自発的従軍であり、 赤紙で本人の意思とは無関係に従軍するといったものではありませんでした。教育勅語発布1890年の後、1894年明治天皇は「義勇兵ノ団結ヲ止ム」 という詔勅を出して日中戦争で義勇兵希望をした若者へ待ったをかけているので、その前の教育勅語で推奨した義勇の防衛に関する義勇は 自発的従軍である義勇兵の意味であったこと、義は自発的・自律的な 五常の一の義を意味するという共通認識が市民にもあったことがうかがえると思います。 まだそのころは漢語を正確に読めたのではないでしょうか。

辞書の変化

ところが辞書での義勇の定義が「君國の爲めに一身を捧げ、進みて事を爲すこと。」へ変化していきます。 教育勅語は最初から天皇の為に命を捧げよ的標語だったわけではなく、アカデミア側が義勇の定義を変更して滅私奉公的な命を投げ出す献身へ改変したというのがどうも本当のところなようです。

  • 1890年10月30日 教育勅語発布
  • 義勇奉公 国民修身談 : 勅語衍義,博文館,鈴木倉之助 著,明24.12 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759351/128
  • 1894年8月7日 義勇兵ノ団結ヲ止ム
  • 出師軍歌 : 義勇奉公 三田村熊之介 (鉄街隠士) 著 高田文賞堂 1894年明治27年8月6日印刷11日発行 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/855497/1
  • 征清忠勇画談: 義勇奉公 三田村熊之助 (楓陰) 著 鹿田書房 1895年明28.3 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773728/10
  • 少年亀鑑 : 義勇奉公 行川富之助 編 弘文社 1895年明28.9 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757042/1
  • 1905 「義勇:義に勇むこと」漢和中辞典 : 熟語註解,文海堂 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/862750/391
  • 1906 「義勇:義を見ていさむこと、義勇兵:自ら進みて兵たるもの、 」漢和大辞林,郁文舎, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/862748/538
  • 義勇奉公美譚 北陸出版協会 明42.5 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755115/7
  • 1909 「義勇:忠義と男気と。義に勇むこと」漢和中辭典 : 熟語註解,松村九兵衞 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1085492/487
  • 1909 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/902806/377
  • 1910 「義勇:義を見ていさむこと、義勇兵:自ら進みて兵たるもの」漢和大辞林,郁文舎 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/862749/620
  • 1912 「義勇:義の心より出づめ勇。義勇兵」新訳漢和大辞典,六合館 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088118/638
  • 1913 「義勇:(い)義を見ていさむこと。又、義のために発する勇 (ろ)義にあつくして勇あること。又、義心と勇気と。(は)国家または官府の強制によらず人民自ら進みて公共のために盡くすこと。又、其ために組織せられて防備又は戦闘に従ふ団隊」大正漢和大辞典,三省堂 編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936730/131
  • 1914 「義勇:義の心より出づめ勇。義勇兵」漢和大辞書,興文社 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936745/906
  • ●1915年義勇「君國の爲めに一身を捧げ、進みて事を爲すこと。「義勇公に奉ず」ぎゆうほうこう{義勇奉公 義勇を盡くして、君國の爲めに一身を犠牲にすること。」大日本国語辞典第1巻,金港堂書籍,上田万年他著 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954645/596
  • ●1917年義勇 1.義に勇む心2.義勇兵〔義勇兵〕義のために人民の自ら進みて組織する兵。〔義勇奉公〕國のため一身を砕きて盡すこと。〔義勇艦隊〕平時は海運に従ひ、戦時に軍艦に艤装して、戦闘に加はる商船の國體。 大字典 上田万年 等編 啓成社 大正6年 1917年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950498/913
  • 1919 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958699/596
  • 義勇 イ 義にいさむこと 大漢和辞林 後藤朝太郎 等編 朋文堂書店 大正8年 1919年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958699/596
  • 義勇 1.義に勇む心2.義勇兵〔義勇兵〕義のために人民の自ら進みて組織する兵。〔義勇奉公〕國のため一身を砕きて盡すこと。〔義勇艦隊〕平時は海運に従ひ、戦時に軍艦に艤装して、戦闘に加はる商船の國體。 大字典 上田万年 等編 啓成社 大正9年 1920年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950499/911
  • 1921 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936723/652
  • 義勇 1.正義と勇気と。2.正義に基きたる勇気。 義勇、公に奉す。[句]義勇を以て、君國に盡す。義勇奉公。 義勇奉公[句]前條に同じ。 言泉 : 日本大辞典. 第2巻 落合直文 著 大倉書店 大正10-11年 1921-22年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969160/76
  • 1922大正漢和字典・育英書院 義勇奉公- http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958759/580
  • 1922 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958745/331
  • 義勇 義心から出る勇気、忠義で勇気のあること「義勇奉公」 大正漢和字典 保科孝一, 湯沢幸吉郎 編 育英書院 大正11年 1922年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958759/580
  • 義勇 1.正義の心より出づる勇。2.義勇兵。 義勇兵 軍籍にあらざる者が志願してなりし兵士。 字源.  全  簡野道明 著 北辰館 大正12年 1923年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950550/782
  • 1924 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936718/578
  • 1925 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018382/666
  • 義 〇正しきすぢみち、のり(法)五常の一「仁-禮智信」〇君臣の閒の道徳、五倫の一。中庸〇むね、わけ(意旨)〇行事の正しき理に適すること〇善行の人に遇ぐれること 又は公共の爲めにする心がけ。又、其の人〇みさを(節)〇衆のたふとび戴くこと。
    義勇 〇正義の心より出づる勇。〇義勇兵。 義勇兵 軍籍にあらざる者が志願してなりし兵士 字源 簡野道明 著 北辰館 大正14年 1925年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021128/773
  • 義勇 1.義の心より出づる勇。2.義勇兵。 新訳漢和大辞典 浜野知三郎 編 六合館 大正14年 1925年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936724/655
  • 義1.みち。のり。(い)五倫の一、君臣の間に於ける道徳〔中庸〕(ろ)五常の一、正しいすぢみち「仁-禮智信」2.わけ。むね。物事の意味。3.正しい行。又、こころがけ。4.他人と憂ひを同じ5.血縁にあらずして親戚の関係にある間柄。
    義勇 1.正しい道理のためにいさむこと。2.忠義と勇気と。3.義勇兵。義兵。 義勇兵 軍人でない者が自ら進んでなる兵士。義兵。義勇。
    大漢和辞典 服部宇之吉 編 春秋書院 大正14年 1925年
  • ■1926明解漢和大字典・石塚松雲堂 「君國のために一身を犠牲となすこと。」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019913/657
  • 義 1.衆の尊び戴くこと。2.衆と事を共にすること。他と憂苦を同じくすること3.物事の理に適ふこと。制裁の宜しきに合ふこと。4.よき行の人に過ぐること。5.外表に附属すること。6.他の飲料と混和したること。7.血縁外の人と血縁の関係を約すること。8.禽獣の?きこと。9.すぢみち イ 人の履行すべき正しき條理。人の執り守るべき常の分限。 ロ わけ。むね。物事の意旨。 
    10.よし。よろし。きりもり宜し。すぢみち正し。11.儀に通じ用ふ。12.宜に通じ用ふ。
    義勇 1.義を見て勇むこと。2.忠義と勇気と。又、忠義に篤く勇気多きこと。3.君國のために一身を犠牲となすこと。國家社會のため事をなすこと。明解漢和大字典 土屋鳳洲 著 石塚松雲堂 大正15年 1926年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019913/657
  • 義勇 1.忠義で勇気のあること。 2.正義にいさむこと。 義勇兵 ぐんじんでない人が自分からのぞんでなつた兵。 詳解漢和新辞典 保科孝一, 塚田芳太郎 著 健文社 大正15年 1926年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/919491/270
  • 義勇 1.義を見て勇むこと。2.忠義と勇気と。又、忠義に篤く勇気多きこと。3.君國のために一身を犠牲となすこと。國家社會のため事をなすこと。 新漢和辞典 松雲堂編輯所 編 松雲堂 昭和2年 1927年
  • 義勇 正義と勇気と。 正義に基きたる勇気。君國の爲めに一身を捧げ、進みて事を爲すこと。「義勇公に奉ず」 ぎゆう ほうこう {義勇奉公 義勇を盡くして、君國の爲めに一身を犠牲にすること。 義勇兵 はなし 大日本国語辞典. 巻1 上田万年, 松井簡治 著 富山房 昭和3-4 1928-29年
  • 義勇兵と言うのは今日まで用いられていた傭兵の別名ではない。国民が総て統制的に訓練せられ、全部公役に服し、更に奉公の精神に満ち、 真に水も洩らさぬ挙国一体の有様となった時武力戦に任ずる軍人は自他共に許す真の適任者であり、義務と言う消極的な考えから義勇と言う更に 積極的であり自発的である高度のものとなるべきである。戦争史大観,石原莞爾 http://www.aozora.gr.jp/cards/000230/files/55635_49037.html
  • 義勇 義の心より出づる勇気 義勇奉公 君國のために一身を犠牲として力を盡すこと。 詳解新漢和大辞典 久保天随 編 有宏社 昭和4年 1929年
  • 義(1)人の履み行ふべき道。人の守るべき法則。行ふべきことを爲し、爲すべからざることをなさぬこと。五常の一としては特に君臣間にて守るべき道徳をいふ。
    (2)(訓)ヨシ・ヨロシ すぢみち正し。道理に適ったこと。正し。(3)わけ。意旨。意味。(4)めぐみ。徳惠。(5)つとめ。職分。
    大辞典. 第七卷 平凡社 編 1934-1936 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873360/166
  • 義勇 1.正義のためにいさむこと。2.義と勇と、忠義と勇気と。3.義勇兵。 義勇兵 身を軍籍におかぬ者が志願してなつた兵士 義勇奉公 君國のために一身をささげてつとめること。 新修漢和大字典 小柳司気太 著 博文館 昭和11年1936年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126476/608
  • 義 イ 五倫の一、君臣の道 ロ 五常の一、正しいすぢみち ハ 君國また公共の爲に盡す心がけ ニ 他人同志で結んだ親類 ホ わけがら、意味
    義勇 イ 義にいさむ ロ 義と勇 ハ 義勇兵 現代漢和大字典 日本通信大学法制学会編輯部 編 日本通信大学法制学会 昭和13年1938年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1106897/660
  • 義 1.五常の一。行為の道に合ふこと。制裁の理に適ふこと。己れの利害を顧みずして、人道の爲めに盡くすこと。2.道理。理由。3.わけ。すぢ。意味。趣意。4.説法。説義。5.親子又は兄弟に擬すべき情誼。
    義勇「1.正義と勇気と。2.正義に基きたる勇気。君國の爲に一身を捧げ、進みて事を爲すこと。「義勇公に奉ず」」 義勇兵 1.國家の強制によらず、人民の自由意思によりて兵役に服するもの。 又は、これによりて組織したる軍隊。2.軍隊に編入せられざる普通の人民の、戦時に自ら兵器を執りて敵に當たるもの。ぎゆうほうこう{義勇奉公 義勇を盡して、君國の爲に一身を犠牲にすること。 大日本国語辞典. 卷二 上田万年, 松井簡治 共著 富山房 1940-1941http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870644/73
  • 義 イ 五倫の一、君臣の道 ロ 五常の一、正しいすぢみち ハ 君國また公共の爲に盡す心がけ ニ 他人同志で結んだ親類 ホ わけがら、意味
    義勇 イ 義にいさむ ロ 義と勇 模範漢和新辞典 遠藤隆吉 編 成光社 昭和18(1943年)
  • 義勇 イ 義にいさむこと。ロ 義と勇と、忠義と勇気と。ハ 義勇兵、義兵。〔文献通考 兵考〕 義勇兵 身を軍籍におかぬ者が任意に志願してなつた兵士。 義勇、義兵。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126477/793 詳解漢和大字典 服部宇之吉, 小柳司気太 共著 富山房 昭和18(1943年)
  • 義勇「正義の心からでる勇気」 標準漢和字典 国語研究会 編 帝国図書1947 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1150835/175

教育勅語 現代語訳

2017年03月18日 04時45分32秒 | 政治

教育勅語を現代語訳しました

 

国の教育指針とするには戦後憲法が主権在君から在民へ変わり、大日本帝国憲法に従い神話的背景があった点も信教の自由に抵触するようになったものの、 教育勅語は法律ではないので国の教育の根幹の役割からの 排除効力の無効をわざわざ議会で決める手間があったようです(GHQによる指導がありました)。天皇の言葉の政治性について考えさせられます。 とても古めかしい文章ですが、当時の 不平士族の反乱なども鑑みて読むと、儒教的・和魂洋才的な考えが同居していてなかなかに興味深いと思いました。 (このページの次の記事では なぜ教育勅語は戦争標語へと変化していったのか、その原因についての仮説を書きました。)
大日本帝国憲法交付後、憲法施行約一か月前の1890年(明治23年)10月30日に教育勅語は発布されました。

 

教育勅語

 

“朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ”
「朕(おも)うに 我が 皇祖皇宗国を (はじ)むること 宏遠に 徳を樹つること 深厚なり 」
『帝たる我がおもうに、我が皇室の祖(神々まで含める or 神武天皇(始馭天下之天皇)・崇神天皇(御肇國天皇))ならびに歴代の天皇の国始めには、広大で奥深く德を身につけた、 深遠なる意味があった憲法御告文より)。』

 

“我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス”
「我が臣民 克(よ)く に 克く に 億兆心を 一にして  世々厥の美を済せるは 此れ我が国体の精華 にして 教育の 淵源 (また) に此に存す」
『我が臣民はよく真心と良心に従い(※忠)、とても孝行し、 万民みなで心を一つにして先人の善行や美徳を代々受け継いできたのは、 我が国の国家体制の最も優れた点であり、教育の始まりもまた実にここにあります。』

 

“爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ”
「爾(なんじ)臣民 父母に孝に 兄弟に友に 夫婦相和し  朋友 相信じ 恭倹己れを持し 博愛衆に及ぼし」
『あなた方臣民は父母に孝行し(※孝)、兄弟や友達や夫婦仲良くし(※悌)、 同門の友とはお互いに信頼し合いて(※)、 他人に対してはうやうやしく自分に対しては慎み深く振る舞いて(※)、 民衆には博愛をいきわたらせて(※)、』

 

“學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ”
「学を 修め業を習い 以て 智能を啓発し徳器を 成就し 進で公益を 広め世務を開き 」
『学問をして仕事を習得しそれにより知力を啓発し天賦の才能を開化させて(※)、 自発的に公共の利益を広めて世の中への務めを進めていって、』

 

“常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”
「常に 国憲を重じ 国法に 遵い 一旦緩急あれば 義勇(ぎゆう) 公(こう)に (ほう)じ 以(もっ) て  天壤無窮皇運扶翼 べし 」
『いつでも国の憲法を重視し法律を遵法して、ひとたび急になみなみならぬ事がさしせまれば、正義により発する(※)勇気義勇おおやけ・朝廷・衆人・世間・つとめ・天子……)へ差し上げて、 それらによりて の不朽なる天壌無窮;from憲法告文, 日本書紀 天子天皇・皇帝・帝王・王の宝座の資格を告げられる運星皇運皇位(玉座や星辰の名ざし)の時間・方角(時刻日月年四季節気)の循環・変化。星移斗転を(臣民・)助ける扶翼ことでしょう。』

 

皇運(謂享有皇位的氣數、引用:漢 史岑 《出師頌》:“皇運來授,萬寶增煥。”)-  to designate 享有 to enjoy (rights, privileges etc) 皇位(的) (as) the title of Emperor氣數 destiny; つまり「天子の宝座の資格を告げられる運命」であり、皇室や皇国、国家や天皇という意味ではありません。

 

メモ:(扶翼は鳥の両翼または雄雌のつがいのイメージも。皇は鳳凰・鵬 おおとり-鳳は雄、凰は雌。 扶翼=たすける・輔は北斗の輔星のイメージも。東方の太陽が昇る日の本の神樹、扶木・ 扶桑 は日本の美称(山海経卷十四大荒東經:太陽には烏(カラス)がのる。三足烏は記紀八咫烏をイメージさせる)。 皇運は皇位(皇帝・天皇・帝王の玉座or星名指)の気運(運星)。天皇や皇帝や帝王や大王の座すは、北の空の紫微垣の天皇大帝、帝、北辰(北極星)。日昇る処の天子・天皇は神話的には太陽の女神・天照大神の子孫という設定なので、より暦と収穫に関係し、国民の食糧と生存を護り祈る存在でもある。その詩的な表現か。( 天人相関説 ) 。

国立科学博物館

 

背中に北斗七星、肩に三足烏の太陽が刺繍された明治天皇の父帝、孝明天皇の 袞龍御衣
北辰の歳差運動(約26,000年周期)または北辰を一年で巡り節季を刻む北斗のような時間と季節の流れの表現か。 北辰は歳差するので天の北極は常に空(虚空)、その下の扶桑国-"虚空見日本国"-にかけてあるかもしれません。 なお北斗七星・北辰(北極星)信仰の皇室以外は禁止の令は、解除された記録がありません)。

皇運の皇は天皇・地皇・人皇(泰皇)の三皇・天・地・人、字源は燭台の上の三つの灯、火が灯れば煌(煌煌で輝き:「明星煌煌」 詩経国風「 東門之楊
皇皇者華  天子遣使四方、以觀省風俗、采察善惡、訪問疾苦、宣道化于天 下、下國蒙被聲敎、是有光華。皇皇、猶煌煌。光采之狀。皇華之光明於 野、猶王澤之流布光華天下也。
皇皇者華[こうこうしゃか]   天子使いを四方に遣らしめ、以て風俗を觀省し、善惡を采察し、疾苦を訪問して、 道化を天下に宣べて、下國聲敎を蒙り被れば、是れ光華有るなり。皇皇は、猶煌煌のごとし。光采の狀 なり。皇華の野に光り明らかなるは、猶王澤の天下に流れ布き光り華[かがや]くがごとし。 欽定四庫全書,程氏経説巻四,小雅 鹿鳴, | 欽定四庫全書,程氏經說卷四,小雅鹿鳴
 

皇運謂享有皇位的氣數。」, 皇位「皇帝的宝座。指星名。」, 氣數 「氣運,命運。指節氣。」, 氣運 節候的流轉變化。氣數,命運。」, 命運 「天命運數。」, 節氣古代曆家以冬至起每三十度(日)的十二個氣分配十二個月」, 節候「時令氣候。」

 

斗転星移:「星斗變動位置。指季節或時間的變化。表示時序移轉,光陰流逝」,「…… 斗は転じ星は移るなり ……歳差運動で恒星の位置が変わる……」 肝冷斎日録

 

《「緩急」をあえて「急に差し迫った戦争」へ限定し、かつ、義勇を 「義心から發する勇氣(84頁大漢和辭典縮寫版巻九,大修館書店昭和53年)」 だけでなく「義勇兵の略(前著)」とするならば》 急な事変や戦争が始まれば《教育勅語発布の翌月に施行された憲法第二十条の兵役の義務による徴兵ではなく》 義勇兵《 徴兵によらないで、自発的に軍に参加する兵。また、戦時に義勇軍に属して戦う兵 , 身を軍籍におかない者が任意に志願してなつた兵士。義勇に激して軍隊を編成し国家を助けるもの。義勇隊。(前著)》 として社会国家へ奉じor俸禄(官の報酬)を受け( 公奉:猶俸祿。奉,通“ 俸 ”。引用:《南史·褚裕之傳》:“﹝ 褚球 ﹞仕 齊 為 溧陽 令,在縣清白,資公奉而已。”)《3月18日追記:詔勅「 義勇兵ノ団結ヲ止ム 」が1894年8月7日出ているので、当時は「義勇は義勇兵」という認識は共有されていたのではないかと 筆者は推測しています。》、

 

“是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン”
「是の如きは 独り朕が忠良の臣民たるのみならず 又以て 爾祖先の 遺風を顕彰するに足らん」
『これらのようなものは、単に帝の善良な臣民であるというだけではなく、あなた方の祖先の教えを讃え伝えることでも あるだけでなく』

 

“斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス”
「 斯の道は 実に我が皇祖皇宗の 遺訓にして  子孫臣民の倶に遵守すべき所 之(これ)を古今に通て謬らず 」
『この道は、正に我が皇室の祖先や歴代の天皇が残した教えであり、その皇孫と臣民は共に遵守するべきもので、今も昔も変わらず謬りのない、 』

 

“之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ”
「之を 中外に 施し 悖(もと)らず 朕爾臣民と倶に 拳々服膺して  咸其の徳を一にせんことを庶幾う 」
『これを朝廷の内と外「朝廷の内と外……〔後漢書、宦者傅論〕中外服従、上下屏氣,大漢和辞典縮小版第一巻P294大修館書店」)で使っても道理にそむかず、帝たる我は、あなた方臣民と共に固くこれらのことを心に留めて、 みなでその徳でもって一致天人合一)することを心から願っています』

 

文部省図書局「教育に関する勅語の全文通釈」『聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告』文部省図書局,1940年(昭和15)2月発行収録

 

太平洋戦争開戦前年の解釈です。かなり軍国主義的に意味を改変していると思われます。
原文「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」ですが、下記翻訳では「以テ((それら)によって)」を削除し、「義(正義)」を「大義(忠誠)」に、奉じるものを「義勇」から「臣民自身の一身」に、「皇運(玉座継承の運星)」を「皇室国家」に、奉じる先を「公」から「皇室国家」に、「扶翼(助ける)」を「つくせ」へと改竄しています。

 


朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇めになつたことは極めて広遠であり、徳をお立てになつたことは 極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして 代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であつて、教育の基づくところもまた実にこゝにある。 汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合ひ、朋友互に信義を以て交り、 へりくだつて気随気儘の振舞をせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、 善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の 法令を尊重遵守し、 万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて 皇室国家の為につくせ。 かくして神勅のまに/\天地と共に窮りなき宝祚[あまつひつぎ]の御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、 たゞに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をは つきりあらはすことになる。


こゝに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになつた御訓であつて、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が 共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり 用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守つて、皆この道を体得実践することを切に望む。 佐藤秀夫〔編〕『続・現代史資料 9 教育 御真影と教育勅語 2』(みすず書房、1996), p. 356 を 日夜困惑日記@望夢楼より孫引き

 

教育勅語現代送り仮名

 


朕(ちん)(おも)うに 我(わ)が 皇祖(こうそ) 皇宗(こうそう) 国(くに)を (はじ)むること 宏遠 (こうえん)に 徳(とく)を樹(た)つること 深厚(しんこう)なり
我(わ)が臣民(しんみん) 克(よ)く (ちゅう)に 克(よ)く (こう)に 億兆(おくちょう)心(こころ)を 一(いつ)にして  世々(よよ)厥(そ)の美(び)を済(な) せるは 此(こ)れ我(わ)が国体(こくたい)の精華 (せいか)にして 教育(きょういく)の 淵源(えんげん) (また) (じつ)に此(ここ)に存(そん)す
爾(なんじ)臣民(しんみん) 父母(ふぼ)に孝(こう)に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦(ふうふ)相(あい) 和(わ)し  朋友 (ほうゆう)相(あい)信(しん)じ 恭倹(きょうけん)己(おの)れを持(じ)し 博愛 (はくあい)衆(しゅう)に及(およ)ぼし
学(がく)を 修(おさ)め業(ぎょう)を習(なら)い 以(もっ)て 智能(ちのう)を啓発(けいはつ)し徳器(とくき)を 成就(じょうじゅ)し 進(すすん)で公益(こうえき)を 広(ひろ)め世務(せいむ)を開(ひら)き
常(つね)に 国憲(こくけん)を重(おもん)じ 国法(こくほう)に 遵(したが)い 一旦(いったん) 緩急(かんきゅう) あれば 義勇(ぎゆう)(こう)に (ほう)じ 以(もっ) て  天壤(てんじょう)無窮(むきゅう) 皇運 (こううん) を扶翼 (ふよく)すべし
是(かく)の如(ごと)きは 独(ひと)り朕(ちん)が忠良(ちゅうりょう)の臣民 (しんみん)たるのみならず 又(また) 以(もっ)て 爾(なんじ)祖先(そせん)の 遺風 (いふう)を顕彰 (けんしょう)するに足(た)らん 斯(こ)の道(みち)は 実(じつ)に我(わ)が皇祖 (こうそ)皇宗(こうそう)の 遺訓(いくん)にして  子孫(しそん)臣民(しんみん)の倶(とも)に遵守 (じゅんしゅ)すべき所(ところ)
之(これ)を古今 (ここん)に通(つうじて謬(あやま)らず 之(これ)を 中外(ちゅうがい)に 施(ほどこ)し 悖(もと)らず 朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)と倶(とも)に 拳々 (けんけん)服膺 (ふくよう)して  咸(みな)其(その) 徳(とく)を一(いつ)にせんことを庶(こい)幾(ねが)う
明治二十三年十月三十日 御名(ぎょめい) 御璽(ぎょじ) 明治神宮

 

教育勅語原文

 


朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコ
ト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ
臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニ
シテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國
體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此
ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫
婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以
テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益
ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國
法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ
以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是
ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナ
ラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足
ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシ
テ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所之ヲ古
今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖
ラス朕爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸
其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽

 

大日本帝国憲法

 

公布:1889年2月11日、施行:1890年11月29日

 

告文

 


「……皇宗ノ神靈ニ誥ケ白サク皇朕レ 天壤無窮宏謨循ヒ  惟神 寶祚 ヲ承繼シ舊ヲ保持シテ 敢テ 失墜スルコト無シ」 Wikisource

 


「皇朕れ天壌無窮 (てんじょうむきゅう)の宏謨(こうぼ)に循(したが)ひ、惟神(かむながら)の宝祚(ほうそ)を承継し、 旧図(きゅうと)を保持して、敢(あえ)て失墜すること無し。」 帝国憲法を読んでみよう① 御告文

 

意訳「帝たる私は天地の様に永遠な大諜に逆らわず、ひとすじに神の道を重んじ天子の御位を継承し、 昔からの大諜を保ち続け、終わることはまったくもって無い」

 

第一章 天皇

 


第一條  大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

 


第一条  大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」

 

第二章 臣民權利義務

 


「第二十條 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ從ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」

 


第二十条  日本臣民は法律の定むる所に従ひ兵役の義務を有す」


饒速日の哮峯天孫降臨。鳥見白庭山は鳥見白山?

2017年03月10日 01時06分19秒 | 神話・伝承・民話

饒速日の天孫降臨。鳥見白庭山か鳥見白山か?

「虚空見日本国」という言葉からは天に衝き抜ける宙の果てなく広がる中空を想念いたしますが、金鵄が風に乗って大和盆地の空を大らかに飛翔し続ける視線からはそのような光景が見えているのでしょうか。

天磐船、金鵄、八咫烏、鳥見など、飛翔する大和の神話世界ですが、天孫降臨神話の地名について以前から少し気になっていた点があり確認しました。(※後日の記事で哮峯と天磐船の具体的な伝承地について記載しています)

饒速日天孫降臨は鳥見白庭山ではなく鳥見白山

記紀によれば邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨後、その子孫の神武天皇が九州地方から東征して奈良(大和国)へ入る前に、饒速日が大和へ天孫降臨しています。

「抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」 http://mmm4382.hatenablog.com/entry/2017/01/23/220133
ところで鹽土老翁(シオツチノオジ)から聞いたのだが、『東に美(ウマ)し国がある。青い山を四方に囲まれて、その中に天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛んで降りた者が居る』とのこと。 思うに、その土地は必ずこの大きな事業を広め、天下に威光を輝かせるに相応しい場所だろう。六合(クニ=国)の中心となるだろう。 その飛び降りた者とは饒速日(ニギハヤヒ)だろう。その土地へと行って、都にしようではないか 日本書紀 神武記 即位前紀−2 http://nihonsinwa.com/page/854.html

邇邇芸命(ニニギ)と饒速日命(ニギハヤヒ)の天孫降臨ですが、先代旧事本紀によるとニギハヤヒの河内国への天孫降臨が先です。

「饒速日尊稟(襄) 天神御祖詺(詔) 乗天磐船 而天降坐於河内國河上哮峯 則遷 坐於大和(倭)國鳥※見(トミノ)白山 所謂乗 天磐船 而翔 行於大虚空 巡 睨是郷 而天降坐矣即謂 虚空見日本國是歟」難註先代旧事本紀,寂顕 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2546718/82http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553447/52 | http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563302/8

饒速日尊は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。 http://mononobe.webcrow.jp/kujihongi/yaku/tenjin.html

河内国河上哮峯→大和国鳥見白山→大空巡りて、「虚空見日本国」はこれか?と述べています。
ではそれぞれの地名はどこか具体的な地名に該当するのでしょうか。それとも神話的世界の常で、心の現実(ファンタジー)を指しているに過ぎないのでしょうか?

神武天皇聖蹟調査委員会

戦前は国家神道の影響で神武天皇東征神話は政治利用されていたようです。紀元二千六百年奉祝記念事業として、昭和13[1938年 大和宇陀郡神武天皇聖蹟圖繪がまとめられました。これらの事情で、地名自体が変更されている可能性もあるようです。

鳥見の鳥は鳥ではない

画像で記したように、鳥見の漢字の鳥は鳥ではありません。非常に変形した形であったり、点が3つであったりしています。こちらは他の鳥です。

 

白庭ではない

原文には「庭」という文字が見当たりません。ネットでも広く「白庭」という説が見られますが、近鉄が開発している新興住宅地の白庭台やその近辺の古地図でも白庭という地名を確認できません(追記:天孫の部では鳥見白庭山となっています。また、「富雄川と「富の小川」では角川地名大事典 鳥見を引用して由来を記しています。これらは昭和13年の「神武天皇聖蹟調査委員会」の影響を強く受けているようです。)

闕画?

中国の辞典「康煕字典」では皇帝の名前を記すのに闕画したので、点点が一個少ない鳥や、不思議な形をした鳥も、もしかすると高貴な存在に対する闕画かもしれません。

畢方?

中国の山海経に出てくる東方に住む一本足の鳥、畢方のような霊力のある鳥にちなむ地域をあらわしたかもしれません。闕画はその神獣にたいするものなのかもしれません。

金鵄?八咫烏?

神武天皇を導いた金鵄や八咫烏のことかもしれません。

島?

鳥の下の点が3点なので、島の略字(島見白山)かもしれません。奈良盆地南部は昔、湖でした。その湖に浮かぶ島状の地形があったのかもしれません。

鳥見白庭ではなく鳥見山か

一番可能性が高いかもと思うのは、非常に重要な祭祀の場所、靈畤の鳥見山です。金鵄の神話と関係がある地名のようで、皇祖の天神がまつられています。しかし日本書紀の鳥見は先代旧事本紀と違って鳥の漢字は通常の鳥です。

「及皇軍之得鵄瑞也、時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也。」 日本書紀http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html | http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563100/16
「皇軍は、輝く鵄に助けられたので、ここを鵄邑と改名した、それが訛って鳥見となったという。」 http://hjueda.on.coocan.jp/koten/shoki9.htm
「四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。」日本書紀”神武天皇四年春二月壬戌朔甲申の条” http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_03.html
「わが皇祖の神霊の御加護によって大和を平定することができた。よって天神を郊祀し、大孝を申べようとおもう。よって霊畤を鳥見山の中に立てて、皇祖天神(みおやのあまつかみ)をお祀りもうしあげた、」 http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/102.htm

桜井市の鳥見山説

麓には等彌神社や桜井茶臼山古墳があります。

鳥を見る白山で「虚空を見る日本国」?金龍山 長福寺

金龍山長福寺から見た冬至の日の出は、虚空蔵山と国見山の間から登ります。「虚空見日本国」?というニギハヤヒの問いかけは神武天皇に先立つ初めての国見でもあるので、神話の物語性の意味を国の地理へ意味づけする地としては有意義な場所かもしれません。

大和国・金龍山長福寺から見た冬至の日の出

また、奈良県には2つの鳥見山がありますが、春分の日の標高700m代の鳥見山も、冬至の日の桜井市の鳥見山も、日の出は国見山から上ります。鳥見山が国見に意味づけられているようです。

鳥見山の日の出・冬至

鳥見山の日の出・春分の日

鳥見白山の鳥とは迦陵頻伽(妙声鳥)?

金龍山長福寺の本堂柱に迦陵頻伽が描かれているのが見つかりましたが、その鳥とは迦陵頻伽(妙声鳥)でしょうか?そしてあの「鳥見白山」の鳥は闕画であり、それは迦陵頻伽(妙声鳥)への畏れを表現するためのものなのでしょうか。国宝の金銅能作生塔には、ここが中心であればという開祖・行基の祈りがあった?のかもしれません。

県教育委員会は3日、解体修理中の長福寺本堂(生駒市俵口町、国重要文化財)の内陣柱に、上半身が人で下半身が鳥の想像上の生物「迦陵頻伽(かりょうびんが)」が描かれていたと発表した。

柱に迦陵頻伽図 - 長福寺本堂 2014年7月4日 奈良新聞 http://www.nara-np.co.jp/20140704103657.html
長福寺は聖武天皇の勅願で創建されたと伝えられ、本堂は瓦葺きの入り母屋造り。平成24年から解体修理が行われ、それに伴う調査で堂内の柱などから大日如来図、迦陵頻伽(極楽浄土に住む想像上の鳥)図、三千仏図、弥勒来迎図などの絵画が確認された。  県教委では奈良教育大の大山明彦教授と京都造形芸術大の山田真澄准教授の協力で絵画の復元作業を進めており、特別陳列では鮮やかな彩色で復元された大日如来図や迦陵頻伽図を見ることができる。

極楽に住む鳥の姿も 生駒の長福寺の仏画復元図公開 橿考研博物館 2016年03月19日 産経新聞奈良支局 最新ニュース http://sankei-nara-iga.jp/news/archives/6639
金銅能作生塔〔こんどうのうさしょうとう〕国宝
 総高26.3cm  銅製  鎌倉時代
  能作生塔は仏舎利〔ぶつしゃり〕を納める舎利塔の一種で、能作生とは万物生成をつかさどる根源の珠・如意宝珠〔にょいほうじゅ〕を納める塔です。水瓶〔すいびょう〕形に作り、頂には三方火焔〔かえん〕付き宝珠を蓮台にのせ、塔身部は魚々子〔ななこ〕地に蓮華唐草〔れんげからくさ〕文様を線刻し鍍金〔ときん〕・鍍銀〔とぎん〕を施し、中央で上下に分かれ蝶番〔ちょうばん〕止めとしています。当時の代表的な金工作品といえます。

http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/11/1102chofukuji/110202kongonosa/110202kongonosa.php

饒速日の子孫、恵賀美神社(万年山古墳)と鳥見山

ニギハヤヒの子孫・伊香色謎命(伊迦賀色許売命)は孝元天皇との間に彦太忍信命、開化天皇との間に崇神天皇と御真津比売命をもうけたことになっていますが、そのゆかりの地が肩野物部の地・交野ヶ原の伊加賀町ではないか?とうたがわれています。万年山古墳(恵賀美神社)からは大陸から伝わった鏡が八面出土しています。

恵賀美神社も、ニギハヤヒ天孫降臨と関係があるとされる鳥見山周辺も、高龗神(淤加美神)が主祭神です。

恵賀美神社と鳥見山を線で結んでみると恵賀美神社→獅子窟寺境内→大庵寺跡境内→西大寺境内→虚空蔵山大国見山飛び火山龍王神社境内→高龗神社境内→鳥見山と、水の神様の間に仏様がはいるラインになります。
ニギハヤヒが降臨した哮峯の伝承地と鳥見山をつなげると、哮峯→磐船神社境内→宝来山古墳・垂仁天皇陵内(ニギハヤヒの子孫・香色謎命の孫)→唐招提寺境内→鳥見山とつながります。

鳥見白山の白山は金剛山?

河内国河上哮峯(交野市の岩山または二上山?)→大和国鳥見白山(鳥見山?)→虚空見日本国(長福寺?)となるのでしょうか?

大阪と奈良をまたがる金剛山山頂や、麓の一事主神社から夏至の日の出を見ると、鳥見山と鳥見山の間の額井岳(ぬかいだけ・大和富士)から上ります。額井岳の山姿は漢字の山の様に3ピークで、その姿は先代旧事本紀の「鳥見白山」の3つの点々の鳥の文字のようにも見えます。3つの点々の鳥-鳥見山と3ピークの大和富士と鳥見山を眺める白山が金剛山(葛城山)であった?とも感じられます。

どの説が有力かは、住んでいる町次第でしょうか。だいたい、地元びいきなようです。