アテルイ阿弖利為の処刑地と埋葬地は同じ?
ドラマや歌舞伎、演劇で有名な東北の英雄、アテルイは802年に河内国で処刑されたと記録されています。
処刑地と埋葬地はどこでしょう?筆者のアテルイのお墓の場所の推定はこちらです
「斬於河内国椙(?)山」日本後紀
- 椙山
- 杜山(牡山=男山?))
- 植山(=上山→宇山?)
- 「搵(ヲン,ウン,ヲツ,ヲチ)〔意味:没、殁〕」山(大漢和辞典より)
- 「榲(ヲツ,ヲチ,ウン,ヲン,ヰン)〔烏、杜、柱、杉、根、木盛皃、櫝(ひつぎ)〕」山(大漢和辞典より)
搵山または榲山という名前の山が当時あった?
搵山(搵=没、殁)や榲山(榲=烏、杜、柱、杉、根、木盛皃、櫝(ひつぎ))という山が当時あったのかもしれません。
宇山-河内国交野郡一の宮・片埜神社横の通称首塚では?
2007年、関西岩手県人会、羽黒山出羽神社、胆江日日新聞社、音羽山清水寺、片埜神社他の方々の寄付で河内国交野郡にあたる宇山バス停前の牧野公園に伝阿弖流為・母禮之塚が建設されています。片埜神社(延喜式内社)境内ではなく、道路を隔てた隣の牧野公園内にあります。
牧野公園内の該当する塚やその周囲にあった古墳はより古い時代のものです。その塚や古墳の上から阿弖流為が埋葬されたとしても矛盾はありませんが、
しかし禁野-天皇や貴族以外の鷹狩りを禁じられた場所であるため殺生は無いはずという「河内国禁野交野供御所定文」を元にした馬部隆弘氏の説もあります。
それに対して阿弖利為阿弖流為が没した西暦802年頃は禁野は天皇・貴族以外の「狩り」は禁じられたものの、殺生への禁忌思想自体はまだ発生していないとの指摘があり、河内国で平安京に最も近い交野郡の宇山周辺のこの地もあり得るかもしれません。
「とすれば、鷹飼と殺生禁断とが明らかに結びつけられたのは三代の格が編纂された時期(八世紀~十世紀初頭)ではなく、『類聚三代格』が編纂された時期(恐らくは十一世紀)ではないか。」竹ヶ原康弘,『徒然草』第百二十八段に関する小考,国語論集,215頁,2012年
片埜神社隣牧野公園内の伝阿弖流為・母禮之塚。その隣の坂公園や周辺には複数の古墳が存在します(例:宇山1号墳、2号墳、牧野坂古墳)。
宇山一号墳から出土した銀象嵌直刀鍔
桜の名所の公園の真ん中の塚が該当の塚です。昔から地元では大王のような偉い人の首塚と言われてきました。小さな碑が現在の碑の木を挟んだ裏側に昔からあったのですが、塚自体に登ることが禁でした。車道をはさんで隣の阪公園の古墳が胴塚だと伝えられてきました。
山城國と河内国の国境、山崎橋南詰め・男山の麓?
石清水八幡宮が鎮座する男山(標高約130m)と西側の鳩ヶ峰(標高約144m)現在の地名ではその南東に広がる地域も男山と呼ばれています。
阿弖利為阿弖流為は山崎橋南詰の男山の麓で処刑された説があります(桓武天皇,57-58頁,西本昌弘,山川出版社2013年)。
男山(牡山)の烽火や山﨑橋は山城国と河内国との共同管理。藤原種継が処刑された山崎橋の南詰ではないかという説です。
しかし住所が京都(山城國)で管理が山城國&河内國である山崎橋、"烽火"が共同管理だった牡山(男山)で処刑されたなら「山城國で斬された」と書くはずで奇妙に思います。
「牡山烽火。無所相當。非常之備。不可蹔闕。宜山城河内兩國。相共量定便處置彼烽燧。」日本後記,延暦十五年9月(796年)
「平安京遷都以来3年を経過し、男山の烽火は非常の備えとして不可欠なので、山城・河内両国による共同管理を命じている……境界施設を接した両国が管理するという体制は、対岸の山崎とを結ぶ山崎橋でも同様であった……山城・河内両国に命じて、橋南北両辺に橋守を置き、かつ橋辺に居住する有勢人も加わって橋を管理させる……つまり、古代山﨑橋は、山城・河内両国が官民一体で管理したのである。」179頁,上原真人,国境の(くにざかい)の山寺-石清水基地万宮前身寺院に関する憶測-
男山(雄徳山)は河内国所属だった?
地元の交野郡民が使用した埋葬地・雄徳山(男山)にて処刑された説もあります。
「禁葬埋雄河内国交野雄徳山。採造御器之土也。」類聚国史,巻七十九大同三年正月(808)
「また大同三年(808)には、供御器を造る土を調達する場所であるという理由で、河内国交野の雄徳山での埋葬が禁止されている。」82頁,井上真綾,牛山佳幸,古代日本における穢れ観念の形成,信州大学教育学部研究論集第9号,2016年
大同三年交野郡(のちに石清水八幡宮の神人が住む地域でもあった)の民が"交野郡"の雄徳山(男山)への埋葬を禁じられた件を前提とすると上記の河内国男山の麓の山﨑橋南詰で処された説もありえるように思えますが、交野郡の雄徳山の範囲が不明です。
供御器を造るために埋葬を禁じるということは陶土が出る場所のはずで、地質図を見ると交野天神社(足立寺瓦窯跡、樟葉平野山瓦窯跡の近く)、樟葉台場跡近辺久修園院周辺や男山断層沿い、洞ヶ峠近辺~美濃山(美濃山瓦窯跡群周辺)にかけて点在する陶土地質地が該当し、烽火を掲げる標高が高い鳩ヶ峰や男山並びに男山北側の山﨑橋も埋葬が禁じられた地域に該当しないと思われます。
もし鳩ヶ峰の南東方向麓の樟葉台場跡~久修園院付近や交野天神社周辺(その北側の八幡市には男山雄徳の地名が残っていますが)、または洞ヶ峠周辺地域も雄徳山と呼ばれる地域に当時含まれていたのであれば、河内国交野郡の民は埋葬地にしていてそれを禁じられたのかもしれず、そこで阿弖利為阿弖流為も処されたか埋葬されたのかもしれません。
京都西南部 産業技術総合研究所 地質調査総合センター 地質図類データダウンロード
陶土が出るであろう埋葬を禁じられた雄徳山や宇山周辺の他も含めて河内國のなんとか山で処されたのだと思われますが、もしウヤマという地名の可能性が高いのであれば、禁野から外れる(天の川以南)河内國交野郡の上ノ山遺跡も可能性はあると思われます。
処刑された地しか記されていませんが、埋葬地は処刑された地とは別で、それが宇山の塚であった可能性はあります。近接した片埜神社は河内国交野郡式内社二社のうちの一つで、すぐ東に式内社の久須々美神社がありました。その北側には渡来人が建設にかかわったと思われる古代寺院の九頭神寺があったことがわかっています。
陶土もでる河内国の交野天神社~捨翠寺周辺は山城國との国境ですし、同じく陶土が出る河内国最北端の久修園院周辺は北河内自転車道と木津嵐山自転車道を結ぶ地点で、淀川と男山に挟まれて道路がなく、淀川満水で自転車道走行不能の際に堤防上の車道走行を回避しようとすればここの大変広い農地の中の細い農道を通過するしかない国境。この地も雄徳山に入るのであれば阿弖流為が処刑された地の候補として有力だと思います。しかし明確な場所が判明しないのであれば、河内國の桜の名所・宇山で供養するのが一番良いように思いました。(より細かい検証をしてみました)