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万葉集「梅花歌三十二首并序」と政治的メッセージ、新元号「令和」

2019年04月08日 06時39分33秒 | 経済・社会

万葉集「梅花歌三十二首并序」と政治的メッセージ、新元号「令和」

知識人の方々の解釈がその政治的スタンスの反映となり、まるでロールシャッハテストのようです。ではこの万葉集・梅花歌三十二首并序から読み取れるメッセージはあるのでしょうか?

初春の梅と蘭の宴

天平二年正月十三日(西暦730年2月4日・おそらく立春)の大宰府大伴旅人邸宅の宴が梅花歌三十二首并序の舞台です。そこで「披(㆓)鏡前之粉(㆒)蘭薫(㆓)珮後之香(㆒)」とが詠まれます。「梅花歌三十二首并序」が引いた歌と言われる1つに東晋の王羲之の「蘭亭集序」があります。

蘭亭集序,王羲之

死を迎える人間の定めを嘆きながら、昔の文人の書に感嘆し未来の文人もまた王羲之達の残す書に感動するだろうと時を超える人間の営みを詠んでいます。

毎攬昔人興感之由若合一契。
未甞不臨文嗟悼。不能喩之於懷。
固知一死生爲虚誕、齊彭殤爲妄作。
後之視今亦由今之視昔。悲夫。
故列叙時人、録其所述。
雖世殊事異所以興懷其致一也。後之攬者亦將有感於斯文。

昔人の感を興すの由を攬る毎に、一契を合はせたるが若し。
未だ甞て文に臨んで嗟悼せずんばあらず。之を懷に喩ること能はず。
固より死生を一にするとは虚誕たり、彭殤を齊しくするは妄作たるを知る。
後の今を視るも、亦た由ほ今の昔を視るがごとくならん。悲しいかな。
故に時人を列叙し、其の述ぶる所を録す。
世殊に事異なると雖も、懷ひを興す所以は、其の致は一なり。後の攬る者も亦た、將に斯の文を感ずるところ有らんとす。王羲之:蘭亭序,古代文化研究所 古代史の謎に迫る

いにしえ人と梅花歌三十二首并序

万葉集・梅花歌三十二首并序も、いにしえにも今も異なることなく落梅の詩があるとうたっています。

詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園聊成短詠。
詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。資料編 蘭亭序と梅花謌卅二首の序文,竹取翁と万葉集のお勉強

「詩紀落梅篇」とは何か?

「詩に落梅の篇を紀(しる)す」とは何をさしているのでしょうか?「詩」とは詩経を指すと辞典には掲載されています。詩(し)。毛詩(もうし)。詩経,コトバンク(小学館・精選版 日本国語大辞典)

中国の詩経の落梅の詩

詩経の落梅の詩を探してみると、不穏な詩が見つかりました。警戒すべき人物がいると警告しても災いが具現化するまで気が付かないという唄です。

墓門有、 At the gate to the tombs there are plum trees;墓地の門の梅樹と
有鴞萃止。 And there are owls collecting on them.梅を集める梟達
夫也不良、 That man is not good,あの男はよくないと
歌以訊之。 And I sing [this song] to admonish him.彼に警告するためにこの唄を唄った
訊予不顧、 I admonish him, but he will not regard me; -私は彼に警告するけれど彼は耳を傾けないだろう
顛倒思予。 When he is overthrown, he will think of me.彼が倒れたら、私を思い出すだろう"墓門"陳風,詩經,中國哲學書電子化計劃

長屋王、元日の梅と蘭の宴「懐風藻」

「詩紀」といえるだろう日本最古の詩集「懐風藻」にも、落梅と解釈していいと思った詩がありました。
あの長屋王の詩でした。まだ権勢の頃の元日の宴の様子のようで、そこでは梅花歌三十二首并序と同じく「梅と蘭香」について詠まれていました。大伴旅人はこの元日の宴のことも「詩紀落梅之篇」に含み指したのだろうと思いました。

左大臣正二位長屋王 三首【五十四、又四十六】 067 
五言元日宴應詔

年光泛仙籞 月色照上春 玄圃已放 紫庭桃欲新
柳絲入歌曲 蘭香染舞巾 於焉三元節 共悅望雲仁
懐風藻,黄祖虹/浦木裕
新年の光が神仙の御所(仙籞)を照らし、正月の陽光が初春に輝いている。
崑崙の園圃(玄圃)の梅が色褪せるのに代わって、禁苑(紫庭)の桃が咲き始めて いる。
柳の糸花が歌舞音曲に入り混じり、りが舞人の頭巾を染める。
ここに三元節を迎え、雲の如く大いなる仁慈を仰ぐことを共に喜ぶ。『懐風藻』-春の宴の蘭,夏井高人,2016/6/27

藤原不比等と梅と蘭香

懐風藻に藤原不比等の蘭の詩があり梅と蘭をうたっていますが、梅は花ではなく過去の政治についてを指すようです。老いて過去のものとなった政治の仕事もまたある意味「落梅」なのかもしれません。

春日侍宴応詔
淑気光天下(優しくて温和な気が天下に行き渡り) 
薫風扇海浜(暖かい南風が海辺を吹いている) 
春日歓春鳥(春の鳥が春の光を感じて歓び) 
生折蘭人(蘭を折っている人は蘭のように香る) 
道尚(政事に精を出す事は過去になり) 
文酒事猶新(酒を酌みながら詩歌を詠む事はまだ新しい) 
隠逸去幽薮(閑静な竹林で隠居すると思っているが) 
没賢陪紫宸(ふつつかながら宮廷に参上している)
(『前賢故実』)WEB画題百科事典「画題Wiki」(一般公開版)

辛巳事件と「令」

聖武天皇が神亀元年二月に勅により生母藤原宮子へ「大夫人」の称号を与えたのを、長屋王がに存在しているのは「皇太夫人」で、存在しない称号「大夫人」だと令に反し「皇太夫人」だと勅に反すると述べ、聖武天皇が「皇太夫人」に変更した事件が起きます。藤原氏と長屋王の対立関係が激化した原因となったようです。当時の律令制度では皇族の女性しか皇后になれなかった-皇后冊立できなかった-そうですが、その直ぐ後の光明皇后で先例ができてからはそうとは限らなくなったようです。長屋王が遵守した大宝律令、養老律令を制定したのが藤原不比等達というのも因縁を感じます。

山上憶良、令に従いて七夕の日に詩を詠む

万葉集・梅花歌三十二首并序の作者かもしれないと言われている山上憶良は、長屋王が令を優先した年の七夕に、に従いてと書いた上で詩を詠んでいます。これは偶然でしょうか?それとも??

山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)の七夕(なぬかのよ)の歌十二首 天(あま)の川(かは)相向き立ちてわが恋ひし君来(き)ますなり紐(ひも)解き設(ま)けな 〔一(ある)は云はく、川に向ひて〕 右は、養老八年七月七日に、(りやう)に応(こた)ふ。 巻八(一五一八)万葉集入門

長屋王の変

突然無位の人中臣宮処東人と漆部君足に怪しい術(左道)をしてると密告され長屋王は自害します。「詩経」の墓門に出てきた警戒するべき人とは彼の事を指していて、万葉集・梅花歌三十二首并序を書いた人は長屋王へ警告していたのでしょうか?そしてその記憶は梅と蘭香に刻んでいたのでしょうか?

  • 養老四年八月三日(720年9月9日)藤原不比等死去
  • 神亀元年二月四日または六日(724年3月9日または7日)大夫人の称号(辛巳事件)  続日本紀
  • 神亀元年三月二十二日(724年4月23日)長屋王の進言で皇太夫人へ(辛巳事件) 続日本紀
  • 神亀四年閏九月二十九日(727年11月16日)基王 誕生(父帝:聖武天皇、母:光明皇后(藤原不比等の娘))
  • 神亀四年秋大伴旅人大宰師に任命される
  • 神亀五年(728年)安積親王誕生(父帝:聖武天皇、母:県犬養広刀自(讃岐守・県犬養唐女))
  • 神亀五年春大伴旅人大宰府へ赴任
  • 神亀五年九月十三日(728年10月20日)基王 死去
  • 神亀六年光明皇后立后(初の皇族以外の皇后)
  • 天平元年二月十日(729年3月18日)長屋王の変:中臣宮処東人と漆部君足により長屋王は密告され自害 続日本紀
  • 天平二年正月十三日(730年2月4日)大宰府大伴旅人邸宅「梅花歌三十二首并序
  • 天平二年十一月大伴旅人大納言に任命される
  • 天平三年大伴旅人京師へ帰還「吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙し流る」(万葉集)
  • 天平三年七月二十五日(731年8月31日)大伴旅人死去
  • 天平九年 筑紫国へ春に疱瘡上陸、京師に至りパンデミック 続日本紀
  • 天平九年四月十七日(737年5月21日)藤原四兄弟・藤原房前死去(父:藤原不比等)
  • 天平九年七月十三日((737年8月17日)藤原四兄弟・藤原麻呂死去(父:藤原不比等)
  • 天平九年七月二十五日(737年8月29日)藤原四兄弟・藤原武智麻呂死去(父:藤原不比等)
  • 天平九年八月五日(737年9月3日)藤原四兄弟・藤原宇合死去(父:藤原不比等)
  • 天平十年七月十日(738年8月3日)大伴子虫が長屋王の誣告をした中臣宮処東人を惨殺 続日本紀
  • 天平十年(738)藤原宇合の息子・藤原広嗣、太宰府へ
  • 天平十二年(740)藤原広嗣の乱(台頭した吉備真備排斥を狙うも敗戦)

中臣宮処東人への敵討ちと殿前の梅樹

長屋王の変の首謀者と思われる藤原四兄弟が疱瘡(天然痘?)で死亡した後、天平十年七月十日に虚偽の密告をした中臣宮処東人が大伴子虫によって惨殺されるのですが、その3日前の7月7日の相撲があった日に聖武天皇と吉備真備のふとした言葉がきっかけとなったのかしらと思われる記録が直前に記載されています。(花葉遽落=落梅)と七夕-山上憶良が辛巳事件があった年の七夕に令に従い詩を詠んだ-の記憶です。

秋七月(丁卯朔)癸酉。天皇御(㆓)大藏省(㆒)覽(㆓)相撲(㆒)。晚頭?(㆓)西池宮(㆒)。因指(㆓)殿前梅樹(㆒)。敕(㆓)右衛士督下道朝臣眞備及諸才子(㆒)曰。人皆有(㆑)志。所(㆑)好不(㆑)同。朕去春欲(㆑)翫(㆓)此樹。而未(㆑)及(㆓)賞翫(㆒)。花葉遽落。意甚惜焉。宜(㆘)各賦(㆓)春意(㆒)詠(㆗)此梅樹(㆖)。文人十人奉(㆑)詔賦(㆑)之。因賜(㆓)五位已上絁二十疋。六位已下各六疋。続日本紀

大伴旅人と梅樹

懐風藻の大伴旅人も梅を詠んでいて、良き政治を唄っています。天平十年七夕の聖武天皇の梅樹はどの梅と重なるのでしょうか?

從二位大納言大伴宿彌旅人 一首【年六十七】 044 
五言初春侍宴

寬政情既遠 迪古道惟新 
穆穆四門客 濟濟三德人
梅雪亂殘岸 煙霞接早春 
共遊聖主澤 同賀擊壤仁
大らかな政(まつりごと)を行い給ふ大君の御心は遠く行き渡り
いにしえの道にのっとる御政道はここに新しい一歩を踏み出した。
客人たちは四方の門から威儀を正してここに集い、
あまたここに集うのは皆徳に優れた人びとばかり。
雪のように白い梅の花びらが切り立った岸壁に乱れ散り、
霞が早春の空にたなびいている。
我ら集って尊い君の恩沢に遊び、
共に太平の御代をことほぐ。 "墨場必携:漢詩 初春侍宴"ひたちと歩く言葉の森散歩,筒井ゆみ子

万葉集・梅花歌三十二首并序「梅披(㆓)鏡前之粉(㆒)蘭薫(㆓)珮後之香(㆒)」王家は後ろの蘭の香で、臣下はその前の珮であるという含みもあったのかもしれません。

万葉集から読み取るべきエピソードはあった?

皇族以外は皇后になれなかった時代に勅で大夫人という新しい称号を生母へ捧げた聖武天皇。それを令を優先して皇太夫人とした長屋王。その後、皇族以外で初の皇后となった光明皇后。
今回の譲位受禅に際しては太上天皇と皇太后という歴史と伝統を覆し太上天皇の略である上皇と上皇后という新しい称号へ決定され、保守側には違和感があるようです。

現在の「令」はすべて日本国憲法が大前提の令のはずで、それに反する令は存在できないはずで、矛盾があれば放置せずに更新させなければなりません。
いずれにしても意見が異なる相手の命を奪ったり復讐したりするような乱れた政治ではなく、なにごとにも仲良く民主的に話し合うべきだと思いました。

日本では昔から天皇の勅はさほど強くなく、「令」の方が強力だということなのかもしれません。



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