Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん)

日本に暮らす昭和生まれの猫ぷりりんの、そこはかとない時事放談と日記です。政治経済から科学、サッカー、手芸まで

饒速日尊天孫降臨の鳥見白山と鳥見白庭山はどこ?

2017年08月07日 02時37分24秒 | 神話・伝承・民話

そして虚空見日本国とのたまう

物部氏派に人気(?)な先代旧事本紀での饒速日尊天孫降臨ですが、河内国哮峯の次に行った大和国の場所は二種類の記され方をしています。天神本紀では「鳥(闕画?)見白山」、天孫本紀では「鳥見白庭山」と記載されていますが、天神本紀で鳥という漢字を闕画しているのは鳥=神として避諱したためで(神話から天皇家は沢山の鳥の名前が出てくる)、天孫本紀では避諱した名の山の前庭的山を「鳥見白庭山」と指し記したと推定しました。

「饒速日尊襄 天神御祖詔 乗 天磐船 而天 降坐於河内國河上哮峯 則遷 坐於大倭國鳥※見白山 所謂乗 天磐船 而翔 行於大虚空 睨是郷 而天降坐矣即謂虚空見日本國是歟」"天神本紀"先代旧事本紀 10巻,前川茂右衛門,寛永21 (1644)
天祖以 天璽瑞寶十種 授 饒速日尊 則比尊稟 天神御祖詔 乗 天磐船 而天 降坐 於河内國河上哮峯 則遷坐 於大倭國見白 天降之儀明 天神紀?謂乗 天磐船 而翔 行於大虚空 睨 是郷 而天降謂 虚空見日本國 是歟」"天孫本紀"先代旧事本紀 10巻,前川茂右衛門,寛永21 (1644)

鳥見白庭山、鳥見白山

屯鶴峯から虚空蔵山と城山

上空からも白いと解る山と言えば、屯鶴峯を思い浮かべます。群れる鶴の様に見える峯です。庭のようでもあるので、白庭山にはぴったりです。

屯鶴峯 奈良県香芝市


屯鶴峯

その屯鶴峯から視た夏至の日の出は弘法大師空海作の虚空蔵像のある弘仁寺の虚空蔵山から昇ります。饒速日尊の「虚空見日本国」の虚空が出てきます。また後ろには城山(しろやま)が見えます。

屯鶴峯から見た夏至の日の出


虚空蔵山麓の弘仁寺(奈良市)

虚空蔵山から屯鶴峯、穴虫峠

その虚空蔵山から冬至の日の入りは屯鶴峯~サカイ・平地山遺跡へ沈みます。サカイ・平地山遺跡はサヌカイト(鉄器が渡来するまで石矢尻や農機具の原料)の産地。また難波へ続く大坂、穴虫峠が見えます。この一帯は古墳時代の棺の石材として知られる二上山石の産地でもあります。

虚空蔵山からみた冬至の日の入り


穴虫峠

穴虫峠から城山

その穴虫峠から見た夏至の日の出は、奈良市の城山(しろやま)から昇ります。

穴虫峠夏至の日の出

城山から穴虫峠、淡島神社

城山から冬至の日の入りは穴虫峠へ沈みます。そのさらに奥には、少彦名命と大己貴命、つまり日本書紀で神光照海となった大国主(大己貴命)の幸魂・奇魂オオモノヌシが「吾欲住於日本國之三諸山。」 と述べたお話のペア2神と、息長足姫命(神功皇后)を祀った淡嶋神社方向です。カシミール3Dによると近つ飛鳥方向には大鳥大社も目視できるようです(城山山頂は木で覆われたため実際は見えないだろうけれど)。また手前には、まるで前庭のように立つ虚空蔵山も見えます。

城山の冬至の日の入り

城山から、西方の虚空蔵山と城山

夏至の日の城山は、兵庫県の虚空蔵山や城山、和田寺山、西光寺山、竜王山へ太陽が沈みます。近つ飛鳥(難波)も遠つ飛鳥も見渡せます。
この光景とそっくりな風景が、河内国交野郡星田村(交野市)の茄子石の滝で観られます。茄子石の滝(聖滝)は城山の御前立のようです。

奈良市の城山、夏至の日の入り

茄子石の滝、夏至の日の入り

西方の虚空蔵山から、城山と三輪山の奥の院野々上岳

その兵庫県の虚空蔵山から見る冬至の日の出は四条畷市の正傅寺を通して奈良市の城山、その奥には神光照海エピソードのオオモノヌシの三輪山(大神神社)の奥院、雄神山・雌神山の野々上岳方向となります(白石国津神社と雄神神社の御神体)。

三田市の虚空蔵山から見る冬至の日の出

鳥見白山は奈良市の城山、その奥には三輪山の神オオモノヌシ

古墳時代の棺の材料である二上山石が採れる穴虫峠。そのむこうに少彦名と大己貴神の淡嶋神社(日本書紀の神光照海=大己貴神の幸魂奇魂=三輪山のオオモノヌシ)。西方に望む虚空蔵山から城山を望む際に奥にたたずむ三輪山(大神神社)の奥院、雄神山・雌神山=野々上岳。先代旧事本紀の天神本紀「鳥見白山」にて闕画で鳥とされたのは神光照海=三輪山で、鳥見白山は城山だと推定しました。その御前立的なトポロジーな場所は、河内国星田村の茄子石の滝(聖滝)からの風景だと思われます。

武烈天皇陵と虚空蔵山

直系でも数代離れた継体天皇がその帝の座を継ぐ正統性を相対的に引き立てるために、超過激な天皇として設定されたのではないかと言われている武烈天皇の陵から望む夏至の日の出も、奈良市の虚空蔵山から昇ります。虚空蔵は金星(明星)と関係がありますが、神話世界の国の制定で最後まで抵抗した天香香背男(天津甕星)は金星だそうです。

武烈天皇陵から見る夏至の日の出

伊賀の霊山、虚空蔵山、武烈天皇陵、穴虫峠、屯鶴峯

最澄が寺院をひらいた伊賀の霊山から視た冬至の日の入りは、奈良市の虚空蔵山、穴虫峠、屯鶴峯、武烈天皇陵、山添村岩屋枡形石へ沈んでいきます。瓊瓊杵尊天孫降臨の末裔である天皇さんの陵墓と重なる虚空蔵山が、天孫本紀の「鳥見白庭山」ではないかと推定します。

伊賀の霊山から見る冬至の日の入り

茄子石と妙見山と郊天祭祀と神光照海

生駒山の真北が交野市星田妙見宮の妙見山ですが、その交野ケ原でおこなわれた郊天祭祀と日本書紀・古事記の神光のエピソードについて、次は書きます。廃郊祀壇五畿内志"河内志 交野郡" 日本古典全集刊行会 昭和4-5年


初の天孫降臨?虚空見日本国の饒速日命と天磐船、哮峯

2017年08月06日 18時07分31秒 | 神話・伝承・民話

天孫降臨神話の哮峯

先代旧事本紀は日本書紀・古事記と違い邇邇芸命より饒速日命が先に河内国哮峯~大和国鳥見白山(鳥見白庭山)へ天孫降臨し、「虚空見日本国」と言った設定で、本居宣長や徳川光圀から絶大なる低評価を受けていたようです(^▽^;)。

河内名所図会の石船巖=現在の磐船神社=神話の天磐船と思われます。
河内國河上哮峯はその後方の山(採石場だった)と思われます。現在、フリークライミング場となっている哮が峯(元採石場)も候補ですが、近くのバス停の名前が哮橋(いかるがばし)、その橋に実際に刻まれている漢字は皚酵橋(ナンバー出版の1974年版交野市の地図では白豈酵橋)なので、皚酵橋(いかるがばし)→哮橋(いかるがばし)→いかるがみね→哮峯→河内國河上哮峯という変化が起きたのではないでしょうか。皚は白い輝きの意味なので、酵-酒のおりが白くきらきら輝く、削られた雲母が川底でキラキラ輝く天の川にかかる橋という意味だったのではないでしょうか。

神話に記載された哮峯、天磐船

「饒速日尊稟 天神御祖詺 乗天磐船 而天降坐於河内國河上哮峯 則遷 坐於大和國鳥※見白山 所謂乗 天磐船 而翔 行於大虚空 巡 睨是郷 而天降坐矣即謂 虚空見日本國是歟」"天神本紀"難註先代旧事本紀10巻,寂顕

哮峯、天磐船にまつわる記録

その祭祀の祠は大和国添下郡南田原村のにあったようです。

「巖船神祠 在㆓南田原村㆒𦾔時記曰饒速日尊󠄁襄㆓ 天神御祖󠄁詔㆒乗㆓天磐船㆒而天降坐㆓ 河内國河上哮 峯㆒ 即此」五畿内志"大和志 添下郡"

河上哮峯は河内国讃良郡田原村にあり(現在の磐船神社の山)、石船明神を祀っていたのは大和国南田原村。岩が所在しているのは河内国讃良郡。神座石自体は河内国交野郡に所属していたようです(詳しくは「平斎の日記 [神仏]『五畿内志』の「田原村石船山」」)。

「河上哮峯 在㆓田原村㆒今號(号)㆓石船山㆒饒速日命降臨之地峡中有㆑石長五丈許渓水通㆓石下㆒和州南田原村石船明神神輿幸㆓于此㆒因呼曰㆓石船岩㆒今其禮(礼)雖(いえども)㆑廢(廃)毎年六月晦日土人相集修㆓禊事于此㆒神座石屬(属)交野郡」 五畿内志"河内志 讃良郡" 日本古典全集刊行会 昭和4-5年

河内国交野郡(交野市)側の若宮神社の由緒書きに河内国と大和国の村々での顛末が記載されていました。交野市側では天田神社にて祀られているようです

若宮神社畧(略)記 当社は私市の氏神で住吉四神を祭神として祀ってあります。当地区には天田神社(住吉神社を祀る)か古来より祭祀されてありますがもともとこの社は産土の神を祀ったものと考えられます。上古天孫饒速日尊が天ノ磐船に乗って之の地方ら(磐船宮)降りられ大和に入られ、その子孫が天乃川を中心として大和河内地方に勢力を伸し交野物部氏の強大な部族を形成したのでありますがこの部族の総社としての磐船宮も「船に乗って天降った天乃川文化圏」との考え方と住吉信仰が混同しいつのまにか住吉四神を祭神と誤って伝承して来たのでありましょう。 その後宮座の事が解決せず約270年前各村々(河内・大和)は磐船明神乃分霊を神輿に乗せて持帰り祭祀しましたが私市に古くから天田神社に在りましたので若宮神社と称号したのでありましょう。 一祭神 住吉四神(但し天孫饒速日尊を起源とする) ……一来社 秋葉明神社 元獅子窟寺境内に在 長慶天皇御霊社として祀ると思われる。

また磐船神社御旅所の説明文にも顛末の記載がありましたので孫引きします。

お旅所由来 私市をはじめとする交野が原は、弥生時代の頃、肩野物部氏と呼ばれる氏族が稲作農耕文化を伝え開拓された所で、ここより2キロ程天の川を遡った磐船明神を祖神としてお祀りしておりました。祭礼になると、私市の村では磐船明神の神霊を神輿にのせて、磐船街道を下り村にお迎えし若宮神社にて祭礼を催すと共に安泰を繁栄を祈念し私市村を一巡した。その御神幸の行き帰りに神様と人々が休憩をするためにここ「しぐれの里」にお旅所が建てられました。 その後交通事情などにより、御神幸の神事は廃れて、お旅所も現存せず、二基の灯籠のみが再建されて往年の神事をしのばせております。 「磐船神社お旅所跡・梅の木の伝説跡へ行く 2015/2/11 ひまつぶし人のプーさんの日記です。