Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん)

日本に暮らす昭和生まれの猫ぷりりんの、そこはかとない時事放談と日記です。政治経済から科学、サッカー、手芸まで

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弓とアテルイ

2017年09月30日 01時22分04秒 | 神話・伝承・民話

河内国杜山と弓

弓幹の赤棠(杜)

先の記事達で漢語辞典から河内国榲山=山=杜山と書きました。杜=赤棠、弓幹に相応しい木の理を持つ木。

弖とは互の古字

弖とは互の古字、阿弖利為(阿弖流為)は阿互利為(阿互流為)。なぜ「弖」が使用されたのか?主観的ですが「弤」を想起しました。「弤」 とは「天子曰彫弓」「絵文采的弓。礼制,天子所用」。"漆成紅色的弓"・朱塗弓です。

片埜神社

今は道路を隔てて牧野公園内ですが、伝阿弖流為・母禮之塚と現在奉じられている塚は河内国交野郡の片埜神社境内に元々ありました。野見宿禰がひらいた片埜神社社家の岡田家は野見宿禰の末裔。菅原道真公も野見宿禰の子孫。

野見宿禰

野見宿禰は埴輪を発明した人で土師臣の祖。天皇崩御で殉死する習慣を改めたとの伝承があります。相撲で勝って国をもらった、はじめて相撲をした人です。

弓取り式と土俵祭とカヤの実

聡ノ富士 弓取り式

相撲といえば弓取り式。その土俵にはカヤの実をはじめ様々な供物が土俵祭で埋められます。

「大相撲では場所前に土俵祭りという儀式が行われ、はじめに相撲の三神への供物として、勝栗、こんぶ、米、するめ、塩、そしてカヤの実が土俵の中に封じられます。著名な石清水八幡宮や金刀比羅宮をはじめ、神饌にカヤの実が含まれる神社がいくつもあります。」 カヤについて – 飛騨のカヤの実 株式会社グリーンポケット飛騨

大相撲平成二十七年五月場所 土俵祭(フルバージョン)

弓引き神事とカヤの実

神社の弓引き神事でも、カヤの実が登場します。相撲と神事は同じ質のもののようです。

「午後二時神前での祭儀が斎行され、前夜と同様勧盃式があり、その際、福包〔折敷に黒豆・勝栗・昆布・榧の実(現在はスルメ)・田作(魚)〕が授与される。」 沼名前神社のページ, お弓神事

鞆の浦  「 お弓神事 」 広島県福山市2012年2月

「神事が終わって帰ろうとしたときに、世話人の方が「お守りどうぞ」って、え!? 最初お金いるのかと思ったら、お持ち帰りでした。…… それとこの地区にある天然記念物の「左巻きカヤ」の実(木も実も左巻きに育つそう)を頂きました。食べられるそうです。(実に左巻の線があります)」 リッチファミリー,たろたろの一日「弓引き神事」2012/1/9

弓取り神事

弓弦を鳴らしたり矢を射る儀式が多く、弓で踊る姿は少ないようです。

宇佐神宮 蟇目の儀

鶴岡八幡宮節分祭・・・鳴弦の儀

六夜祭「弓踊り」
 

アイヌの弓の舞

弓の儀式とアイヌの弓の舞、クリムセ。弓取り式もクリムセも大地をすくうという動作がくわわっていて、共通点も多いように思いました。

帯広カムイトウウポポ保存会「クリムセ」

自然の摂理を保つ弓引き神事

弓引き神事の目的は下記の様に論じられています。「天地東西南北」六宇。石清水八幡宮の八幡造り・六宇の宝殿にも通じます。「三本足の烏と兎」の三本足の烏の別名は赤烏、太陽。「牡曰棠。牝曰杜。樊光曰:赤者爲杜,白者爲棠。(説文解字)」、アテルイ歿した榲山=杜山は从烏沒切の山・赤山、つまり赤烏沒する山、太陽歿する山も意味できると思われるので宇宙の表現となっています。

「その本来の目的は、天地東西南北というあらゆる方角や三本足の烏と兎の的に象徴されるように、宇宙を象徴するものを射ることによって村落共同体の時間と空間を更新させることにあるといえる。」波部綾乃,弓神事の民俗的機能

片埜神社がある牧ノ郷(牧野郷)は真木の郷でもありました。扶桑の樹の上に止まる太陽(赤烏)を射る弓矢-弓矢の神・石清水八幡宮と石清水八幡宮護国寺(アテルイが没した頃は石清水寺)。

「男山中腹に位置する石清水社は、霊泉「石清水」を核とした摂社で、当宮の名の由来となった本宮御鎮座以前の起源に遡り、御鎮座以前は傍に石清水寺が建立されており、本宮創建と同時に石清水寺は「護国寺」となったとされています。」 石清水八幡宮,石清水社・石清水井

カヤと宇

土俵祭、お弓神事、石清水八幡宮の神饌のカヤの実は碁盤や将棋盤の材料。盤もまた宇(宇宙)。土俵は宇宙。宇山(宇山村の宇山とは違い、坂村と宇山村と養父村に近接する小山)のアテルイの塚も宇にある、です。

土俵

「どこにどの色の房を下げるか位置が決まっていて、時計回りに、正面は黒。東は青、向(むこう)正面は赤、西は白です。この4色の房がそれぞれ象徴しているのは、黒は玄武、青は青龍、赤は朱雀、白は白虎です。また、この4色は方角も表しています。黒は北。青は東、赤は南、白は西です。さらに、この4色は季節も表しています。黒は冬、青は春、赤は夏、白は秋です。」抜井規泰,黒・青・赤・白 土俵見守る4色の房のお話
碁はよく宇宙にたとえられる。……360碁盤の目の数は361。天元を除くと360で、これは円周の度数である。 365碁盤の目の数は361。これに四辺の数4を加えれば365となり1年の日数である。 碁と宇宙

禁野の弓

片埜神社は禁野にあるので、弓で狩りができるのは帝と貴族のみでした。アイヌのクリムセも鳥の美しさに射るのをためらう舞。禁野を北上してすぐの武道神・護国神である石清水八幡宮の放生会も、殺生への戒めです。片埜神社の野見宿禰は埴輪で殉死を無くした人。不殺生は、矢を目標物へ刺す行動から留め置くものである「」-大国主命と少彦名命(靫明神)-や葛胡簶(つづらやなぐい)-(式内社・片埜神社のある坂村の属邑・葛上村に式内社・久須々美神社と葛上寺(九頭神廃寺。聖徳太子七寺の内不明である葛木寺の可能性もあるそうです)がかつてありました)-のようで、護国と武器と武器を不殺生な状態へと収める容器にあたる禁野という国防の逆説の世界を宇の中で表しているように思えます。

護国と不殺生

元寇の際、西大寺の興正菩薩叡尊上人は石清水八幡宮護国寺にて敵も味方も乗る人を損なわず、船を焼失せしめたまえと祈られました。

「南北二京僧五百六十余人、集会宝前、一味和合勤行、叡尊説戒、々々終、乍恐述懐、即以平城御宇御託宣、訴申戎難、於大菩薩、以東風、吹送兵船於本国、不損来人、焼失所乗之船御云々、即不久大風吹出、雷鳴声発、向西而去、存神諾歟、」 金剛仏子叡尊感身学正記
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David Bowie live

2017年09月30日 01時12分36秒 | デビッド・ボウイ

伝説の姿を記録するために。ボウイはライブを聴かないと意味が無いよと言われた昔を思い出します。

Word On A Wing - Vancouver 1976

Stay

Beauty And The Beast (Live Musikladen 1978)

Rebel Rebel

David Bowie ~ Live ~ TVC 15 ~ 1978

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天の星とアテルイ

2017年09月28日 00時56分18秒 | 神話・伝承・民話

阿弖利為の意味とは?

弖はの古字

弖はの古字「一説に、の古字の省畫」P.691,大漢和辭典縮小版,巻四,大修館書店(昭32)は根本、底に至るといった意味があるようです。

は二十八宿の宿、ともぼし

氐は「二十八宿の一。東方の第三宿。天秤(てんびん)座のα(アルファ)星を含む。ともぼし。宿。 」デジタル大辞泉
東方青龍七宿の第三宿星の宿 宿は天根とも名づけられ」P.445,西村甲,東洋医学序説 温故定礎,三和書籍,2017

龍の心臓部分の宿。西洋の星座のてんびん座にあたりますが、
宿の「ともぼし」という和名は、共星または友星なので、しょうか?

天の根に依って利を為す

阿~は~にコミットする、~に準拠してという意味だそうです。阿弖=阿にコミットするとは根本や天の根にコミットするということでしょうか。
利為とは利を為すでしょうか?利によるでしょうか。前者であれば、根本によって利を為す、でしょうか。もしそうであれば、先の記事で描いた甘棠之愛の召公奭のような人物像のようにも思えます。

「天の根」と榲山=

根といえば先の記事で検討した河内国榲山、榲山=榅山で榅には根の意味があります。天の根( 宿)でもあり大地に散った者として地中の根でもあり、統一される地方の豪族としての根でもあります。天と地をつなぐものは柱、すなわち )です。そして根の国とはオオナムチノミコトまたはスサノオノミコトのテリトリーで、先の記事で可能性をみた泰山府君(日本の陰陽道の祖神。赤山禅院の赤山大明神。本地は地蔵菩薩)と同一視されている神様です。

弖はの古字、异体字(異体字)は「互」

の異体字は「互」。弖の異体字も「互」「弖……俗文互字。」宿の和名「ともぼし」は互星のようです。 阿弖利為は「阿互利為」、阿弖流為は「阿互流為」になります。

「互利」とは互相有利。 (互利互恵的)

阿弖利為が「阿互利為」、阿弖流為は「阿互流為」ですが、「互利」とは"互相有利(互利互恵的)"の意味です。互利互恵をもとに為す人アテルイ、でしょうか。

夷大墓公とは?

えみしの大墓公という意味でしょうか。夷を除けば大公望と一文字違いです。漢字の「望」には下部が土である異字体があるので間違えたのでしょうか。
大公望は牧野の戦いで殷を破りますが、アテルイの碑があるのは京阪牧野駅近くの宇山バス停前の牧野公園です。行政区分では坂村ですが、宇山村はすぐ隣で宇山もすぐ隣。交野ヶ原の禁野の一部でもある坂村・宇山村は昔は牧之郷(真木郷)の一部でした。

大墓とは先祖代々の墓

大墓とは「特指祖坟」 (先祖代々の墓)。意味は夷の先祖代々の墓でしょうか。異邦人の先祖代々の墓でしょうか。-平穏無事な先祖代々の墓でしょうか。先祖代々の墓を平らにしてしまう人でしょうか。

弖と (互)と

弖はの古字で、 も弖も異字体は「互」ですが(類聚日本後紀の弖の文字はかなり「互」の姿を残す)、そこから感覚的には、ですが「 」を想起しました。互ではなく弖という文字を図形的に使用する意味がそこにあるように思えたからです。

は「漆成色的弓」(漆製紅色の弓)、「趙岐注: “,彫弓也。天子曰彫弓。

彫弓(弓)とは天子の弓

绘文采的弓。礼制,天子所用。」天子-日本では天皇-が使用する装飾された弓のようです。

互ではなく弖という文字を使用したのは天子の弓を表現するためではないかと思うのです。アテルイが802年没した榲山・(・杜山)は、杜=赤棠の山で、先の記事でも見たように弓幹にするに優れた木。赤い棠を弓幹にした漆の「紅色」の弓・天子の(彫弓)の神となったのがアテルイで、石清水八幡宮(860年~)が弓の八幡神であるのと関係があるのではないかと思うのです。

石清水八幡宮すぐ南の河内国交野郡は石清水八幡宮の領地も多い地域ですが、式内社は二社でその片方の久須々美神社も今はなくとても少ない地域で、その原因は石清水八幡宮の台所事情を支える地域だったからだと思われます。石清水八幡宮の所在地は山城国ですが、河内国交野郡は石清水八幡宮の氏子的存在で、交野神人の政治力は強かったようです。

もし宇山が終焉の地であるのならば石清水八幡宮との関連性も考えて良いと思われます。矢が宇佐八幡宮にあらわれた金鳩が鏑矢で、天子の彫弓はアテルイ、のように。

 

河内国は南北に長く、今現在アテルイの碑がある最北端の交野郡牧ノ郷宇山-交野ヶ原の禁野に指定された地域でもある-が該当するかどうかの確証はありません。 夷大墓公阿弖利為、宇山の古墳群(大墓-先祖代々の墓)の上に(-墓を平らにする)-して土葬された公である可能性も否定できません。

797年の続日本紀に延暦八年(789年)頃の阿弖流為の戦いが記録されています。840年の日本後紀に延暦二十一年(802年)の阿弖利為の処刑が記録されています。かなり時間が経過した日本後紀の記述は、神格化的な含意があるように感じられてなりません。写本で伝えられる段階でも政治的・咒的な変化があったのではないでしょうか。弓の幹に向いているという樹木・杜=赤棠のように接ぎ木の台のような根本となって護国寺の根で生き続けているように思えます。

勅祭・石清水祭放生会にお出ましになるのは延暦寺の僧侶方々。赤山禅院は京都御所の鬼門を守る延暦寺の塔頭です。

 

石清水八幡宮にジャンボ御神矢 京都・八幡

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甘棠の愛-アテルイと坂上田村麻呂

2017年09月27日 03時51分13秒 | 神話・伝承・民話

六国史の日本後記に記された「河内国榲山」が阿弖利為の没した(802年没)場所の記録として最初のものだと考えています。

椙-杉村の山説

古事記(712年)と日本書紀(720年)の全文検索をしても出てきません。
椙は和製漢字です(大漢和辭典,大修館書店,昭和35年)。
大元の日本後記(840年頃)は別の漢字であった可能性が高いと思います。
説文解字によると榲は「杉」という意味があるので椙(スギ・杉)と書いても間違いではありません。

「植山」説

榲には草や樹勢の勢いという意味もあるので植も間違いでもないと思います。明和元年(1764)の日本後記の写本でも「植」と朱書きし「榲」を「植」と読もうとしていたようです。植の宋体は椙と似ているので、ここで写しに変化が出た可能性があります。

榲山(没山、棺山)

榲山=没山; 「沒也。」(説文)
なので、没-亡くなる山。

榲は榅なので
榲山=榅山=棺( )山でも意味は通りそうです。

 

阿弖流為ではなく阿弖利為

河内国で没したのは延暦八年六月続日本紀 40巻(797年)の「阿弖流為」ではなく「阿弖利為」です。彼らが同一人物なのか親族なのかはよくわかりませんでした。

弖と利と梨-阿弖利為の漢字にこめられた意味

榲は杜(説文解字)。杜は梨類を指しますが、梨は阿弖利為の「利」が木に乗る姿です。
杜は赤棠。弓幹を造るに最適な性質を持つようです。
弖は和製漢字ですが、弓でしょう。阿弖利為は最強の武具である弓を作る樹・赤棠にたとえられたような武芸者であったのかもしれません。もののけ姫のアシタカのようです。

草木疏】甘棠,今棠棃,子色白少酢,滑美。赤棠,子澀而酢,無味,木理堅韌,可作弓幹
陸璣·草木疏】赤棠,子澀而酢,無味。木理韌,可作弓幹

「杜、赤棠。……赤棠、木理靭かにして、又以て弓幹を作るべし。」 爾雅 釈木 (孫引き)
杜はアテルイのようです。陸奥梨は阿弖利為なのでしょうか。

甘棠の愛

杜は甘棠。詩経の「甘棠の愛」召公 のエピソードもこめられているのかもしれません。榲は杜で杜は甘棠ですし、榲には樹木の勢いよく茂るの意味もあります。今も人々から愛される阿弖利為の碑に合致します。斬るなも坂上田村麻呂の助命の気持とあうようです。

「こんもりと茂ったりんごの木
枝翦るな幹伐るな
召伯さまがやどらした木じや

こんもりと茂ったりんごの木
枝翦るな君伐るな
召伯さまが休ました木じや

こんもり茂ったりんごの木
枝翦るな花抜くな
召伯さまがいねました木じや」
『詩経』「国風・召南」(孫引)

雄徳山-男山と女山、牡山と牝山

牡曰棠。牝曰杜。樊光曰:赤者爲杜,白者爲棠。説文解字 なので
杜山=牝山杜山=赤山となるとも言えます。そこがアテルイ終焉の地?かもしれません。

河内国も共同管理していた牡山(現八幡市の男山・雄徳山)の烽火。

「牡山烽火。無所相當。非常之備。不可。宜山城河内兩國。相共量定便處置彼烽燧。」 日本後記,延暦十五年9月(796年)

男山・雄山の対となる女山・雌山が八幡市の男山にもあってもおかしくはないものの、中井家文書「石清水八幡宮全図」では西山や四人山などが描かれているのですが、複数ピークのうちどれが該当するのかわかりません。4つの郡、山城國久世郡・山城國縄喜郡・摂津国嶋上郡・河内国交野郡で囲まれているのですがどの地域がどこに所属というのも変化があったようで明確ではありません。

禁葬埋雄河内国交野雄徳山。採造御器之土也。」類聚国史,巻七十九大同三年正月(808)

大阪府=河内国に該当する男山の裾野や丘陵にも粘土層の土地があるのですが、そこがもしかすると牝山に該当し、阿弖流為阿弖利為没6年後の808年に交野の民草へそこへ埋葬することはならぬとのおたっしが出たのかもしれません。
1つは和気清麻呂にまつわる伝承の足立寺跡がある西山の裾野、継体天皇樟葉宮跡・桓武天皇郊祀壇跡との伝承がある交野天神社周辺で、戦前は交野神社(かたのじんじゃ)でした。牧野公園の伝阿弖流為碑の横の神社も片埜神社(かたのじんじゃ・延喜式では片野神社)です。
もうひとつは山城国との国境、戦前の牧野村飛び地です。牧野村は牧野公園の伝阿弖流為碑横の片埜神社・久須々美神社(両方の神社ともに交野郡に2つある式内社)があった坂村、渚村・禁野村・磯島村・小倉村・宇山村・養父村・上島村・下島村(全て河内国交野郡)が明治22年合併してできた村です。

延命の神・泰山府君(赤山明神)と阿弖利為

「樊光曰:赤者爲杜,白者爲棠。」説文解字
榲山=杜山、杜山は赤山ともいえます。823年、新羅の張保皋が中国山東省に建設した赤山法華院の赤山明神を想起させます。京都の赤山禅院をたてた円仁は張保皋の支援を受けて唐で学んでいます。

泰山府君は延命の神。ここも、アテルイの延命を含意させるものがあるように思います。

泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく・たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。赤山禅院の由緒

没する烏、赤い烏-太陽の赤烏

-从困切。去聲。(唐韻)
榲山は"从困切"山。烏の没する山。榲山=杜山=赤山なら、没する赤い烏の山。赤烏とは金烏、太陽の中にいる三本足の烏、太陽の異名です。交代で扶桑の木の上へ昇る10日。木の上の利である梨(杜・榲)。日(太陽)である赤烏。弓で射落とされる9日(榲=从烏困切)。弓幹をつくる"赤棠=杜"。射落とす弓と射落とされる烏が榲という文字の中に隠されているように思います。中国神話の后 羿 の射日弓神話のようです。アテルイの碑の周囲は真木(牧)の郷と呼ばれていました。真木の上の日(太陽)と土地に眠るかつての日(古墳群)の地。

2人の王が同時に国を統治できないという意味をこめたのでしょうか。

「下有湯谷,湯谷上有扶桑,十日所浴。在黑齒北,居水中,有大木,九日居下枝,一日居上枝。」海外東經

天帝である帝夋 (嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた[1]。ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる[2]。
1.袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 289-296頁
2.松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社<現代教養文庫> 1976年 15頁wikipediaより

赤烏は陰陽師安陪晴明の著との伝説がある三国相伝陰陽膽轄 内伝金烏玉兎集にも書かれています。その書を見たいと希望した道満と晴明の対決(フィクション)。晴明を裏切り道満と不実の仲となった妻の名前は「梨子」でした。

2体並葬の宇山2号墳と刀の宇山1号墳

-从困切。 去聲。(唐韻)

榲-没する从烏-のように宇山2号墳では2体が埋葬されていたのが発掘されたようですが、偶然でしょうか?それとも坂上田村麻呂などがこのアテルイが没したより更に昔の埋葬とアテルイの顛末を混同させて、桓武天皇の遊興の地、渡来人も暮らす交野ヶ原で彼らの延命を謀ったのでしょうか?

宇山2号墳……6C中頃……木棺直葬 (1・2号遺骸)
宇山1号墳……7C初頭~前……横穴式木室 ……銀象嵌鍔付太刀、鉄鏃
西田敏秀 1994「北河内の後期古墳と終末期古墳」『平成4年度市民歴史講座 飛鳥・奈良時代の河内 と大和 講演記録集』、枚方市教育委員会・枚方市文化財研究調査会,from94頁,吉田知史,交野の古墳時代集落動態より孫引き

石清水八幡宮護国寺の六宇の宝殿と宇山

アテルイの碑と片埜神社がある坂村に隣接する宇山。石清水八幡宮の建物は六宇の宝殿(正殿三宇。外殿三宇)です。
六宇は天地と四方(東西南北)の意味もあります。六宇のある山は六宇の山といえるでしょうか。宇山、一宇は片埜神社のニックネームのようなものなのでしょうか。

始め、釈行教、南都大安寺に居す。曾つて貞観元年、宇佐の神祠に詣し一夏九句、昼は大乗経を説き、夜は密咒を誦す……教、漸く山城州、山崎に至る。其の夜、又、夢中、太神告げて曰く、師、我が居る所を見よと。覚めてこれを見れば則ち、東南、男山、鳩の峯の上、大光現ず。 186頁,黒川道祐著,宗政五十緒校丁,岩波文庫 雍州府志(上),岩波書店,2002年

結論

皇祖を祀る八幡宮、王権同志の衝突。中国日本新羅の神話、没する太陽の神話をかけて王権制覇の正統性を主張しながら相手を讃え、延命の可能性もうっすらと匂わせた-桓武天皇の遊び場で漢系・朝鮮半島系の渡来人も暮らす都から離れた郊外、交野ケ原の牧(真木)の郷・へ逃がした物語かもしれないと思いました。

処刑したというのは、公文書偽造かもしれません(笑)。

結論:きっと2人はボーイズラヴ甘棠の愛('◇')ゞ。

merry christmas mr lawrence (1983) - respect or love

「それは自分が今まで会ったなかで、一番立派な男の髪の毛である。その男は敵側で、もう死んでしまったが、それでもやはり大変立派な男で、自分は決してわすれない。こと切れたあの男の頭から、例の金髪を自分が截りとったのは、ただひたすら、あの男の後世の住処を与えんとしたがためである。戦争が終わった暁には、祖先の御魂を祭る御社に、その髪をもち帰り、奉納するつもりだ。……ロレンスは、すでに日本に帰国していたヨノイに、金髪を送ってやった。折返しヨノイの深い謝辞をしるした手紙が送られてきた。例の髪は神社の聖なる火に捧げた、と。手紙によれば神社は美しい場所にあり、秋祭りの日など、さながら全山、山火事のように真赤に燃えさかる楓の木の生い茂る急な丘陵のなかの、杉の木に囲まれた道をずっと潜りぬけた果てのところにある。雲に聳える高みから滝がほとばしり、下手の川と池に流れこみ、そのあたり、鯉と身のこなしの早い鱒が、いっぱいに泳いでいる。まわりの空気には、さまざまな樹木の馨が漾い、ゆたかな水に清められている。かのひとの御霊に、まことにふさわしい住処である、とあなたも分かってくださるだろう、とあり、ヨノイの自作の詩で結んであった。
春なりき。
弥高き祖霊畏こみ、
討ちいでぬ、仇なす敵を。
秋なれや。
帰り来にけり、祖霊前、我願う哉。
嘉納たまえ、わが敵もまた。」
242頁,由良君美・富山太佳夫訳,ローレンス・ヴァン・デル・ポスト,"種子と蒔く者",戦場のメリークリスマス〔影の獄にて〕映画版,思索社,1983

 

 

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宇山・杜山・植山・椙山・榲山-アテルイはどこへ

2017年09月25日 01時25分29秒 | 神話・伝承・民話

前の記事で阿弖利為(アテルイ)が没した場所を調べてみましたが、ひとつひとつみていきます。

阿弖利為阿弖流為が没した場所の記録

六国史の1つ「日本後記」延暦二十一年八月の記事に没した場所が記されています。それを写したものが日本紀略、類聚日本後紀です。

  • 日本後記
    「夷大墓公阿弖利爲盤具公母礼(禮)……河内国榲(搵)山」日本後記,明和元年(1764)
  • 類聚日本後紀
    「夷大墓公阿弖利為盤貝公母禮等……河内国椙山類聚日本後紀,第五巻,徳川義直(編),近世中後期転写
  • 日本紀略
    「夷大墓公阿弖利爲盤具公母礼……河内国木?山(きへんに空白)」98番目,日本紀略,,,
  • 日本紀略(誤写?「久邇宮文庫本の「植」字のくずし字を「杜」に読み誤ったことであった。」アテルイの処刑地について
    「河内國植山387頁,日本紀略,国史大系第5巻,経済雑誌社編,合名会社経済雑誌社,1897-1901

写本の誤り?

日本後記(榲山)→類聚日本後紀(椙山)のルートと、
日本後記(榲山)→日本紀略(植山)→(きへんに空白)→(杜山)というのは単純でしょうか?

漢字の意味から考える

(=)を大元と考えてみました。渡来人も住む古代の河内国では判読可能であった榲の文字は時代を経て使用されなくなり、榲の多義な意味の中から述べたい意味を限定した漢字へと書く際に混乱が生じたのかもしれません。榲は杜、柱、杉、柱、木の盛んな様、ひつぎのような「はこ」の意味があるようです。

  • 椙(すぎ) 和製漢字
    • 榲の多義から杉を抜き出したくて「杉=椙」と写本した
    • 榲=""(根・草木繁盛・棺)と書こうとして間違えて「椙」と写本した
    • 榲の多義から杜(阻塞、やまなし・野梨・杜梨・甘棠・棠梨・赤棠)を抜き出したく「杜」と写本した(果物の資料)。
    • 榲の多義から榅(草木繁盛)という意味を抜き出したく「植」と写本した

 

榲 15277
  • 1.ヲツ ヲチ〔集韻〕烏沒切
  • 2.ウン〔集韻〕紆問切
  • 3.ヲン〔集韻〕烏昆切
  • 4.ヰン〔集韻〕委隕切
  • 1.
    • 一.やまなし。〔正韻〕榲、杜也。
    • 二.はしら。〔集韻〕榲、柱也。
    • 一.すぎ。〔集韻〕榲、杉也。
    • 二.ね。〔集韻〕榲、根也。
  • 4.
    • 一.木の盛なさま。〔集韻〕榲、木盛皃。
    • 二.はこ。〔集韻〕榲、一曰、櫝(※ひつぎ)
489頁,大漢和辭典尺版六巻,大修館書店,昭和35年
  • 《唐韻》《集韻》𠀤烏沒切,音膃。榲桲,果似𣙁也。
  • 《魏王花木記》榲桲,棃別種。
  • 《本草圖經》生北土,似𣙁而小。
  • 又《正韻》於問切,音醞。杜也。《正字通》榲桲,俗呼杜棃。 
  • 又《集韻》烏昆切,音溫。杉也。又根也。 
  • 又《集韻》委隕切,音惲。木盛貌。 
  • 又《集韻》紆問切,音醞。柱也。
康熙字典,頁544第21(孫引き
杜 14477
  • ト ヅ……
  • 1.やまなし。こりんご。あかなし。山野に自生する果樹の一。……棠梨。甘棠。……
  • 2.とぢる。ふさぐ。とざす。……
  • 3.たつ。杜、絶也。……
150頁,大漢和辭典尺版六巻,大修館書店,昭和35年
杜 ……《說文》甘棠也。牡曰棠,牝曰杜。樊光曰:赤者爲杜,白者爲棠。 漢典
棠 ……《說文》牡曰棠。牝曰杜 ……。今之海棠皆華而不實。葢所謂牡者曰棠也。从木。尚聲。徒郎切。十部。 漢典

烏(山海経の太陽の烏のような?)が没し棺と共に大地に還り、大地から植物の茂る死生観でしょうか?
杜棠には実がなり海棠には食せる実ならず。それとも暴れん坊を閉じ込める(杜絶)山という意味でしょうか。ひつぎの山という意味でしょうか。

山の意名前から考える

杉村の山?

椙山すぎやま=河内国交野郡杉村の山が該当地であれば、河内国交野郡杉と記載されたことでしょう。では、どこでしょうか?

男山は沢山の名前を持っている

石清水八幡宮がある男山は複数ピークがある低山です。牡山、雄徳山、鳩ヶ峰、鳩嶺、鴿嶺、香爐峰、香爐山と様々な呼ばれ方をしています。

なし-杜と棠と牡と牝

棠と杜の説文解字に「牡曰棠。牝曰杜。」とありましたが、棠が牡山なら杜の杜山は牝山になるのかもしれません。複数ピークのどれかが当時牡山と呼ばれていて、牝山(杜山)もあったのかもしれません。それが八幡市の男山と対なのか他の地域かはわかりません。

「雄德山 在八幡町上方 一名鴿(※ハト)嶺又名香爐峰又八幡山北臨京師東連甘南備山」山城国綴喜郡,五畿内志. 上巻並河永 著,日本古典全集刊行会,昭和4-5

地理と距離-平安京ではなく河内国で処刑の不合理さ

明確に処刑場所を書き記さなかったのは助命を願った漢系渡来人を祖とする坂上田村麻呂と百済系渡来人を祖とする桓武天皇が阿弖利為阿弖流為を渡来人が沢山住む河内国へ逃がす作戦だったのかもしれません。

桜と似ている陸奥山梨、秋子梨、日本山梨。北支豆梨とイヌナシの花-Pyrus ussuriensis とPyrus pyrifolia var. pyrifolia

実がならないのは牡と牝があるからではないのですよと、梨の自家不和合性かけて、異民族の人的交流と文化の豊かさをアピールしたのでしょうか。渡来系の祖先を持つ桓武天皇と坂上田村麻呂。そして大和へ併合される陸奥の阿弖利為阿弖流為

今日の枚方牧野公園 2016年4月15日

長岡京や平安京内にも処刑場はあったはずなのに遠く郊外の-桓武天皇は記録にのこる範囲内では2回の郊天祭祀をおこない、頻繁に狩りや管弦に訪れていた-河内国で処刑をした理由とは、処罰を希望する宮中の眼から彼等を隠すためだったのではないでしょうか。それとも桓武天皇の遊び場でもある遠方の河内国へ陸奥から来た阿弖利為阿弖流為を運んで処罰する理由が何かあったのでしょうか?処刑はナシよだったりして。

マメナシの花

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アテルイのお墓は河内国のどこ?

2017年09月21日 21時43分25秒 | 神話・伝承・民話

アテルイ阿弖利為の処刑地と埋葬地は同じ?

ドラマや歌舞伎、演劇で有名な東北の英雄、アテルイは802年に河内国で処刑されたと記録されています。
処刑地と埋葬地はどこでしょう?筆者のアテルイのお墓の場所の推定はこちらです

「斬於河内国椙(?)山」日本後紀

  • 椙山
  • 杜山(牡山=男山?))
  • 植山(=上山→宇山?)
  • 「搵(ヲン,ウン,ヲツ,ヲチ)〔意味:没、殁〕」山(大漢和辞典より)
  • 「榲(ヲツ,ヲチ,ウン,ヲン,ヰン)〔烏、杜、柱、杉、根、木盛皃、櫝(ひつぎ)〕」山(大漢和辞典より)

等が考えられますが諸説あります。

搵山または榲山という名前の山が当時あった?

搵山(搵=没、殁)や榲山(榲=烏、杜、柱、杉、根、木盛皃、櫝(ひつぎ))という山が当時あったのかもしれません。

宇山-河内国交野郡一の宮・片埜神社横の通称首塚では?

2007年、関西岩手県人会、羽黒山出羽神社、胆江日日新聞社、音羽山清水寺、片埜神社他の方々の寄付で河内国交野郡にあたる宇山バス停前の牧野公園に伝阿弖流為・母禮之塚が建設されています。片埜神社(延喜式内社)境内ではなく、道路を隔てた隣の牧野公園内にあります。

牧野公園内の該当する塚やその周囲にあった古墳はより古い時代のものです。その塚や古墳の上から阿弖流為が埋葬されたとしても矛盾はありませんが、
しかし禁野-天皇や貴族以外の鷹狩りを禁じられた場所であるため殺生は無いはずという「河内国禁野交野供御所定文」を元にした馬部隆弘氏の説もあります。

伝阿弖流為・母禮之塚

それに対して阿弖利為阿弖流為が没した西暦802年頃は禁野は天皇・貴族以外の「狩り」は禁じられたものの、殺生への禁忌思想自体はまだ発生していないとの指摘があり、河内国で平安京に最も近い交野郡の宇山周辺のこの地もあり得るかもしれません。

「とすれば、鷹飼と殺生禁断とが明らかに結びつけられたのは三代の格が編纂された時期(八世紀~十世紀初頭)ではなく、『類聚三代格』が編纂された時期(恐らくは十一世紀)ではないか。」竹ヶ原康弘,『徒然草』第百二十八段に関する小考,国語論集,215頁,2012年

伝阿弖流為・母禮之塚の昔からある石

片埜神社隣牧野公園内の伝阿弖流為・母禮之塚。その隣の坂公園や周辺には複数の古墳が存在します(例:宇山1号墳、2号墳牧野坂古墳)。

宇山一号墳から出土した銀象嵌直刀鍔宇山一号墳から出土した銀象嵌直刀鍔

桜の名所の公園の真ん中の塚が該当の塚です。昔から地元では大王のような偉い人の首塚と言われてきました。小さな碑が現在の碑の木を挟んだ裏側に昔からあったのですが、塚自体に登ることが禁でした。車道をはさんで隣の阪公園の古墳が胴塚だと伝えられてきました。

山城國と河内国の国境、山崎橋南詰め・男山の麓?

石清水八幡宮が鎮座する男山(標高約130m)と西側の鳩ヶ峰(標高約144m)現在の地名ではその南東に広がる地域も男山と呼ばれています。

阿弖利為阿弖流為山崎橋南詰の男山の麓で処刑された説があります(桓武天皇,57-58頁,西本昌弘,山川出版社2013年)。
男山(牡山)の烽火や山﨑橋は山城国と河内国との共同管理。藤原種継が処刑された山崎橋の南詰ではないかという説です。
しかし住所が京都(山城國)で管理が山城國&河内國である山崎橋、"烽火"が共同管理だった牡山(男山)で処刑されたなら「山城國で斬された」と書くはずで奇妙に思います。

「牡山烽火。無所相當。非常之備。不可蹔闕。宜山城河内兩國。相共量定便處置彼烽燧。」日本後記,延暦十五年9月(796年)

「平安京遷都以来3年を経過し、男山の烽火は非常の備えとして不可欠なので、山城・河内両国による共同管理を命じている……境界施設を接した両国が管理するという体制は、対岸の山崎とを結ぶ山崎橋でも同様であった……山城・河内両国に命じて、橋南北両辺に橋守を置き、かつ橋辺に居住する有勢人も加わって橋を管理させる……つまり、古代山﨑橋は、山城・河内両国が官民一体で管理したのである。」179頁,上原真人,国境の(くにざかい)の山寺-石清水基地万宮前身寺院に関する憶測-

男山(雄徳山)は河内国所属だった?

地元の交野郡民が使用した埋葬地・雄徳山(男山)にて処刑された説もあります。

禁葬埋雄河内国交野雄徳山。採造御器之土也。」類聚国史,巻七十九大同三年正月(808)

「また大同三年(808)には、供御器を造る土を調達する場所であるという理由で、河内国交野の雄徳山での埋葬が禁止されている。」82頁,井上真綾,牛山佳幸,古代日本における穢れ観念の形成,信州大学教育学部研究論集第9号,2016年

大同三年交野郡(のちに石清水八幡宮の神人が住む地域でもあった)の民が"交野郡"の雄徳山(男山)への埋葬を禁じられた件を前提とすると上記の河内国男山の麓の山﨑橋南詰で処された説もありえるように思えますが、交野郡の雄徳山の範囲が不明です。
供御器を造るために埋葬を禁じるということは陶土が出る場所のはずで、地質図を見ると交野天神社(足立寺瓦窯跡、樟葉平野山瓦窯跡の近く)、樟葉台場跡近辺久修園院周辺や男山断層沿い、洞ヶ峠近辺~美濃山美濃山瓦窯跡群周辺)にかけて点在する陶土地質地が該当し、烽火を掲げる標高が高い鳩ヶ峰や男山並びに男山北側の山﨑橋も埋葬が禁じられた地域に該当しないと思われます。
もし鳩ヶ峰の南東方向麓の樟葉台場跡~久修園院付近や交野天神社周辺(その北側の八幡市には男山雄徳の地名が残っていますが)、または洞ヶ峠周辺地域も雄徳山と呼ばれる地域に当時含まれていたのであれば、河内国交野郡の民は埋葬地にしていてそれを禁じられたのかもしれず、そこで阿弖利為阿弖流為も処されたか埋葬されたのかもしれません。

京都西南部 産業技術総合研究所 地質調査総合センター 地質図類データダウンロード

陶土が出るであろう埋葬を禁じられた雄徳山や宇山周辺の他も含めて河内國のなんとか山で処されたのだと思われますが、もしウヤマという地名の可能性が高いのであれば、禁野から外れる(天の川以南)河内國交野郡の上ノ山遺跡も可能性はあると思われます。

処刑された地しか記されていませんが、埋葬地は処刑された地とは別で、それが宇山の塚であった可能性はあります。近接した片埜神社河内国交野郡式内社二社のうちの一つで、すぐ東に式内社の久須々美神社がありました。その北側には渡来人が建設にかかわったと思われる古代寺院の九頭神寺があったことがわかっています。

陶土もでる河内国の交野天神社~捨翠寺周辺は山城國との国境ですし、同じく陶土が出る河内国最北端の久修園院周辺は北河内自転車道と木津嵐山自転車道を結ぶ地点で、淀川と男山に挟まれて道路がなく、淀川満水で自転車道走行不能の際に堤防上の車道走行を回避しようとすればここの大変広い農地の中の細い農道を通過するしかない国境。この地も雄徳山に入るのであれば阿弖流為が処刑された地の候補として有力だと思います。しかし明確な場所が判明しないのであれば、河内國の桜の名所・宇山で供養するのが一番良いように思いました。(より細かい検証をしてみました

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