Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん)

日本に暮らす昭和生まれの猫ぷりりんの、そこはかとない時事放談と日記です。政治経済から科学、サッカー、手芸まで

太陽信仰?北河内の神社トポロジーと日の出・日の入り

2017年01月16日 00時31分23秒 | 神話・伝承・民話

北河内の神社仏閣と日の出・日の入り-富士山・明神大神宮

先日からの続きです。以前Twitterでも宗教学者の島薗進先生が近畿の五芒星金山遺跡の地上の北斗七星旧星田村の降星伝承等神社仏閣の面白いトポスを呟かれていたのですが、交野ケ原・旧星田村の星田妙見宮の妙見信仰に鑑み、妙見信仰の北辰(北極星)と明星の同一視と山の並びを調べてみて気が付いた点をメモします。昔々の宗教人の祈りが少し垣間視えた様な気がしました。

今城塚古墳-熱田神宮ラインと和気神社と明星山+妙見山

実在を確認できる最古の天皇、継体天皇(507 - 531年)の真の陵墓と言われている今城塚古墳熱田神宮を直線で結ぶと、宇佐八幡宮神託事件(769年)の和気清麻呂の和気神社と明星山と妙見山の上を線は通る。

今城塚古墳-熱田神宮-箸墓古墳-住吉大社

今城塚古墳

8月18日今城塚古墳、明星山+妙見山+阿星山

その今城塚古墳から元明天皇即位日だと言われている西暦707年8月18日と同じ2016年8月18日の日の出は、明星山と妙見山が重なる。後方左側に釈迦ヶ岳、右側に御在所岳と妙見山、前方左側に阿星山、右側に明星山。地蔵菩薩を秘仏とする長寿寺や白山神社のある阿星山については次の牽牛石にて。

今城塚古墳8月18日の日の出

牽牛石

中山観音寺跡の牽牛石の夏至の日の出は、今城塚古墳でふれた阿星山からの日の出です。

冬至の今城塚古墳と朱智神社

冬至の日の出は、以前の記事で恐らく北辰(北極星)を示すだろうと推定した京田辺市・天王の朱智神社から昇ります。

今城塚古墳冬至の日の出と朱智神社

旧正月の今城塚古墳と灯明寺山

2017年1月28日の旧正月の日の出は、廃仏毀釈で横浜の三渓園へ移築された燈明寺三重塔があった灯明寺山から昇ります。ここでもまた、失しなわれた伽藍につきあたります。廃仏毀釈では相当大規模な伝統が失われてしまいました。

今城塚古墳旧正月の日の出と灯明寺山

今城塚古墳-箸墓古墳ラインと星の森、聖滝(茄子石)、堂跡嶺

今城塚古墳と箸墓古墳を結ぶ線上に交野ケ原・降星伝説の星の森、戦前にあった巨石・茄子石の跡(聖滝)、続群書類従・河内国小松寺縁起の廃小松寺(現在四条畷cc)にある堂跡嶺(小松山)が重なる。

住吉大社-明星輪寺ラインと南宮大社、妙見山、哮ヶ峰、堂跡嶺

住吉大社明星輪寺の線上に堂跡嶺(小松山)、哮ヶ峰( 饒速日命・天磐船の天孫降臨)、妙見山、鉱山の神・金山彦命の南宮大社がある。

堂跡嶺

堂跡嶺、富士山、妙見山+明星ヶ岳

今城塚古墳-箸墓古墳ラインと住吉大社-明星輪寺ラインの交点にくる堂跡嶺(小松山)から富士山へラインを引くと、妙見山と中腹に虚空蔵菩薩を本尊とする古刹・明星山宝生院国分寺のある明星ヶ岳がラインの上で重なる。延長すると淡路島の石屋神社をさす。

堂跡嶺、富士山、妙見山+明星ヶ岳

夏至、堂跡嶺(小松山)では8月18日富士山と明星ヶ岳の方角から日が昇る。

堂跡嶺(小松山)の8月18日の日の出

堂跡嶺と夏至の乙姫岩、冬至の乙姫山

夏至、堂跡嶺(小松山)横の現在ゴルフクラブの建物が建設されている辺りから夏至に乙姫岩と艮山から日が昇り、冬至は乙姫岩と亀山から日が昇る。

堂跡嶺(小松山)横の夏至の日の出

堂跡嶺(小松山)横の冬至の日の出

石屋神社

石屋神社-堂跡嶺-妙見山-明星ヶ岳-富士山ライン

堂跡嶺(小松山)と富士山のラインの延長線上にある淡路島の石屋神社が元在った場所、城山から富士山への線上に明星ケ岳と妙見山が並ぶ。

石屋神社-富士山

石屋神社と明星ケ岳と妙見山

8月18日の日の出は富士山の方角、妙見山と妙見山の間、明星ヶ岳と堂跡嶺(小松山)・御机神社の方向から昇る。

石屋神社8月18日の日の出

石屋神社、夏至の日の出

夏至の日の出は養老山、鏡山と龍王山の間から昇る。

石屋神社、夏至の日の出

妙見山と金星(虚空蔵菩薩・明星菩薩・明星天子・普香天子)

古墳や神社仏閣の配置では、明星・妙見信仰の意図をもって配置されている様子なので他の妙見山と明星山、虚空蔵山の配置を見てみました。

茄子石

茄子石・夏至の日の入り妙見山・虚空蔵山・竜王山

星田新池の公園から奥まった場所にあり、古地図では家ほどの大きな石があったと言われている茄子石(現在の聖滝近辺)から観た夏至の日の入りは、妙見山と虚空蔵山の間の竜王山です。

茄子石・夏至の日の入り妙見山・虚空蔵山・竜王山

正傅寺

正傅寺と明星ヶ岳・妙見山・富士山

8月18日、八丁三所の降星伝説の獅子窟寺と同じく薬師瑠璃光如来像のある四条畷市の正傅寺では富士山の方角で明星ヶ岳と妙見山が重なった場所から日は昇ります。

正傅寺8月18日日の出

夏至の日の出

夏至や冬至の日の出にはなにかの祈りがこめられているようです。

星の森

交野ケ原の降星伝説の星の森の夏至の日の出は、伝説の中で弘法大師空海が祈った獅子窟寺の獅子窟のある百重ヶ原の王の墓(亀山院陵)から昇ります。

星の森の夏至の日の出と王の墓(亀山上皇の墓)

まだまだ興味深い配置がみられるのですが、それはまた次回メモします。これら人為的に祈りの気持ちを表わしたであろう配置や山々へのネーミングは、仏教と神道の教義に詳しい人が見ると色々面白いものなのかもしれません。

以前島薗進先生、平川秀幸先生他Twitter上の先生達が呟いていた神社のトポロジーとが頭の中であわさり色々と調べたのですが、つくづく感じたのは、各神社はほぼ元寺院であり、寺院と神社は昔はセットであった点です。どれだけ大規模な伝統の破壊が明治維新時の廃仏毀釈の時に起ったのか、どれほど大量の仏教芸術が破壊されたり流出したりしたのかと思うと-そういえば今回調べたあの寺院や神社のお地蔵様は破壊されていたな、とかを思い出すにしても-物凄い規模の喪失だったのだなぁと残念に思います。これら祈りの思いを込めた神仏の配置の破壊が-空海さんの足跡が残っているのですが-もし、日本の精神世界の荒廃となにか関係があるとするのならば、本当は再現の上、さらに時代に合わせて統合変容しなければならないのかもしれません。


地上に降りた北斗七星と天の川-皇統と神々の交野が原

2017年01月05日 08時10分04秒 | 神話・伝承・民話

地上に描かれる星々

東洋西洋他を問わず、結界のような「配置」による祈りがあります。神の意を反映するために天体現象とリンクされたものも多数あります。

2016年大ヒットした映画「君の名は。」では彗星による流れ星がみられますが、ネット上では先日から記事を書いている星田妙見宮・獅子窟寺の弘法大師空海降星伝説と関連があるのではないかという記述も散見されます(他にも降星伝説はあるのでこことは限らないと思いますが、七夕伝説の地なので恋愛映画と関連づけられ易いのかもしれません)。Twitter上でも以前話題になったお話ですがまとめてみました。

地上に降った天の川-七夕伝説と空海降星伝説

星田妙見宮へ初めて行った際に下記説明を読んだ際、目が点になった記憶があります。

「わが国の隕石落下記録上、二番目に古いとされる弘仁七年(八一六年)の星の降臨によって、この山の大部分が吹き飛ばされ、馬蹄形になっています。(略)※最古の記録は、七六四年 続日本紀(日本天文史料下巻神田茂編)」 星田妙見宮の降星伝説説明書き

こちらは割と新しく加えられた説明書きだと思うのですが、ペルセウス流星群に伴う現象であれば7月23日の降星とは合致しているようにも思えます。

「当山に伝わる弘仁七年(八一六年)七月二三日の七曜星降臨縁起の隕石落下地点が、この滝壺であったようだ。北斗七星と同じ方向からやって来るペルセウス座流星群、その母彗星スイフト・タットル彗星からの隕石であったという。「私の再発見したスイフト・タットル彗星のかけらの鉄の部分が、星田妙見宮に落ちた可能性は非常に高いですねぇ。」彗星探検家 木内鶴彦氏『宇宙の記憶』より」 登龍の滝(星田妙見宮)説明書き

こちらのページでは2026年8月5日地球に再接近するスイフト・タットル彗星を再発見された木内鶴彦氏による説明を読むことができます。

2度あることは3度あるなら、 饒速日命が天の磐船で降臨した地に弘法大師空海が星を降らせたので次もあるかもしれません(^0^;)????)。NHKでも放映していましたが(コズミック フロント☆NEXT「地球への脅威 天体衝突」2016年2月4日)、2093年12月14日地球の近くを通過する予定のふたご座流星群本体3200 Phaethonなど人類は飛来して来る天体の脅威を回避できるようになるのでしょうか。

交野が原・天の川と七夕伝説-地上に降りた夏の大三角形

河内国・星田妙見宮の降星伝説と神社仏閣の配置について、神社に伝わる816年7月23日の空を ステラナビゲーターで描画して検証してみました。

こちらが816年7月23日の北天です。
西暦816年7月23日の北天・大阪府交野市

夏の大三角 その2 ~アルタイルとデネブ~ 浅田英夫2014/7/23
「夏の大三角 その2 ~アルタイルとデネブ~ 浅田英夫2014/7/23」より

星信仰については、星田に「八丁三所(はっちょうみところ)」と言われている言葉がある。それは平安時代初期、嵯峨天皇の時代、弘法大師が私市の観音寺に立ち寄られ、ここで虚空蔵菩薩求門持(こくぞうぼさつくもんじ)の法を修められた。するとその法力によって、その夜、山手に仏眼仏母の光明が輝いた。そこで夜明けになってから山に登り、獅子窟寺山の吉祥院にある獅子の岩屋に入って仏眼尊の秘法を唱えられた。すると不思議にも大空から七曜の星が降り、それが三つに分かれて地上に落ちた。その星の降った所を探してみると、星田の高岡山の南にある星の森、光林寺の境内の森、もう一つは妙見山の頂にある三つの巨石である。以来、これらの石を「影向石(ようごうせき)」として祭ることになったと言われている。―妙見山影向石略縁起による。― ふるさと交野の地名 星田(ほしだ)

この816年7月23日の天頂の星を七夕の行事のように水鏡に映したと見立てて(丁度裏返った形で)交野が原の地図の上に置き、星田妙見宮の降星伝説の機物神社-牽牛石-獅子窟と重ね合わせると、概ね実際の夏の大三角形と天の川の方角に重なります。

獅子窟寺の獅子窟でを捧げた昔々の人達は七夕物語を地上にうつしたのかもしれません。

交野が原に降りた夏の大三角形と天の川

天の川と豪族・息長氏と新羅と百済

交野が原の山々を越えた西側に拡がる天王は、豪族・息長氏に関する史跡が多い地域です。息長氏の本拠地米原市にも伊吹山から流れる天野川があります。息長氏は古事記・日本書紀の神話の中では新羅系の王子・天日矛との関連がありますが、交野が原はその新羅と唐に滅ぼされた百済国の史跡が多く、外国での二つの国の王族が出会う地域でもあったようです。

この近江国坂田郡を根拠地とした古代豪族が息長(オキナガ)氏である。天野川流域には、5世紀末~6世紀後半の息長古墳群がある。(略)息長氏の先祖は開化天皇の皇子「日子坐(ヒコイマス)王」とされる。息長氏には、新羅から渡来したという天日槍(アメノヒボコ)伝承が結び付けられる。天日槍から数えて4代目・多遅摩比多訶(タジマヒタカ)の娘が息長宿禰王(オキナガスクネオウ)と結婚し生まれたのが息長帯比売(オキナガタラシヒメ)。神功皇后である。 近江史を歩く 41.湖北の古代豪族息長氏(米原市)

古代史やアジアの歴史にとても暗く見当違いかもしれませんが、実在が確認できる一番昔の天皇と言われている継体天皇も福井・滋賀県方面の豪族の地から来た方ですから、今に続く皇室の祖先は滋賀県福井県方向からの血縁も重要なのかもしれません。

機物神社・糸吉神社は渡来人由来の神社だといわれています。悲劇の伝説のある源氏の滝の麓にある糸吉神社は今ブラタモリで流行中(?)の崖状の地形のへりにあり、町を広く見渡せる場所にありました。ただ、崩壊が進んできているようで神社は少し荒れています。

たとえば,交野市倉治の古墳群や津田・藤阪の古墳群などは渡来人の交野忌寸が住んだ土地で,彼らは大陸の織物文化をこの地に伝えた。 民間伝承の地域的特性に関する歴史地理学的研究-交野ヶ原における天体伝承を事例に 中村好恵(佐々木高弘ゼミ)

冬至の復活の祈りか-太田茶臼山古墳-交野山観音岩の日の出ライン

交野山 観音岩からの大阪夜景 Night View from Mt.Kono Osaka Japan

冬至の日の出について興味深いラインがあります。宮内庁が継体天皇陵とされていますが歴史学者からは否定的見解を受けている太田茶臼山古墳から見た冬至の日の日の出は交野山の頂にある信仰の巨大岩「観音岩」の上にありますが、そのライン上に百済王神社禁野車塚古墳、村野神社、機物神社糸吉神社源氏の滝が並びます。冬至を境に日の光は長くなりますから、クリスマスの様に太陽信仰の復活の祈りであったのかもしれません。渡来系の神社が多く並ぶことからも、もしかすると唐と新羅に滅ぼされた百済国の復活の祈りであったのかもしれません。

冬至の日の出・太田茶臼山古墳と観音岩

交野が原の地上の北斗七星?

1000年以上前の神社と遺跡の配列でその妙見信仰の北辰(北極星)と北斗七星信仰を地上で描けないかを試みると、北斗七星と北辰(北極星)の位置関係的な配置が見えてくるのは興味深いと思いました。昔々の人達の呪詛返し(??)なのかもしれません。

下記はステラナビゲーターの西暦816年7月23日の大阪府交野市の夜空です。(ステラナビゲーターはとても楽しいソフトです)

大阪府交野市西暦816年7月23日の夜空・ステラナビゲーター

主に千年以上前の神社・史跡で交野が原に北斗七星を描いてみました。1つは継体天皇が即位した樟葉宮ではないかと言われている交野天神社を剣先星とする北斗七星。その北斗七星が示す北極星(北辰)は、新羅国と関係がある豪族・息長氏の重要な神社、京都市八坂神社とも関係が深い元祇園・朱智神社の近くの三国の国境を指しています(河内国・山城国・大和国)。

もう1つはその朱智神社も含めた北斗七星で、この北斗七星が指し示す北極星の位置は本物の継体天皇陵ではないかと言われている今城塚古墳ですが、天神社は元々別の場所(交野天神社の可能性あり)から移設されたそうで何かの意図-今城塚古墳を指し示す意図?-があったのかもしれません。

交野が原と北斗七星

朱智神社が立つ地域は「天王」という地名で、その東の普賢寺地域は筒城宮(多々羅都谷)の継体天皇の時代に栄えた息長氏の勢力範囲、朱智神社の祭神は迦邇米雷王(開化天皇曽孫・神功皇后祖父)、古事記では新羅国王子アメノヒコボシの子孫と迦邇米雷の息子・息長宿禰王の間に神功皇后は誕生しています。東の北斗七星は新羅-神功皇后-継体天皇系とも言えます。

西の北斗七星は、継体天皇が即位した樟葉宮のある交野天神社。その祭神は百済王家10代末裔の方が母の桓武天皇の父、光仁天皇。桓武天皇が天神を拝んだといわれる杉本神社または日置天神社、百済王家ゆかりの百済王神社、こちらは百済系+継体天皇の北斗七星と言えます。

日置天神社 曳かれていないだんじり 枚方市 日置天神社(その1) 中横、新屋敷

そしてこの交野ケ原を荘園としていた石清水八幡宮の新宮山八幡宮(旧星田村)の冬至の日の出は東大寺大仏殿ですが、その建立は唐の貢献が大。交野ケ原は唐+新羅、百済、日本が共生する地でした。東大寺の開眼をされた菩提僊那はインドの僧でした。

平成の鑑真像が誕生 奈良、唐招提寺で開眼法要

東大寺・菩提僊那大遠忌法要(唄・散華)

枚方・百済フェスティバル 第15回枚方・百済フェスティバルに協力しました 2015年5月13日 四天王寺ワッソ

北辰(北極星)信仰の地の北斗七星が指す北極星が豪族・息長氏の朱智天王という符号と、継体天皇という符号は、男系の継承ができず
手白香皇女の「女系の血」が天皇家の血筋を伝えた時代の王統、外交(百済と新羅+唐)についての対話の名残りなのでしょうか。

キトラ古墳の天文図とあうかしら?とも思ったのですが、中国の星座と現代の星の対応がよくわからずやめました。

交野ケ原の地上の北斗七星と地上の夏の大三角形の整合性

上記、交野ケ原西の北斗七星と夏の大三角形で整合性があるかどうかを見るために夏の大三角形から北極星を探してみましたが、概ね夜空の通りになり整合性がありました。


星田妙見宮とたたら製鉄と鉄バクテリアと製鉄の神様

2017年01月03日 04時05分18秒 | 神話・伝承・民話

金属と妙見信仰

妙見信仰は製鉄と関係があるそうです。

妙見信仰についてはすでに述べたように百済聖明王の第三子淋聖太子の渡来と関係しており、その系譜はタタラ姓を名乗る中世豪族大内氏に引き継がれていく。清澄山信仰 がその系譜とどのように関連するのかは定かではないが、全国的にみても妙見、虚空蔵が製鉄とかかわることはほぼ間違いのないところである。 房総地域の山岳宗教に関する基礎的考察 井上孝夫

鋳物の記録

しかし前回の記事で触れた星田妙見宮周辺では、旧田中家鋳物民俗資料館のような鋳物の記録はあっても製鉄業が盛んだったという記録はネットにはありません。森遺跡はもしかすると日本最古の鍛冶業の記録かもしれませんが、この付近で製鉄が盛んという記録はありません。一番近い鉄の産地といえば岐阜県大垣市の金生山赤坂地区の赤鉄鉱ですが、輸入鋼か国内産かの結果は出たのでしょうか。それとも、降星伝説があるので隕鉄を使用したのでしょうか?

たたら製鉄に関する記録

旧星田村近接で交野ケ原と呼ばれた地域にも該当している山城国綴喜郡多々羅の新宮神社では、製鉄技術を伝え帰化し多々羅姓の祖となられた百済の国の王族が祀られています。

鉄バクテリア-湖沼鉄による製鉄

北欧でも記録があるそうですが、河川・湖沼の鉄バクテリアが産みだすベンガラ鉄を原料にした製鉄が河内地方で行われていた可能性があるそうです。

大阪(河内)では、弥生時代~古墳時代までの鍛冶遺跡・鍛冶関連遺物が多く発見されている。
しかし鉄原料の調達や、原料そのものが何であったかは明確ではない。
現在、通説では多くは朝鮮半島からの舶載品とするが、出土する鉄滓量から見ても、これほど多くの精錬鍛冶をまかなうだけの鉄原料を遠隔地より運搬したのは非合理的ではないか。
 そこで、古代での製鉄(製錬)の可能性を検討する為、近隣にその製鉄の原料となり得て、比較的容易に採取・入手できるベンガラ(鉄バクテリアの代謝生成物・川や田で見られるオレンジ色の浮遊物・沈殿物、いわゆるパイプ状ベンガラ)に着目し、この鉄分が古代製鉄の原料に利用可能か、又、利用の可能性があるかを、その組成・成因や地質などから検証するとともに、今回は鍛冶遺跡のある大阪府交野市近隣から採取したパイプ状ベンガラを試料に、実際に製鉄・鍛冶も行った。古代製鉄原料としての褐鉄鉱の可能性~ パイプ状ベンガラに関する一考察 ~山内 裕子

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鉄バクテリア生成物による製鉄は可能なようですが、近年生物学ではそのメカニズムについての報告が相次いでいるようで、バクテリアなど生物を使用する核物質の処分は物理学関連研究者に嫌われているようではありますが、原子力発電所事故に苦しむ日本にとってはもしかすると朗報かもしれません。

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八丁岩と天の川源流の稀少鉱物が露天掘りされていた鉱山

旧星田村から磐船神社がある磐船街道を抜けた奈良県の八丁岩、四条畷では花崗岩やペグマタイト鉄リチア雲母針鉄鉱(鈴石)、放射性物質含む稀少な鉱物が産出されたので、それらも範囲に含めれば星田妙見宮もまた鉱物の産地と関連があると言えるかもしれません。かつてそれら稀少な鉱物をバクテリアが吸収しそれを原料としていたならば、加工にむいている鉄がとれた可能性もあります。

フェルグソン石、褐簾石、変性ジルコン 最近田久保教授の発見された稀元素鉱物の新産地 鉱物学雑誌第1巻第5号362-369,1954年1月
明治20年にペグマタイトの露頭が発見されて以来約80年間,引つづき採掘され,(略)良質のセキエイ,チョウ石を出鉱している。このペグマタイト中にはしばしば希元素鉱物が含まれ,現在までにフェルグソン石,ジルコン,カツレン石などの産出が報ぜられ,また最近はトロゴム石,イットリア石等の産出も知られている。 桜井欽一、加藤昭、吉川輝四「日本産鑛物資料(その十七)」 鉱物学雑誌第4巻 第6号 450-455 1960年7月

旧星田村の茄子石

それらの鉱脈は星田村からかつて見えていた巨石・茄子石(今は崩されて不在)のすぐ裏手なので、茄子石がそれら稀少な鉱物の露頭だとしても矛盾はないように思います。夜明けの黎明の時間の紫外線に光るウランガラスの様に、それらの石またはそれらから作られた工芸品が光ったとすれば、まるで明けの明星の様に光ってみえたかもしれませんし、フェルグソン石が割れた断面は瑠璃光を持っていますから、放射線の有害性がよく知られていなかった時代ですから、珍重された可能性も??

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北河内地方の製鉄鋳物

北河内における製鉄に関するネット上の記録は少ないのですが、少しだけひっかかる遺跡があります。

九頭神廃寺跡・延喜式内社久須々美神社と製鉄

明治42年3月、旧:坂村字九頭神(現:枚方市牧野本町1丁目)から片埜神社合祀された久須々美神社の御祭神は久須々美大神です。

河内国國式神私考』によると「王仁之霊神」だそうです。その王仁とは伝承の墓が同市内にある西文首(かわちのあやのおびと)の始祖、和邇吉師(わにきし・王仁)のことだと思われます。

『平成祭礼データ』によると「櫛御気野神、家津御子神、熊野櫛御毛奴神、熊野加武呂乃神などと異名同神」、つまり熊野大神=須佐之男命のことだそうです。

他の久須々美神社では?

三穂津姫命を祀る磯城郡の村屋坐弥冨都比売神社の摂社・久須々美神社の祭神は天之久之比神、事代主神、経津主。こちらの御三神と何か関係があるのかもしれません。

経津主は国譲りを大国主に説いた神。
イザナギに十拳剣(天之尾羽張)で殺された火迦具土の血から産まれた磐筒男神を祖とします。

事代主神は国譲りの際に父・大国主の代わりに回答した神で、
三島大社では山の神として鉱工業で祀られる大山祇神の二神で三島明神(本地仏・薬師如来)です。
三嶋溝樴姫(勢夜陀多良比売)との間に産まれた媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)は神武天皇の皇后です。タタラの名前から、たたら製鉄との関係があるという説もあるそうです。

多度大社・鉾立社の天久之比乃命

天久之比乃命は新撰姓氏録の右京神別下に「桑名首天津彦根命男天久之比乃命之後也」(天久之比乃命は天津彦根命の子で桑名首の祖)とあるそうです。最初に書いた美濃国金生山赤坂地区の赤鉄鉱と関係があるのでしょうか?
素戔嗚尊と天照大神の間に産まれた天津彦根命の子、ダイダラボッチとも関係があると言われている天目一箇神は「時高皇産靈尊勅(略)天目一箇神爲作金者」とある金属加工の神なので、同じく天津彦根命の子とされる天久之比乃命もそうい性質を持っているのかもしれません。

北河内の久須々美神社も大地の中の火(火迦具土-磐筒男神-経津主・伊豆諸島の火山を統べる三島大明神としての、タタラ製鉄に関連する名前を持つ妻の事代主神)や、作金(天目一箇神の兄弟を祖とする天久之比乃命)と関係があったかもしれません。

九頭神廃寺出土銅造誕生釈迦仏立像

旧坂村字九頭神(現:枚方市牧野本町1丁目)の九頭神廃寺跡のどんどん山からは「ロウ型による鋳造と思われる白鳳時代の仏像」銅造誕生釈迦仏立像が出土しています。

九頭神廃寺出土銅造誕生釈迦仏立像