ぺんぺんぐいん

ぺんぎん歩きは卒業したよ。

チャップリン

2006-02-06 20:50:58 | ジャグ・マイム
は、親日家だったらしい。4度も日本を訪れていたのだとか。
トレードマークのステッキは、滋賀県産なんだって。

って、新聞に載ってた。

4年生の夏学期ヒマになる(予定)。チャップリンをたくさん見よう。

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無声映画ということで、マイムの話でもたまにチャップリンが出てくる。
セリフがないのにいろんな情景がチャップリン映画の中に見られるというのは、マイム的だ。
あるいは、コメディアンとしても例えばチャップリンの歩き方なんてのはかなり工夫されていて、参考にする人も多い。

反面、「壁」とか「ロープ」とかのいわゆる「テクニック」というのは全く見受けられない。
「無対象」と言って、あたかもそこに物が存在するかのように見せるテクニック。

マルセル・マルソーがそれらテクニックの「型」を作って、
さらには「愛」や「憎しみ」、「歓び」なんてものについてまでも「型」を作って、一つの流儀を打ち立てた。

「型」があれば修得しやすくなるし、実際それらテクニックはどんどん広まって、今や
「『パントマイム』?あぁ『壁』とかやるやつでしょ?」
と言われるくらいにまでなった。

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でも実はマイムが目指すものは「精巧で不思議なテクニック」ではないんだな、って最近気付かされた。

1950年代あたりにフランスのジャン・ルイ・バローというマイマーが日本にやって来て、
能の観世寿夫と互いに芸を披露しあうセッションが行われた時の映像を見た。

バローというのは、今でもツタヤに行けば「クラシック」のコーナーにちゃんと置いてある
「天上桟敷の人々(Les enfants du Paradis)」という映画にも主演している俳優。

能とマイムの共通項というのは割と前から注目してたんだけど、ついにその映像を見ることができた。

バローのマイムは僕がこれまでに見たアメリカ的なマイムに比べれば幾分か抽象的で、しかし力強かった。
具体的な物の形を空間に析出させるのとはまた別のやり方で、
世界を構築し、ほとばしる感情を強烈に表現してた。

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『星の王子様』を書いたサン・テグジュペリはその著作の中で
「大切なことは、目に見えないんだ」
と言っていたけれど、バローのマイムもまさにそんな感じ。

死に瀕し想像を絶する苦痛に喘ぐ老いた母親。もう助かる見込みもない、断末魔の苦しみ。
来たる母親の死を覚悟して、その横で必死に木材をのこぎりで切り棺桶を作る息子。

一人二役でそんな場面を演じているのだけど、特に棺桶の具体的な形が表されるわけでもないし、
のこぎりの刃がどうとか、そういうことも語られない。

ただ狂気のように腕をふるう息子と、激痛・呼吸困難・その他あらゆる苦しみに泣き叫ぶ母親。

形のない大切なものを、形のないままに表現している。

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チャップリンの映画は基本的にコメディーなのでそんな瀬戸際の迫力ある場面はないんだけど、
それでもテクニックらしいテクニックを使わずに様々な情景を描き出してみせる点については、
やはりバローと共通している気がする。

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そうか、別に「壁」とか上手くなくてもいいのか。

いやそういう問題じゃないか。。