無縁社会

2010-10-31 23:44:41 | インポート

実はこのところ図書館で借りてきた手塚治虫の漫画に夢中になっている。「ブッダ」、要するにお釈迦様の伝記を手塚治虫流にアレンジした作品だ。キリスト教信者としてはまずいかもしれないが、それだけの読み応えのある内容なのである。

当方、生まれ育った環境がなにしろ鎌倉以来の古寺にゆかりの土地だ。実際の血縁もお寺さんに関係していて、子供のころから大きく影響を受けてきた本は宮沢賢治の作品ときている。漫画とはいえ、さすが手塚先生で、60を超えたおばはんが読んでも感動するのだからすごい。仏教と一口に言ってもさまざまな宗派があり、考え方も違うからやたらにはまとめられないのだが、手塚先生はごくオーソドックスな釈迦の思想を漫画で表現したものなのだ。

生老病死の四苦に始まる人生の意味への疑問、実は当方もそれが元でキリスト教、カトリックの門を叩いたわけだが、この「ブッダ」の中の答えは、ある面ではキリスト教とも通じていると思う。キリスト教とは大きく違う部分は視点が人間だけではなく、人間も含めたあらゆる生きとし生けるものすべてを見つめているところだろう。人間も大自然の一部としてそこにあるという視点はキリスト教にはあまりない。

友のために命を捨てるという表現はあっても、子供を抱えて飢えている虎を哀れんでわが身を虎に食べさせる、捨身飼虎の思想は生まれてこないようだ。仏教では虎も人間も同じ苦の娑婆に生きる命なのだ。

「ブッダ」の中で後にブッダになるシッダルタがブラフマンに、「宇宙というのは大きな大きな生命なんじゃ」「宇宙という大きな生命のもとから無数の生命のかけらが生まれ・・・この世界のありとあらゆるものに生命を吹き込んで折る・・・わかるかな・・・だから、虫でもゾウでも人間でも花でもみんなもともと同じ仲間じゃ・・・」とか、「この世のあらゆる生き物はみんな深いきずなで結ばれているのだ・・・人間だけではなく、犬も馬も牛も、トラも魚も鳥も、そして虫も・・・それから草も木も・・・命のみなもとはつながっているのだ。みんな兄弟で平等だ、おぼえておきなさい。そして・・・みんな苦しみや悩みを抱えて生きている・・・これを「衆生」と呼ぼう・・・・・・誰でもいい、人間でもほかの生き物でもいい、相手を助けなさい。苦しんでいれば救ってやり、こまっていればちからを貸してやりなさい。なぜなら、人間もけものも、虫も草木も、大自然という家の中の親兄弟だからです・・・」

長々と引用したもののそれをまとめると、それは「人々はどういきるべきか」という人間愛の根源を教えている・・・ということになるのだが、ここにはヨーロッパキリスト教世界のような人間中心の視点はどこにもないのだ。

現代は無縁社会、人と人との縁、かかわりの絆がない社会だという。ということは社会を支えるべき人間愛も失われている社会だということだろうか。かかわっても自分に都合のよい相手とだけとか、これではキリストさまでも、お釈迦さまでも、嘆きそうな情けない時代ではないか。

今日はカトリック教会の、ホームレス支援の活動についていろいろな話を聞いてきたのである。それで考えさせられたのは、生活保護を受けることができたとしても、生きがい、やりがいのない生活、仲間同士の助け合いや交流のない生活に、人は耐えられないのだ。大自然の一員としては猿の仲間である人間は群れて生きる動物なのであり、虎のように孤高の生活を送るように作られていないのだ。

ただ、衣食住が安定すればそれで人間としてまともに生きていけるかというとそうではない。もうひとつ、文字の違う「医・職・充」がどうしてもかかせないのだそうだ。「充」は自分の力で何かをやり遂げる達成感、充足感の「充」で、「職」、仕事と切り離せないのかもしれない。人間は社会の中でどこかに所属し、自分の役割を果たしていると感じられる場がなければ、衣食住の安定だけでは幸せではないということなのだろう。

問題が大きくなりすぎるが、宗教を信じるものとして、愛とか慈悲とかを少しでも考えるとすれば、おなかを満たす食べ物も必要だが、心を満たす、挨拶や、優しい言葉、人と人との縁を結ぶきずなも大事なのだろうと思う。

 


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