はてな、なんだか変な感じ、これは何だろう

2015-09-27 17:17:01 | Weblog
今日は日曜日だし、少しはまじめにいこうと、たいしてよく考えた上でのことでもなく、ただ何と無く日頃からいつも気になっていたので、軽い気持ちでyoutubeに何か「十字架の聖ヨハネ」に関するものはないかと検索してみたところ、ここに載せた3つのものがまあまあ、あまり的外れなものではないように感じたのでアップした。その後、googleで検索しても日本語のヨハネ関係はほとんど探しているものとは無関係なので、もう一度youtubeにもどってみた。

十字架の聖ヨハネとは直接関係はないものの東方教会の教会音楽は心に響いた。ここで日本人の心の世界の話に寄り道してみるが、日本古来の神道の考え方では死は忌むべきもの、禍々しい物ということになるのに対して、後から日本にもたらされた仏教の感覚では死は誰にでもやってくるもの、避けがたいものということで受容的になっている。

どちらもキリスト教の死の捉え方とはだいぶ違うものの、どちらかといえば仏教、それも日本の大乗仏教のほうが近いような気がする。そこには死後の世界や救いの考え方が何となく感じられるからだろうか。

しかしこのどちらも十字架の聖ヨハネとはあまり結びつかないのだが、これは日本人のキリスト教知らずの結果だろうか。日本語ではいくら探してもgoogleさんも答えようがないようだ。

それなら素人だしほんのごくわずかな知識しかないがこれまで四ツ谷の教会や上野毛の講座で教わったことから考えたほうが早い気がした。正直に言って大聖テレジアはよくわからないのだ。ああいう感覚は私の中にないのだもの。しかし、十字架の聖ヨハネの言っていることはすぐにぴんとくる。そうだ、そうだ、そうなんだといいたくなることばかりだ。

一応、先祖代々鎌倉時代からの中山法華経寺の、日蓮宗の影響を蒙って育ってきたことも関連しているのかもしれない。とにかく教わらなくてもわかるのだ。最もわかることとそのまま実践することはイコールではない。世俗の中でああいう考え方を通すのは不可能だとも思う。一般人には一般人の世界のやり方が必要だ。

しかし、十字架の聖ヨハネについての毀誉褒貶、もうちょっとあの人を正しく判断しないといつまで経ってもおかしな見方ばかりがひろまってしまう。あんまり一般的でなさ過ぎるのも確かだし、日本人の感覚ともずれているのも確かだけれど、このすばらしい宝を正しく伝えることが出来ないのはもったいないじゃないか。なんとかならないのだろうか。

でも、カルメル在世会などは年齢制限まであるそうで、本当に求める人間も入れない組織だし、ああいうものには期待しても無駄だろう、もっと違うものを考えなくては。