peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

「アテルイの本拠地はどこか」(鎮守府探訪講座2016・第3回)2016年9月18日(日)

2016年09月19日 | 講演会

2016年9月18日(日)、奥州市埋蔵文化財調査センター(奥州市水沢区佐倉河字九蔵田96番地1)主催「鎮守府探訪講座2016」第3回『アテルイの本拠地はどこか』と題して開催されました。13:30~15:00時、講師所長・佐久間 賢さん。

 

 (上)講座は、プロジェクターによる映像とA4判10ページの印刷物に基づいて説明されました。

1.アテルイの本拠地に関する諸見解(下記の見解を詳しく紹介しながら、問題点を指摘)

 アテルイの本拠地について、アテルイの氏姓や歴史的な時代背景の考察、発掘調査成果の援用などをもとに見解が示されているが、次の3点に集約される。

(1)北上川川東「田茂山」地区説

 地名考証をもとにした見解で、及川洵著「蝦夷アテルイ」に代表される。(詳細は省略)

(2)北上川両岸地区説

 樋口知志著「阿弖流為」で示された見解に代表され、地名考証を中心とした(1)を包括、発展させた考え。(詳細は省略)

(3)角塚古墳関連説

 朝倉授氏がアテルイ通信46号『「阿弖流為」、そして「大墓公阿弖利為」~アテルイの名前に関して(中)~』、第60号『「大墓家」銘墨書土器と「大墓公」』で示した見解に代表される考え。(詳細は省略)

2.発掘情報/胆沢エミシとアテルイ時代のムラ(詳細は省略)


3.アテルイの本拠地はどこか 

発掘情報から判明するアテルイ時代のムラは、大きく5地域(角塚古墳周辺を3群に細分した場合は7地域)となる。この中から、地名考証と発掘情報を踏まえ、文献資料に散見する幾つかのキーワードからアテルイの本拠地を推定する。 

(上)胆沢の有力エミシとみなされる人物に胆沢公阿奴志己がいる。類聚国史延暦11年(792)正月11日条に、『陸奥國言。斯波村夷胆沢公阿奴志己等。~』と記述されている。延暦8年(789)、紀古佐美とアテルイの戦いから3年後のことで、「斯波村の夷」と説明されています。何らかの理由で胆沢を離れ斯波村に居たものと思われるが、このことに符合する発掘情報に、8世紀頃に姿を消したと考えられるムラがある。(中略)この地域で姿を消した玉貫遺跡は胆沢を離脱した胆沢公阿奴志己の拠点集落と見做すことができ、胆沢川北岸地区はアテルイの本拠候補地から除外できると考える。

残る4地域のうち東大畑遺跡では、大規模なムラを想定することができないので除外。宮地遺跡、落合遺跡、兎Ⅱ遺跡、力石Ⅱ遺跡など河東に位置する江刺地域も、ムラの出現時期や巣伏村との関係から該当しないと考える。宮地遺跡などのムラは、アテルイ時代の一時期、8世紀後半でも終末段階と考えられる。「続日本紀延暦8年(789)6月3日条は、阿弖流為之居」の北に「巣伏村」を置き、巣伏村をアテルイの本拠地に位置付けていないように見える。「

 以上のことを踏まえると、角塚古墳近接遺跡群(清水下遺跡、二本木遺跡、漆町遺跡、塚田遺跡、沢田遺跡A区)と杉の堂遺跡群アテルイ本拠地の最終候補地になる。前述した角塚古墳関連説と北上川両岸地区説の2説に絞り込むことになるが、後説が想定している本拠地の修正が必要となる。河川区域を形成する河東にムラを想定することはできないので、河西の杉の堂遺跡群に限定することになる。

アテルイの本拠地が角塚古墳近接遺跡群と杉の堂遺跡群のどちらにあったか。現状での確定は難しく、次の点(①アテルイ関連地名の信憑性。②アテルイ本拠想定地域の」修正。)からを踏まえ、帰納的に推論した場合、アテルイの本拠地は角塚古墳近接遺跡群になる。



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1 コメント

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Unknown (山田久夫)
2020-07-28 16:44:50
鎮守府国府は何処に在ったと思われますか? 多賀城?多賀城ではありません。
多賀城は賀美郡部内の城郭で伊治城の乱で国司等が逃げ込みました。栗原郡の隣で近かったからです。多賀城碑は江戸時代に発掘され多賀城跡の根拠としましたが神亀元年に大野東人は按察使や鎮守将軍に未だにんじられていません。虚偽が記されています。多賀は名取以南十四郡から遠くはなれているので權郡を置くことを大伴家持が提言しています。多賀城が名取郡近くにある道理がないのです。
賀美郡部内の多賀城は鎮守府や国府ではありません。吾妻鑑に多賀国府とあり碑出土地の発掘調査が行われ該当時代より一世紀以上前に廃絶された遺跡と判明しています。多賀国府は実在しないのです。多賀城へ軍粮を運び込むよう命じられた国司は命に従わず天皇から非難されています。陸奥国衙は信夫郡にあり、鎭官府は宮城(福島市瀬上宮代)にあり、阿武隈川、摺上川(衣川)の合流点の三所に営を構えていました。約束の期限が過ぎ阿武隈川の東岸の巣伏村(伏黒)を焼き払い軍威を誇示し北上、阿武隈川猿跳峡谷で軍列が縦隊になったところで阿弖流為母礼等に前後を塞がれ東山から威され阿武隈川に飛び込み千人以上溺死、泳ぎ渡った兵士が着いた所に兜渡という地名が残りました。官軍は東越山の大道を夷大墓公阿弖流為に塞がれ仕方なしに阿武隈川東岸のルートを選んだのです。
東越山の大道の近くに馬ノ墓と言う地名があります。馬は駒,駒は高麗を意味し渡来系移民の墓所と考えられます。この付近を居地とたので夷大墓公阿弖流為、
磐具公母礼の磐具は伊具と考えられ、これらの一連の土地は地続きで一部阿武隈川が流れています。猿跳峡谷部はこの中にあります。国司も征討軍も刈田郡以北へ入れず敗績したのです。通説の多賀国府が続日本紀解釈を誤らせています。
神亀元年に多賀城が作られたとする多賀城国府説は虚偽多賀城碑文に基づくもので虚構です
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