池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

出会い頃、別れ頃(19)

2024-06-17 14:24:58 | 日記

 予知夢とはいっても、未来に起きる出来事をその通りにリアルに見てしまうということではない。たいていの場合、それは暗示であり、比喩である。その意味するものがすぐに理解できることもあるが、そんな直接的な夢はごくごく少数である。同じ系列の夢をいくつも見ることが多いので、それらすべてから判断して「ああ、こういうことか」と納得するか、実際の体験の後に一連の夢を振り返って「ああ、そういう意味だったのか」」と了解する。しかし、その他多くの夢は謎のまま残る。なんだ、それなら普通の夢とたいして変わらないじゃないか、と考える向きもあろう。しかし、それでも、これらは私にとって未来の様相を示唆する予知夢に他ならないのだ。

 自分が体験した事柄が自分にとっての唯一の現実なのか? 私はそう思わないのだ。私の目の前にある現実はいくつも折り重なっており、私はそのうちの一つだけを選んで経験しているにすぎない。それが私の考えである。だから、実際に私の身の上に起きようが起きまいが、私にとって、やはりそれらは予知夢に違いないのである。

 その日に予知夢が疲労困憊の私に訪れた時、私はかなり驚いた。長い廊下で庭を見ていたという内容に衝撃を受けたわけではない。だいたい、それが何を意味するのか、まったくわからなかった。私が衝撃を受けたのは、その種の夢からは十年近く離れていて、もう完全に縁が切れたものとばかり考えていたのに、それが再び自分に舞い戻ってきたからだ。

 こういう厄介な癖がつきまとうようになったのは、小学校の低学年の頃だったと思う。それ以前にもあったのかもしれないが、よく覚えていない。小学校になって夢の意味に気づき始めた。そして、小学校の高学年になった時、ある事件があった。私は、従兄弟が病死する夢を見てしまったのだ。