池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつく老人の日常

姉妹(13)

2019-04-30 18:58:43 | 日記

 新江古田の病院に着いた時は夕方だった。病室に入ると、母は点滴を受けながら眠っていた。呼吸器を付けているのと顔が少しだけ紅潮しているのをのぞけば、普段と変わりない様子であった。

 担当の医師はすでに帰宅しており、代わりに看護士が状況を簡単に説明してくれた。生命に係わる状態ではないと、看護士は何度も繰り返した。

 何もすることがないが、すぐに帰る気にもなれなかったので、理恵は母の枕元に椅子を寄せて座った。しばらく母の顔を見ていたが、このところ仕事で睡眠時間を削っていたせいか、すぐに睡魔に襲われた。

 誰かに名前を呼ばれたように感じて、理恵は瞼を開けた。目の前では、母が相変わらず眠っている。
「お母さん、私を呼んだ?」理恵は、母の耳元に口を近づけて言った。しかし、母は何の反応も示さなかった。

 いったん病室を離れ、廊下の自動販売機で熱いお茶を買い、病室に戻った。母を見ながらお茶を飲んでいると、母の頭と肩が少し揺れた。たぶん、何かの夢を見ているのだと思った。すぐに、あごが何度か震え、母の口からまた声が漏れた。
 はっきりとは聞き取れなかったが、先ほどと同じように、自分の名前を呼んでいるように思えた。しかし、確信は持てない。何か違っているような気もしていたからだ。
「お母さん、何て言ったの?」
 理恵は、母の肩に手を置き、耳元で声を出した。母は、薄く目を開け、理恵を見て、安心したように再び瞼を閉じた。

 帰宅し、夕食と入浴の後、久しぶりにビール缶を開けた。今晩は仕事をしないで、このまま寝るつもりだった。パソコンを開き、ビールを飲みながら、たまった公告メールを捨てる。
 その時、佐伯からメールが届いていたことに気が付いた。三日前に差し出したことになっている。なぜか、見逃してしまったらしい。

『お元気ですか。
 昨日、後輩たちの応援に行ってきました。団体で準決勝まで残り、最後は優勝候補にさんざんやられましたが、ベストフォーは三十年ぶりということでOB会は大盛り上がりでした。
 そのうち、また愚痴を聞いてください。佐伯』

 返事を書こうとした時、ひどい眠気に襲われた。目も開けていられないほどだ。パソコンを落とし、残りのビールを流しに捨て、ベッドに潜り込んだ。

 真夜中、ある考えがレーザー光線のように脳裏を貫通し、理恵は跳ね起きた。
 母が何と言ったか、頭の中できれいに再現できたのだ。

 理花……そう、母は『理恵』と言ったのではない、『理花』と呼んだ。

 突然、心臓が猛スピードで胸を打ち始めた。息が喉につまるほどの速度だ。
 頭にひどい熱がわき出てきて、脳が暑さの中でのたうち回る。

 理恵は飛び起きて、着替えを始めた。
 

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姉妹(12)

2019-04-28 19:34:26 | 日記

 今日は、これまでとは違い、ひどく険悪な雰囲気だ。時々見せる横顔は、両方とも生硬で、語尾が鋭い。

 理恵は、信じられない気持ちで二人を見た。彼女たちは、朝に仕事に出かけるとばかり思っていたからだ。今日は日曜日なので、特別なシフトなのかもしれない。
 理恵は、二人の後ろ姿をじっと見つめる。
 これは本当に偶然なのだろうか……そんな考えがわいてくる。

 先ほどまで、透明で安定していた心が、揺れ始める。これまでの人生で、理恵は、何か大きな災難が降りかかってくる前に、必ず不可思議な体験をしているからだ。この姉妹も、何かの予兆ではないか……

 その時、携帯電話が鳴った。さっきと同じ施設の女性スタッフだ。
「たびたび、すみません」
「いえ」
「今さっき、先生の診断が終わりまして……」
「いかがでした?」
「熱の方はたぶん大丈夫だろうとおっしゃっていました。でも心臓がちょっと弱っていらっしゃるようなので、大事をとって一度入院させた方がいいということでした」
「そんなに悪いんですか?」
「ちょっと待ってくださいね」

 電話口に医者が出た。医者は、風邪自体はたいしたことはないが、こじらせないように病院で体力を回復させた方が良いと説明した。奥歯にものが挟まったような口ぶりであったが、電話で押し問答をしても無駄なので、理恵は了承した。老人の身体なのだ、医者でもなかなか判断がつかないことが多くあるのだろう。

 電話を終えた時、もう姉妹の姿はなかった。

 そこから実家まで、用心しながら歩いた。なにやら精神状態が再び不安定になりつつあったからだ。こういう時にこそ、丹念に呼吸し集中力を保つ努力が必要だ。しかし、集中力は上がらない。何度も妄想が脳裏をよぎり、そのたびに気持ちが呼吸から離れてしまう。その状態は、実家で整理を始めてからも続き、あまりに注意が散漫になるので、作業は中断した。

 とりあえず、母が入れられた病院に行ってみようと思った。

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姉妹(11)

2019-04-28 16:55:31 | 日記

 それから二日後、草稿が完成した。約束の期日まで、あと一週間は残っている。理恵の経験から、それだけ時間があれば見直しはほぼ完璧にできるはずだった。
 少し迷った個所やもっと書き込んだ方がよさそうか個所、ロジックの展開に注意すべきところなどは、草稿を作る過程ですべてマーキングしてある。それらを中心に文章を足したり削ったりして完成形に近づけ、数字などの基本データに誤りがないか照合し、最後に全部を読み通して細かい修正をする。それで最終版が出来上がる。

 キーボードから離した手をまっすぐ頭上に突き出して大きな伸びをして、時計を見た。
 午前十一時。少し逡巡したが、自宅で昼食をとって実家に行くことにした。

 キッチンのテーブルで食事しながら、タブレット端末で動画サイトを観ていると、携帯電話が鳴った。
 母が入所している施設からだ。

「もしもし」
「あ、お忙しいところをすみません。ホームの望月ですけど」甲高い中年女性の声が耳に響いた。
「いつもお世話になっております」
「こちらこそ……ええと、お電話したのはですね……お母さまがちょっとお風邪を召されたみたいで」
「悪いんですか?」
「いえいえ、軽い風邪みたいですけど、朝から熱が出ているので、念のために先生をお呼びしているんですよ」
「はい」
「ホームの規則で、お医者さんに来てもらった時には、必ずご実家に電話を入れることになっているものですから」
「わざわざ、ありがとうございます」

 電話を切って、カレンダーを見た。日曜日である。ホームで契約しているドクターがわざわざ往診に来てくれるのは、休日のせいであろう。電話口で女性が言っていた通り、特に心配するほどのことはなさそうだ。

 午後一時、いつもの通り、丹念に呼吸を整えてから出発する。このところ、ずっと気になっていた仕事にようやく目途をつけることができたせいか、心も軽い。スムーズに集中度が高まり、しかも途切れることなく意識の状態を維持できる。

 東長崎を過ぎた頃、突然、ひどい雑音が耳に飛び込んできて、一瞬で集中力が吹き飛んだ。

 視線をあげると、あの背の低い姉妹が前を歩いている。

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姉妹(10)

2019-04-26 15:15:47 | 日記

 入浴を終え、ベッドに入る前に、パソコンのメールボックスをチェックした。新着メールの一番上に、静岡の建築設計事務所からのものがある。開いて添付書類を表示し、記載された改築の概要と仮見積もりに軽く目を通した。

 見積もりを依頼したのは一ヶ月ほど前だ。南池袋の実家は売却を決めているが、下田海岸にある母親名義の家は、リフォームして残しておきたいと考えていたからだ。まだ決定したわけではないが、できれば、母を施設から出して二人で一緒に暮らしたいと思っている。

 母が育ったのは三島市内だ。不動産などを扱う裕福な一家で、下田に別邸を持っていた。母親は、小さい頃からこの下田の家が大好きで、遺産相続の時、特に頼んでこの家を自分の名義にしてもらったらしい。

 理恵自身も、この家にはたくさんの思い出がある。今でもよく覚えているのは、夏休みのことだ。
 理恵は、小学校の高学年から、毎年夏休みは夏期講習に通っていた。前期が二週間。それからお盆休みが一週間あるので、その間に学校の宿題を片づける。さらに後期講習が一週間ある。これらの日程をすべて終えると、新学期まで一週間程度しか残っていない。その間に、母が下田の家に連れていってくれるのだ。

 家の近くには、地元の人しか来ないような小さな海水浴場があり、そこで同年代の子供たちと泳いだり、磯で遊んだり、夜には子供会と称して浜で花火をやったり、楽しい思い出が今でも頭に詰まっている。そこで親しくなった数人とは、大人になってからも付き合いがあった。

 今では空き家になっているこの思い出深い家屋を恒例の母と自分が使えるようにし、母の終の棲家にしたいというのが理恵の願いだった。周囲の集落にはまだ知り合いが残っているし、何より、母はこの土地を喜んでくれるはずだ。言葉は失っても、風景の記憶は残っているはずだから。それに、ここに住むことで理恵も精神的に安定するかもしれない。元気になれば、地元の子供たちに英語を教えるとか、翻訳やガイドをやるとか、田舎でも充実した日々を送ることができるだろう。
 

 

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姉妹(9)

2019-04-25 15:50:05 | 日記

 姉妹の様子は、先日とまったく同じだった。理恵が呼吸に集中している間に、どこからともなく現れ、理恵とほぼ同じペースで歩き、歩いている間はずっと会話しており、知らない間にいなくなっている。
 おそらく、椎名町あたりの小さな施設で掃除とか洗濯の仕事をしているのだろう。歩いて出勤するのは、電車賃を説明するためだ。格好から見て、あまり長く日本に滞在するタイプの人間ではなさそうだった。或る程度お金が貯まったら、故郷に戻って結婚し、姉妹それぞれ家庭を築くのではないか……理恵はぼんやりとそんなことを考えた。

 実家での書類整理は、頭が疲れてあまり気が乗らないので、予定より早く切り上げることにした。畳の上に置いた書類を段ボールに戻すとき、ホコリをかぶった古い茶封筒が理恵の目に入った。出産の時の資料が入っていたことだ。育児書、産婦人科のパンフレット、しおりにいくつかの書き付けがあった。おそらく、理恵を出産した時のものだ。

「どうして、こんなものまでとっておくのよ」
 口元をゆるめながら、理恵は中にざっと目を通した。四枚折りにした便せんには、複数の電話番号が書き留められており、端っこに走り書きで『理花』とあった。おそらく、生まれてくる子供の名前を考えていたのだろう。『理花』というのを第一候補にしていたに違いない。理恵は、なんとなく、『理花』という名前が気に入っていた。
「理花になっていたら、私の人生も少しは変わったかしら」そんなことも考えた。

 封筒を戻す時に、何か違和感のようなものがあったが、そのままやり過ごした。

 いつも通り、帰りがけに施設に寄って母と一時間ばかり一緒にいた。

 自宅に戻ったら、すぐにパソコンを立ち上げて仕事である。草稿の完成まであと少しだ。また二三日外出を控えて頑張る必要がある。
 


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