新江古田の病院に着いた時は夕方だった。病室に入ると、母は点滴を受けながら眠っていた。呼吸器を付けているのと顔が少しだけ紅潮しているのをのぞけば、普段と変わりない様子であった。
担当の医師はすでに帰宅しており、代わりに看護士が状況を簡単に説明してくれた。生命に係わる状態ではないと、看護士は何度も繰り返した。
何もすることがないが、すぐに帰る気にもなれなかったので、理恵は母の枕元に椅子を寄せて座った。しばらく母の顔を見ていたが、このところ仕事で睡眠時間を削っていたせいか、すぐに睡魔に襲われた。
誰かに名前を呼ばれたように感じて、理恵は瞼を開けた。目の前では、母が相変わらず眠っている。
「お母さん、私を呼んだ?」理恵は、母の耳元に口を近づけて言った。しかし、母は何の反応も示さなかった。
いったん病室を離れ、廊下の自動販売機で熱いお茶を買い、病室に戻った。母を見ながらお茶を飲んでいると、母の頭と肩が少し揺れた。たぶん、何かの夢を見ているのだと思った。すぐに、あごが何度か震え、母の口からまた声が漏れた。
はっきりとは聞き取れなかったが、先ほどと同じように、自分の名前を呼んでいるように思えた。しかし、確信は持てない。何か違っているような気もしていたからだ。
「お母さん、何て言ったの?」
理恵は、母の肩に手を置き、耳元で声を出した。母は、薄く目を開け、理恵を見て、安心したように再び瞼を閉じた。
帰宅し、夕食と入浴の後、久しぶりにビール缶を開けた。今晩は仕事をしないで、このまま寝るつもりだった。パソコンを開き、ビールを飲みながら、たまった公告メールを捨てる。
その時、佐伯からメールが届いていたことに気が付いた。三日前に差し出したことになっている。なぜか、見逃してしまったらしい。
『お元気ですか。
昨日、後輩たちの応援に行ってきました。団体で準決勝まで残り、最後は優勝候補にさんざんやられましたが、ベストフォーは三十年ぶりということでOB会は大盛り上がりでした。
そのうち、また愚痴を聞いてください。佐伯』
返事を書こうとした時、ひどい眠気に襲われた。目も開けていられないほどだ。パソコンを落とし、残りのビールを流しに捨て、ベッドに潜り込んだ。
真夜中、ある考えがレーザー光線のように脳裏を貫通し、理恵は跳ね起きた。
母が何と言ったか、頭の中できれいに再現できたのだ。
理花……そう、母は『理恵』と言ったのではない、『理花』と呼んだ。
突然、心臓が猛スピードで胸を打ち始めた。息が喉につまるほどの速度だ。
頭にひどい熱がわき出てきて、脳が暑さの中でのたうち回る。
理恵は飛び起きて、着替えを始めた。