池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

この教えにあっては、最もよく愛する者が偉大なのではなく、最もよく考える人が偉大である

2024-08-13 09:45:17 | 日記

パウル・ダールケ「仏教と科学」より

遠くからであっても、ブッダとその教えの重要性を感じ取った人は、そこには全くユニークな何かがあると感じ取るに違いない。世界のあらゆる宗教だけでなく、あらゆる哲学や科学大系さえも、すべて1つの側に集めることができるが、仏教だけは、それとは全く違う側にいる。しかし仏教は、それらのアンチテーゼではなく、現実についての教えであり、現実はそれ自体がアンチテーゼの結合なのでアンチテーゼを持たない。ブッダは、自分の自我が把握できる範囲内でのみ、現実を把握した。彼は、そこに秘密の法則、聖なる謎々を発見した。それは、デルフォイの神託にように、一時かつ同時に暴露でも隠蔽でもあり、外界のコーラスがあざ笑うように我々に歌いかける、そんな謎々である。

啓示を土台にして立てられた全ての宗教は、明らかに革命的な性質を持つ。仏教は、純粋な進化、言い換えるなら、思考が最高点を通過し、逆戻りしながら作用するような、そんな精神的発達のプロセスである。このようなあらゆる生命価値の逆転は、論理的必要性として、これ以上生存が続かないように格闘するという、我々にはわかりにくい斬新な観点を持っている。ここから先、真実はもはや人生の奉仕者ではなく、人生そのものが真実となる。蝋燭が自分自身を消費することによって自分の姿を現すのと同じように、自我も、自分を思考に費やすことにより自分の姿を現す。この教えにあっては、最もよく愛する者が偉大なのではなく、最もよく考える人が偉大である。

この教えの全体像については、後述の説明を読まなければ理解できないだろう。しかし、当面は、これから先の記述の準備として読者に役に立つかもしれない。この最も早い段階において、読者は、人生ではなく真実を求める人間となる。彼にとって、人生はそれ自体としては何の価値も持たず、真実を見つけるための道具として価値を持つ。人生の謎々を解き明かそうと努めながら、人生を神聖なものとして安全な場所に置いているような人は、測定すべき対象を測定尺度そのものにしているわけであり、私はそういう人を惨めな真理探究者と呼ぶ。

感性的に結びつくこと、若い世代の教育と種の伝搬という仕事を成功させるための賢い取り決めを思いつくこと、これらは動物にも可能である。彼らが群れの中で共同生活を送るための取り決めは、人間などよりずっと天才的である。しかし、最も高度に発達した動物でさえ、疑う、問題にする、探求するという能力については、ほんのわずかの暗示しかない。

 

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