池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

信仰と科学はなぜ対立するか (パウル・ダールケ)

2024-08-18 10:09:25 | 日記

「信仰と科学は、世界という同じように与えられた1つのことから出発しているのに、どうして全く対立する概念を持つに至ったのであろうか?」

存在する全てのものは、一方で「在る何か」であり、もう一方では「起きる何か」、すなわち、プロセスとして永遠に変化し続ける状態にある何かである。

何かが起きれば、そこには適切な原因がなければならない。これらの適切な原因が力を持つ。

全てのプロセス、すなわち世界イベントの振る舞い全体は、2つの大分類に入る。すなわち、活性化されないまま続いていくプロセスと、自ら自分を維持していく活性化されたプロセスである。後者は、たとえば炎などの燃焼プロセスや生物の栄養摂取プロセスである。

全ての非活性プロセスは、落下として解釈または読解できる。このタイプの例としては、落下する石がある。石は、落下を引き起こす内在的力を持って落下するのではない。それが落下するのは、最初にそれが持ち上げられ、石と地表との間にはテンションに差があるからである。したがって、この落下は、あらかじめ力が働いているという意味において、「前もって」力が存在していたのである。そうでなければ、石の位置と地表との間で差が生じることは決してなかったであろう。物理学は、石の落下を異なったやり方で解釈する。すなわち、落下運動の間、地球からの引力が働いているとする。これは、統一的な物理的世界理論のために提示された、純粋な作業仮説である。

機械的、化学的、熱的、電気的、磁気的またはその以外の同様の現象についても、例外なく、あらゆる物理的な出来事が落下する石とほとんど同じように解釈され理解される。高い場所からテンションの低い場所への落下と同じように、全てが受け取られる。どれもこれも、何らかの作用を働かせる力が前に存在していたという意味しか持っていない。それぞれのケースにおいて、我々は行為に関与せず、反応だけに関与しているというのが本当のところである。

いまここで現実に力が作用していないことの証拠は、テンションの差が調和されたとたんにプロセスが停止するという事実から理解できる。

このような反応の世界というのは、全ての科学の本来的領域である。

科学は、論証を与えることに熱心なので、感覚器官で感じ取れないものは存在しないという場合にのみ、その存在理由がある。現実に生命プロセスがあれば、そこには実際に力が存在していなければならない。しかし、力は、絶対に感覚器官では感受できない。感知可能なあらゆるものは、その適切な原因について、すなわち、それを存在させている力について必然的に疑問を抱く。不活性の再・現実プロセスでは、それ自体には力が作用しているわけではなく、したがって、力はリアルなものではなく、概念的な要請、単なる論理的前提でしかない。したがって、この再・現実世界の解釈においても、実際の力に関する疑問をあっさりと排除し、これを潜在性、テンションの差に置き換えてしまい、感知可能な領域の中にとどまるようにすることが常に可能となる。

テクニックに全面的に力を注いでいる科学、すなわち、前もって測定し計算すること以上のものは何も狙っていない科学にとって、このような立場は完全に許容可能なものである。なぜなら、前もって計算や測定が出来るのは、再・現実の手続きでしかありえないからである。これこれの星が天におけるこれこれの位置に来るだろうという場合、前もってきわめて正確にそれを計算することができる。しかし、来月私が親指を右か左かのどちらに回すかについては、それを前もって計算できるような科学やアカデミーは世界に存在しない。

科学が世界に対してとっている立場とは、感覚器官に感知できない全てのものを原則として拒絶し、必然的に再・現実世界だけに限定し、その中で世界イベントの振る舞いを機械的概念にするというものだ。


全世界の中で1つのことだけは、それについての概念と対象が分離されない形で成立している。それは、私自身である

2024-08-17 10:32:27 | 日記

ラテン語とは正反対で、パーリ語は著しく現実的な特徴を持つ言語である。見かけ上は論理とは反対であり、欧米の学者は多少なりともそのような好ましい性質をブッダのせいにしているが、そのような現実性の豊富さがこの言語の崇高さを高めると同時に、その思考も際だたせている。現実の中には、定義されたもの、または定義可能なものはまったく存在しない。それは冷酷なほど連鎖した動きでしかない。全ての定義は、現実との一種の妥協であり、全ての本物の思想家たちは常にそう見なしている。

仏教およびその言語には、このような現実性が含まれているので、ぴったりした翻訳がほとんど、または全く見つけられないような表現が多い。言語を使うことで、我々は、定義に次第に強くなるが、現実の把握には弱くなるという、一種の段階的な硬直プロセスを経験する。これは、明らかに、悪循環である。我々は、自分たちの定義能力を自慢にしており、物事を定義で飾り立てることに成功したとき、我々はそれを理解したものと思いこんでしまう。このような場合に、実際に我々がやっていることは、言ってみれば、物事のずっと上の方に思考の橋をかけて、自分の足を現実の中でぬらすことなく、概念的な「場所」から「場所」へと飛び移るだけのことである。ボンの近くのライン河には、こんな言葉を記した石碑が建っている。「カエサルは、最初に、この河に橋を建設した」。教室や実験室で、物事や現実の上に新しい定義を「押しつけた」とき、自分をカエサルのように感じる人は少なくない。このような賢者において、人生の謎々は、ほぼ完璧に定義によって解決される。しかし、結局のところ、ほとんどが定義だけで成り立っているような人生の謎々など、たいしたものではない。

世界の全ての物事は、対象と概念が分離できるような形で構成される。すなわち、概念は、対象と離れて「操作」できる。ある意味で、全ての精神生活というのは、概念と対象を一致させようという試みと言ってよいだろう。しかし、我々は終わりのない連続の中に迷い込んでいるので、この試みは永遠に失敗する。全世界の中で1つのことだけは、それについての概念と対象が分離されない形で成立している。それは、私自身である。なぜなら、私自身がある通りに私は私の概念を作るからである。概念を形成しようという試みは、いつでも、私自身の在り方の1つである。ここにおいて、私という概念は、それ自体が経験であり現実だ。私自身は、唯一であり、自分にアクセス可能な世界の純粋現実である。仏教は現実を教えるものである。それは、世界の純粋現実だけをもって出発し、この地点から、世界イベントのあらゆる振る舞いを例外なく、思考の渦巻きの中に吸い取ってしまう。そして、このことによって、我々はブッダ思想そのものが我々の前に現れるのを見る。


アビダルマ哲学要諦(33、最終)

2024-08-15 14:15:36 | 日記

サンガハの最終章である第9章は、理論でなく実践に関するものである。この章のタイトルは「瞑想科目の概論」であり、「清浄道論」の要約のような形になっている。ここでは、「清浄道論」で徹底的に論じ尽くされた瞑想方法の全てを簡潔に吟味し、瞑想、集中および内察の両面で、進歩の段階を概観している。この章が要約している名作「清浄道論」と同様に、ここでも悟りに至った人間とその果報および寂滅を4タイプに分けて説明している。

「アビダンマッタ・サンガハ」は、このような構成を取ることにより、アビダンマが目指す究極的な救済の道を強調したかったのであろう。心や物質の理論的分析はすべて、最終的には瞑想の実践に収束し、この実践が最高点に行き着いて、仏教の聖なる目標、すなわち無執着による心の解放に到達するのである。(了)


この教えにあっては、最もよく愛する者が偉大なのではなく、最もよく考える人が偉大である

2024-08-13 09:45:17 | 日記

パウル・ダールケ「仏教と科学」より

遠くからであっても、ブッダとその教えの重要性を感じ取った人は、そこには全くユニークな何かがあると感じ取るに違いない。世界のあらゆる宗教だけでなく、あらゆる哲学や科学大系さえも、すべて1つの側に集めることができるが、仏教だけは、それとは全く違う側にいる。しかし仏教は、それらのアンチテーゼではなく、現実についての教えであり、現実はそれ自体がアンチテーゼの結合なのでアンチテーゼを持たない。ブッダは、自分の自我が把握できる範囲内でのみ、現実を把握した。彼は、そこに秘密の法則、聖なる謎々を発見した。それは、デルフォイの神託にように、一時かつ同時に暴露でも隠蔽でもあり、外界のコーラスがあざ笑うように我々に歌いかける、そんな謎々である。

啓示を土台にして立てられた全ての宗教は、明らかに革命的な性質を持つ。仏教は、純粋な進化、言い換えるなら、思考が最高点を通過し、逆戻りしながら作用するような、そんな精神的発達のプロセスである。このようなあらゆる生命価値の逆転は、論理的必要性として、これ以上生存が続かないように格闘するという、我々にはわかりにくい斬新な観点を持っている。ここから先、真実はもはや人生の奉仕者ではなく、人生そのものが真実となる。蝋燭が自分自身を消費することによって自分の姿を現すのと同じように、自我も、自分を思考に費やすことにより自分の姿を現す。この教えにあっては、最もよく愛する者が偉大なのではなく、最もよく考える人が偉大である。

この教えの全体像については、後述の説明を読まなければ理解できないだろう。しかし、当面は、これから先の記述の準備として読者に役に立つかもしれない。この最も早い段階において、読者は、人生ではなく真実を求める人間となる。彼にとって、人生はそれ自体としては何の価値も持たず、真実を見つけるための道具として価値を持つ。人生の謎々を解き明かそうと努めながら、人生を神聖なものとして安全な場所に置いているような人は、測定すべき対象を測定尺度そのものにしているわけであり、私はそういう人を惨めな真理探究者と呼ぶ。

感性的に結びつくこと、若い世代の教育と種の伝搬という仕事を成功させるための賢い取り決めを思いつくこと、これらは動物にも可能である。彼らが群れの中で共同生活を送るための取り決めは、人間などよりずっと天才的である。しかし、最も高度に発達した動物でさえ、疑う、問題にする、探求するという能力については、ほんのわずかの暗示しかない。

 


アビダルマ哲学要諦(32)

2024-08-11 11:03:29 | 日記

第6章をもって、アヌルッダ師は、4つの究極的な真実に関する分析論を完了したことになるが、アビダンマの全体像を描くには必要不可欠な重要議題がまだいくつか残っている。これらは、最後の3章で採り上げられる。第7章「カテゴリー概論」は、4つの究極的真実を様々なカテゴリー方式を使って整理するが、主な方式は次の4つである。すなわち煩悩の概要、異なる倫理的特性を持つ項目を集めた混合カテゴリーの概要、悟りの必要条件の概要、アビダンマ存在論を全ての総括した全体的な概要である。本章は、「分別論」に強く依存しており、「法集論」にもある程度基づいている。

第8章「縁起の概論」は物理的および心理的な現象の相互関連性に関するアビダンマ教説を紹介するためのものであり、これによって究極的真実の分析作業を統合的作業で補い、これらの機能的な相関関係を解明している。この解説文では、総括として、パーリ聖典にある縁起について、2つの代替アプローチを紹介している。1つは、経典でよく採り上げられ、「分別論」(VI)において経とアビダンマの両面から分析されている縁起の方法である。この方法は、生と死のサイクルである輪廻に人を結びつける因果パターンについて、条件付けを考察する。もう1つは、24の条件関係を持つパッターナの方法である。この章の最後は概念(paññatti)の短い説明で終わっており、少なくともその意味内容については「人施設論」に依拠している。