池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつく老人の日常

空間の歴史(27)

2019-01-30 15:03:41 | 日記
そう、私にはわかっていた。私は、このまま、あの古いビルの前まで歩いていき、地下に下りて、暗い穴の中に戻るのだ。なぜなら、私はもうすぐ目覚めようとしているのだから。

私の足下はさらにおぼつかなくなり、目の前の雑居ビルの窓や飲食店の看板がぐにゃぐにゃになって私に迫ってくる。
それは、私の生きてきた空間がまもなく終わりを迎えるという予告でもある。

私の息が荒くなり、首から足先までいろいろな場所が痛む。
小さい穴に窮屈な姿勢で寝ているせいで、身体のあちこちで痛みが発生するのだ。しかし、それもあと数分のことだ。もう私は目を開けるだろう。
まるで、夢の最後を飾るかのように、長いため息のような風が私を通過していった。

しかし……私は夢の中の虚しい存在であり、私が生きてきた時間は単なる幻だったのだろうか?
私は、そうは思わない。
極度に追いつめられた精神状態の中で、私の脳内から発したインフレーション空間は、確実に私にとっての「現実」だった。この現実の中を、私は必死に生きてきた。だが、何事もそうであるように、これも終わりを迎えなければならないのだ。

私は今、この空間の歴史とともに、数十年前に自分に戻らなければならない。

目覚めた私に、どんな風景が待っているのか。この派生空間で起きたのとまったく同じことを経験するのだろうか? それとも、まったく別の人生が待っているのか?

私にはわからない。(了)


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空間の歴史(26)

2019-01-29 16:06:13 | 日記
日曜日の朝の電車は空いていた。話す人はおらず、皆黙って、じっと無為な時間に耐えている。

池袋駅に到着したのは七時半だ。調査員の話では、息子が姿を現すのは八時過ぎだ。私は缶コーヒーを買い、少しずつ口に含みながら、西口広場を一周した。息子らしき人物は見当たらなかった。

コーヒーの空き缶を回収ボックスに放り込み、今度はキオスクで新聞を買った。広場の端に立ち、新聞を読むふりをしながら、広場の様子を観察した。

五分、十分、十五分……私の視線に、赤いジャンパー姿の男が飛び込んできた。階段に腰を下ろし、下を向いている。私は新聞を閉じ、階段の真横に回った。男の顔をよく観察するためだ。適当な距離で立ち止まり、再び新聞を開く。横顔だけなので、断定はできないが、かなり写真の顔に近い。

男が顔を上げた。(やはり、そうだ、息子だ)と直感した。
新聞をカバンの中にしまい込み、息子に話しかけるために近寄る。
すると、息子と思しき男は、すっと立ち上がり、駅前ロータリーに向かってすたすたと歩き始めた。私も続く。

(どうしよう、いつ声をかければいいのか?)
そう考えているうちに、男は横断歩道の前で立ち止まった。赤信号なのだ。
(よし、話しかけるのなら今だ)と考えて、足を速めた。すると、信号が変わり、男は再び歩き出す。私もついていく。

不思議な距離感だった。私が少しだけ歩く速度を上げれば、すぐに追いつく程度の距離だ。しかし、なぜか私の足取りはぎこちなく、なかなか前に進まない。

男は、繁華街へと入っていった。もちろん、日曜日の朝にこの付近を歩く人は少ないが、それでも、気を緩めればすぐに見失ってしまうかもしれない。私は、もつれそうになる足を必死で動かした。

男が右に寄れば、私も右側にコースを変え、左に曲がれば、あわてて左旋回する。
そんなことが何分も続く……

私は、まだ歩いていた。
しかし、私の前に、あの男はいない。いつの間にか視界から消えた。
それでも、私は、自動機械のように歩いている。

私の頭に、漠然と、あのビルの地下にある小さな穴が浮かんできた。



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空間の歴史(25)

2019-01-28 15:20:59 | 日記
目覚まし時計の叫び声とともに、私はゆっくりと身体をベッドから起こした。
実を言えば、その一時間前から目が覚めていた。しかし、考えがまとまらず、ベッドの中でじっとしていたのだ。

第一に、どうやれば自分が実父であることを証明できるのかという問題だ。
前妻は、私が交通事故で死んだことにしている。おそらく息子もそれを信じているだろう。顔が似ているというだけでは不十分だ。それは、写真を見た私の主観に他ならないのだから。

洗面台の前で、鏡を見ながら歯を磨いているうちに、自然に結論は出た。
父親と名乗るのはやめよう。いま一番必要なのは、息子の窮状を救うことだ。実父の証明に時間をかけるより、他人になりすまして息子を支援する方がずっと価値がある。そう、匿名の人間から依頼を受けた興信所または法律事務所の調査員とでも自称すればよいのだ。実父を名乗るのは、もっと後からでも遅くない。

おそらく、息子から信用を勝ち取るためには、それなりの工夫が必要だろう。
私は、クローゼットを開け、ずっと着ていなかった古い背広を引っ張り出し、パジャマを白いワイシャツに着替えてから羽織ってみた。少しきついが、我慢できないことはない。ネクタイも地味なものを選んだ。それに加えて……

私は、普段使っている老眼鏡をかけ、洗面台に戻って鏡を見た。白髪交じりの頭に黒縁メガネ。鏡に映った姿は、真面目で誠実な初老の調査員に見えないこともない。

さて、次に考えるべきなのは、息子の救済法だ。これは簡単、依頼主の匿名氏からお金を預かったと称して、息子に当座の生活費を渡せばよい。
おそらく、まだ失職中のはずだから、就職の世話もする必要がある。

私の頭に、大学の同級生Nのことが浮かんだ。
あの男は、いくつもの会社のオーナーになっている。彼に頼み込めば、そのうちの一社に採用してもらえるのではないか。

全ての用意が調った後、私は池袋に向けて自宅マンションを出た。
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空間の歴史(24)

2019-01-27 17:47:34 | 日記
「息子さんの所在がわかりそうなんです」と調査員は、興奮した声で伝えた。「先週、元同僚の方から連絡がありましてね、息子さんらしき人を見たというんです」
「場所は?」
「池袋です」
やはり私の勘は当たっていた。大塚から遠く離れた場所に行くはずがない。

調査員の説明によれば、その元同僚は、毎週日曜日にボランティア活動をやっており、そのために池袋駅で電車を降り、西口から要町に向けて歩いていく。その時、広場にいる息子を見かけたというのだ。最初は「似ている男がいるなあ」というくらいに思っていたが、何度も見るにつれ「彼に間違いない」と思うようになった。しかし、あまりに身なりが悪かったので声をかけられず、興信所に電話してきたという。

「それで、広場に行ってみて、あの辺りで生活している人に尋ねてみたんですが、やはり日曜日の朝になると、それらしい人物がふらりとやってくるらしい。それで、私自身、実際に先週の日曜日に行ってみました。朝の七時ごろに、この目で確認しました。息子さんらしき人物がいらっしゃいます。写真も撮りました。早速お知らせしようと電話したんですが、なかなかつながらなくて」
「ええ、ちょっと体調を崩して入院していましたから」
「そうですか、それは……」調査員は口ごもった。「で、どうします?」
「何が?」
「明日、日曜日です。また、息子さんらしき人物が現れますよ」
「そうか、明日か……」
「実際に行って確認されますか?」
「ええ、そうします」
「必要でしたら、私も同行しますが」
「いや結構です。私一人で行ってみます」

連絡に感謝して電話を切った。

「明日かあ……」
長年会いたかった息子に会えるかもしれない。しかし、自分が父親だということをどうやって証明すればいいのか? 息子のために何をやってあげればいいのか?
頭の中で、同じことをぐるぐると際限なく考える。

夜になると、また膝の関節が痛くなってきたので、早めにベッドにもぐりこんだ。
しかし、電灯を消しても、過去のいろいろな出来事が頭を駆け巡り、眠れない。
天井を見つめたまま、時間を過ごした。身体は相変わらず重く、身動きするのも億劫だ。天井が次第に自分に近づいてくるような錯覚に襲われ、次の瞬間、眠りに落ちた。



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空間の歴史(23)

2019-01-26 15:35:52 | 日記
扉を開けると、すぐに変化に気が付いた。
玄関に置いてあった七宝の花瓶と壁にかけてあった版画がない。
靴箱を開くと、妻のヒールやブーツなどがすべてなくなっていた。

居間にいくと、妻が持ち込んだ大型ディスプレイとソファが消えており、代わりに、押入にしまってあったテレビと古い長椅子が置いてある。
窓のカーテンも、昔使っていたものに代わっている。まるで独身時代の部屋に逆戻りしたようだ。
キッチンの食器棚からは、妻の茶碗、グラス、箸などがごっそりなくなっていた。

つまり、部屋から、「妻の要素」がすべて消えていた。

自分の部屋を開けると、そこは一週間前とまったく同じだった。
バッグを床におろし、ベッドに身体を放り投げる。

これは、いったいどういうことなのだ? 妻が家出をしたということか? いや、家出ではない、これは完璧な離婚宣言だ、自分の所有物をすべて持ち出したのだから。
それにしても、書き置き一つ残さずに出ていくのは、まったく妻らしくない。自分の意見や感情は、いつもはっきり口にするタイプだったからだ。

一週間前の口喧嘩がよくなかったのか? しかし、口喧嘩くらいなら、これまでたくさんやってきた。あのとき、私は多少激高したかもしれないが、手を挙げることもなかったし、物を壊したわけでもない。
いつも違っていたのは、息子のことが話題になったことだけだ。しかし、前妻との間にできた子供のことが、妻に離婚を決意させるほどの大問題だとは考えられない。

私は頭を抱えた。何が何だか、わからない。私の認識と周囲とが微妙にずれている気がする。

その時、居間から機械音が届いてきた。どこかで聞いたことにある音だが、と思いながら居間に戻る。
音の発信源は、キッチンのカウンターに置かれた固定電話だった。
ずっと携帯電話ばかり使っていたので、家の中に固定電話があったことすら忘れていた。

かけてきたのは、きっと妻に違いない。
一度深く息を吐き、心を落ち着かせてから受話器を取った。

電話線の向こうにいたのは妻ではなかった。
私に報告書を渡してくれた興信所の調査員だった。
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