池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

出会い頃、別れ頃(12)

2024-06-06 12:10:03 | 日記

 試合をやるに当たり、やっておかなければならないことが二つある。一つはスポーツ保険に入ること。もう一つは試合用のジャージを買うことである。ちょうど忙しい時期だったので、保険の手続きはしたが、ジャージの選定は皆に任せていた。ピンクとかド派手なものを選ぶのではないかという危惧もあったが、そこは彼らのセンスを信用することにした。

 しばらくしてキャプテンがやってきた。ジャージが決まったらしい。カタログを開いて彼が指さした先の写真を見て、私は絶句した。

「ううむ、これは……」

 ラグビー強豪校として知られる某大学のジャージにそっくりなのである。この競技に興味のある人間で知らない人はいないだろうと思われるくらい有名で、「○○ジャージ」と言えば、この大学チームの代名詞になっているほどだ。

「注文は、まだ……」

「いや、もう注文しました。あとでマネージャーがお金を集めます」

 釈然としないが、部員の相違なら従うしかない。

 対戦相手は、この近辺の事情に詳しい旧友に相談した。すると、格好のチームがあるという。高校OBの集まりで、練習より飲み会優先の弱小クラブなのだそうだ。

「いい勝負になると思うよ。もしかしたら勝てるかもね」旧友はそう言ってくれた。

 試合は我々の働く新工場のグラウンドで行った。我々の真新しいジャージの色を見て、相手チームはぎょっとした様子だったが、試合が始まると、逆にジャージとプレイのギャップに驚いたようだ。私もフルバックとして参加したのだが、ともかく凄まじいゲームだった。自分のポジションを忘れてボールの方ばかり行きたがる奴。逆に全然関係ない方向へ必死で走る奴。味方にタックルする奴。滑ったり転んだり、踏んだり蹴ったり……試合の間中ワーワーと叫ぶばかりで、自分たちが何をしているのかもわからず、無我夢中で試合を終えた。ラグビーの試合というより、ボールに群がる百姓一揆。

 結果は、もちろん我々はノートライのボロ負けであった。

 試合後の挨拶で、相手チームのキャプテンが「かっこいいジャージですね」と褒めてくれた。もちろん皮肉なのだが。

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アビダルマ哲学要諦(21)

2024-06-06 10:05:18 | 日記

さらに、それぞれの注釈書には、スリランカの長老であったアーナンダ(Ananda)師が復註(mūlatīka)を付けており、この復注のそれぞれにも、アーナンダの弟子であったダンマパーラ「(ブッダゴーサ注釈書の大注釈家であるダンマパーラ師とは別人である)によってさらに復復註(anutīka)が付けられている。

注釈書の作者はブッダゴーサ師となってはいるが、これを彼自身のオリジナルな著作であるとか、伝えられてきた文献に対する最初の解釈学的試みであるとかと考えるべきではない。これらは、ブッダゴーサが古都アヌラーダプラのマハービハーラ(Mahāvihāra大寺院)で、蓄積された膨大な量の古層解釈文献を発見し、それらを丹念に編纂したものである。その文献とは、この偉大なる注釈家から遡ること数世紀の間に、何世代にもわたって仏教の師が聖典のアビダンマの意味を解明しようとして努力を重ねてきた結果として成立したものであろう。アビダンマ・ピタカに埋め込まれたアイデアについての注釈に、歴史的な変遷があることを見つけようとするのは、たしかに興味深いことではあるが、これをあまりに拡大するのは危険である。なぜなら、アビダンマの本文に注釈が必要なのは、個々の記述と体系全体とがうまくかみ合せて辻褄が合うようにし、文脈を統一させるのに有効だからであり、このような統一性をなくすと重要な意味の広がりを失ってしまうと思われるからである。

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