池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

出会い頃、別れ頃(13)

2024-06-07 13:31:34 | 日記

 N氏は、何か喋っている。しかし、私は昔のラグビー仲間のことを思い出していて何も聴いていない。私も好き勝手に喋っているが、N氏は上の空でありお互い様だ。どちらもぼーっとしているので、相手のことなんか少しも考えていない。それでもなんとなく会話が成立しているのだから不思議である。ハロルド・ピンターの不条理劇みたいだ。

 少し耳を傾けてみると、N氏はドキュメント部での苦労話をしているようだ。そうそう……そちらの記憶へ飛んでいく。N氏の話はもう耳に入ってこない。

 そもそも、我々の苦労の根本原因は、ドキュメント部結成以前に作られたマニュアルや技術資料がまったくの低品質で使い物にならなかったことにある。

 一例を挙げよう。我々の作っている通信システムが一種のノンストップコンピューターであることは前に述べた。どんなことがあってもシステムダウンは許されないので、CPUなどの重要部分は二重にしている。つまり、全く同じ構造のモジュール二つを同期させながら運転し、どちらか一方で不具合が検出されたら自動的にそれを切り離して片系だけの運転にし、不具合の出た系には診断プログラムが走り、簡単な不具合なら自動修正する。修正ができない場合、端末にエラー内容を印字しオペレーターの介在を求めることになっている。このエラーメッセージをどう解釈し、どう対処すればよいかを説明したのが「メッセージマニュアル」だ。かなり緊張した場面で使われるのでマニュアルの中でも特に重要なものの一つである。

 この文書を全面的に作り直すために、参考のために以前に作られたものを引っ張り出して表紙を見たら一気に脱力した。なんとメッセージ(MESSAGE)マニュアルがマッサージ(MASSAGE)マニュアルになっていたのだ。こんなものを客先に納入していたのである。

 こういう例は山ほどある。笑い話ですませられるならいいのだが、そうではない深刻な間違いもある。私が目にした一番ひどい例を挙げてみよう。親会社のメンツにかかわることなので黙っておこうかとも思ったが、事実なのでやはり記録しておくことにする。

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アビダルマ哲学要諦(22)

2024-06-07 09:00:20 | 日記

したがって、注釈書の根本部分がアビダンマ本文と密接に関連した形で作成され、アビダンマと一緒に後世に伝わり、アビダンマ本文が変化することはなかったが注釈には「これでおしまい」というスタンプはないので修正や敷衍が行われたと考えるのは不合理な話しではない。

このことを念頭に置いて、アビダンマ自体では知られていないか、または目立っていないような、注釈書独特のアビダンマ概念について、いくつか簡単に触れておく。その一つは認知プロセス(cittavīthi)を詳細に記述している点である。この概念は、三蔵の中で暗示的に認めることができるが、注釈書では、それを抽出し、それ自体を説明の道具として用いている。アビダンマではチッタ(心)の働き、様々な意識タイプが指定されているが、時間とともに、チッタ自身がその働きによって規定されるようになった。

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