池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつく老人の日常

サーキヤ(釈迦)国の位置特定

2020-09-30 17:53:01 | 日記
第2章 部族と国家

国家と部族はほぼ同じものである。我々は多くの情報があるが、それらは、3つか4つの部族についての断片がほとんどである。残りについては、名前以外はほとんど何も知られていない。

きわめて当たり前の話であるが、サーキヤ族に関しては他より詳しい。この国の大まかな位置については、他の場所との比較で暗示されている(注1)。現在のネパールと英国のほぼ国境あたりである(訳注:本書執筆はインド独立前)。

原注1:ラージャガハから60ヨージャナ=450マイル、ヴェーサーリから50ヨージャナ=375マイル、サーヴァッティから6~7ヨージャナ=50~60マイルなど。近年、ブッダを火葬した後の遺骨を納めた場所の上に、サーキヤ族が立てた仏舎利塔すなわち埋葬塚が発見され、同時に、ブッダの生誕地であるルンビニー庭園を訪れたことが記録されたアショーカ王碑文が見つかり、最終的な位置は確定した。これらが発見された場所のすぐ近くに数多くの遺跡があるが、そのうちどれが、サーキヤ族の首都であったカピラヴァットゥであるか、どれがサーキヤ族の町区であるかは、今後の発掘で解決しなければならない問題の1つである(注1)。古い文献では、そのような町区の名前として、チャーツマー、サーマガーマ、コーマドゥッサ、シラーヴァティー、メータルパ、ウルンパ、サッカラ、デーヴァダハが挙げられている。

原注の注1:古いカピラヴァットゥがチラウラ・コットにあったのは確実である。しかし、サーキヤ仏舎利塔でのペッペ氏の重要な発見は、新しいカピラヴァットゥであった可能性もある。これは、古い町がヴィドゥーダバによって破壊された後に作られた町である。
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イッサとは誰? - ニコラス・ノトヴィッチ『イエス・キリストの知られざる日々』より

2020-09-29 10:34:46 | 日記
イッサとは誰? - ニコラス・ノトヴィッチ『イエス・キリストの知られざる日々』より
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国王と仏教徒サンガとの関係

2020-09-28 07:49:32 | 日記
仏典で国王はたびたび出てくる。実際に彼らとはどのような関係だったのか。

しかし、ブッダの死後、彼は遺物の一部を要求し(ブッダと同じく彼もクシャトリアであったという理由で)、それを獲得し、それらの上にストゥーパすなわち埋葬塚を建築した。

古い記録では何も書かれていないが、より新しい史料では、ブッダの死からほどなくラージャガハで開催された第1次結集では、この国王は、教理の復唱が行われたサッタパンニ洞窟の入口に公会堂を造って提供したと伝えられている。

彼は、仏教の集団にはまったく属さなかったものの、こうすることで、仏教徒に好意を示したのかもしれない。インドの君主の特徴として、全ての宗派に対して支援するというのが通常の習慣になっており、彼は、それに従っただけなのだろう。

折に触れて、他の国王にも少しだけ言及がある。たとえば、スーラセーナ国のアヴァンティプッタや、A.2.I88のエレッヤと彼の宮廷人は、ラーマの息子で弟子でもありブッダの先生でもあったウッダカの信奉者で支援者であった。しかし、詳細な記述があるのは、前述の4人だけである。

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アジャータサットゥは仏教に帰依したのか?

2020-09-27 15:59:17 | 日記
ほぼ同じ頃、ビンビサーラ王も統治を皇太子に手渡した。
少し前から、デーヴァダッタは、移譲を確実にするため、国王を殺害するようにそそのかしていた。
アジャータサットゥは、ブッダが入滅する8年前に、父親を少しずつ餓死させていくというかたちで、このアイデアを実行した。

その後、彼は良心の呵責に苛まれたとき、大勢の従者を連れてブッダの許へ行き、現世でどのような報いがあるのかを質問し、教団のメンバーになったと伝えられている(注1)。このときに国王がブッダに礼拝する様子は、バラハット仏舎利塔のレリーフの主題の1つとなっている。いつもの通り、ブッダ自身は描かれず、足跡だけが示されてる。

注1:このときの会話は有名な「沙門果経」としてまとめられており、この全文を私は”Dialogues of Buddha”というタイトルで訳した。

対話が終わると、国王は、ブッダを自分の未来の案内役だと公言し、彼が父親を殺害した時に感じた自責の念について触れたと言われている。しかし、また、彼は改宗しなかったということも明確に述べられている。
彼が感銘を受けた後も、実際にブッダの教えにしたがい続けた証拠はない。我々が知るかぎり、彼は、倫理的な事柄を話し合うために、ふたたびブッダや教団のメンバーに会ったことはない。また、ブッダが生きている間、彼が教団に寄進したという話も聞かない。
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アジャータサットゥからアショーカ王へ

2020-09-26 17:48:47 | 日記
アジャータサットゥに彼らを襲撃する計画があったことは、「大般涅槃経」の最初でよく知られている通りである(注1)。

この中でブッダは、リッチャヴィ族が贅沢によって脆弱になったら、アジャータサットゥは計画を実行できるようになるだろうという簡潔な予想を出したことになっている。
しかし、バラモンのヴァッサカーラの裏切りによって、ヴェーサーリの首領一族間で意見の対立が起き、アジャータサットゥが圧倒的な軍事力でこの領土を急襲し、完全に破壊したのは、それから3年以上も後のことであった。

注1:その経典では「ヴァッジ族」となっているが、リッチャヴィがヴァッジ族の1氏族であることはA.4.16から明らかである。

また、アジャータサットゥは、ウッジェーニのパッジョータ王からの攻撃を予想して、首都のラージャガハを要塞化したこともよく知られている。
攻撃が実際に行われたかどうか、それがどの程度成功したのかどうかは、非常に興味深い問題である。
その後、紀元前4世紀に、ウッジェーニがマガダ国に従属し、まだ若かったアショーカ王がウッジェーニの執政官に任命されたことはわかっている。しかし、このような結果に至るまでの中間的段階については、何も知られていない。

ブッダが入滅する9~10年ほど前、親しい従兄弟であり長い間教団に参加していたデーヴァダッタが、共同体の分裂を引き起こした。アジャータサットゥ、次にその皇太子が、デーヴァダッタの主な後援者になったとされている。
彼は、ブッダの長年の弟子であり、厳しく対立した敵でもあり、仏教物語のおけるイスカリオテのユダのような存在である。
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