池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつく老人の日常

昭和・歌・坂道(20)

2019-02-25 16:28:44 | 日記
おじさんは無言で歩き始めた。しばらくして、低い声で、独り言のように「馬鹿だったなあ」とつぶやいた。

「お嬢ちゃんは、組合運動って知っているかい?」
「クミアイ?」
「ああ、会社でね、弱い立場の人を助けるために、いろんなことをやるのさ」
「ふうん」
その時、久子は、おじさんの後ろではなく、横を歩いていた。

「おじさんはね、その組合運動をしている時に、会社の偉い人を殴ってしまったんだ」
「……」
「その人はね、その時の傷が原因で死んでしまった……「ひどいことをしてしまった、家族持ちの人だったのに……おじさんだって、最初から殴るつもりはなかったんだ。でも、結局は、人を傷つけて死なせてしまった……馬鹿だったんだね、未熟だった」

おじさんは、再び口をつぐんだ。
二人は、しばらく、沈黙のまま歩き続けた。

「そのバチが当たったんだ」
「バチが?」
「ああ。病気に罹ってしまったんだ。だんだん重くなってきて、もうどうしようもない」
「治らないの?」
「うん……」

おじさんは、立ち止まって、また汗をふいた。
「長い坂だなあ。でも、おじさんは嫌いじゃないんだ、こういう坂を上るのは。少しずつ頂上に近づいているんだからね、歩いているかぎり……」
おじさんは、坂の上を見ながら言った。「おじさんにも夢があった。家族一緒に暮らして、小さいけどゆっくりできる家を持って、遊んだり仕事をしたり……でも、もう駄目だな。おしまいだ」

少し歩くと、雑木林が切れて、空が一気に広くなった。片隅には雲が大きく立ち上がり、ちぎれ雲がときおり太陽を遮った。そのたびに、目の前の道路、土手、畑、遠くの竹林や点在する家々が明るく輝いたり、暗く沈んだりした。
それは、何か深い人生の秘密を暗示しているように見えた。

「きれいだねえ」おじさんは声を上げた。「実にきれいだ、なんてこともない風景だけど」
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昭和・歌・坂道(19)

2019-02-25 12:22:28 | 日記
久子は、用心して、おじさんの二三歩後を歩いていった。
牛乳屋のおばさんは、おじさんのことを「牢屋に入っていた人」と言ったが、歩く様子を見るかぎり、そんな風に思えなかった。
しばらく歩くと、少し立ち止まって大きなため息をつくからだ。そして、思い出したように後ろを振り向き、「お嬢ちゃん、大丈夫かい? 休みたかったら声をかけなよ」と呼びかけた。
悪いことをする人というより、やさしい運転手さんのようだった。
どちらにせよ、家に戻るためには、誰か大人の手を借りなければならないのは事実だ。

道は、集落から離れ、畑と雑木林の間をくぐっていく。
舗装されていないでこぼこ道で、通る自動車の車輪が石ころを全部路肩へ跳ね上げるので、ごつごつしてひどく歩きにくい。

「お嬢ちゃんは、お姉さんがいるって言ったよね?」少し振り返りながら、おじさんが言った。
「うん」
「妹や弟は?」
「いない。お姉ちゃんだけ」
「お母さんは元気なの?」
「うん」
「お父さんは?」
「いない。死んじゃった」
「そうかあ……」

坂道になった。おじさんが、また立ち止まった。大きなため息をつき、ハンケチで顔をぬぐう。もう秋に近いのだが、午後の光線はまだ強い。
「けっこう汗をかくねえ。おじさんは体力が弱っているから」

おじさんが再び歩き出すまで、久子はそばで立っていた。
また、少しだけ、消毒液の匂いがした。

どうして、そんな大胆なことが言えたのだろう。久子にもわからない。

「おじさんは、牢屋に入っていたの?」
おじさんは、びっくりして久子の顔を見た。
「さっきのおばさんが言っていたよ」
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昭和・歌・坂道(18)

2019-02-25 04:47:57 | 日記
「私がその峠まで送っていきますよ」とおじさんは言った。
「ああ、それだと安心だね」とおばさんが返す。「子供一人だと交通事故が心配だからね。近頃はトラックが飛ばすから」

二人の会話は、なお続いた。
久子は、パンを食べ、牛乳を飲みながら、黙ってそれを聞いている。

「あなた、この辺りじゃ見かけない顔だね」
「ええ」
「祭りを見に来たの?」
「そうですね」
「どこから?」
おじさんは、この地方で一番大きな町の名前を言った。そこは、鉄道の駅がある場所である。
「あら、偶然ね」おばさんは大きな声を上げた。「私たちも三年前まで、あそこで商売やっていたのよ。駅のどっち側?」
「西口の方です」
「いやだ、私たちと一緒じゃない。だったら顔を合わせていたかもしれないわね」
「でも、私は高校を出た後に、東京に働きに出ましたから」
「あら、そう……」

「じゃあ、お嬢ちゃん、そろそろ行こうか」
食事を終えてぼんやりしている久子を見て、おじさんが声をかけた。

「あ、顔に何かついているわよ。こっちに来て、拭いてあげるから」
おばさんは、久子の手を引っ張って店の奥の水道口まで連れていった。蛇口を大きくひねって、勢いよく水を出し、タオルで久子の顔をなでながら、耳元でささやいた。

「私、あの男、知っているわ。牢屋に入っていた悪い奴よ。なるだけ早く逃げ出しなさい。私も今から駐在所に行くから。本当よ、早く逃げるのよ」
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昭和・歌・坂道(17)

2019-02-24 16:23:42 | 日記
「どうしたの、どこか痛いの?」と、そのおじさんは尋ねた。リエは首を横に振った。
「誰かと喧嘩した?」今度も首を横に振った。

「うーむ、それじゃあ」と声を出しながら、そのおじさんは久子に一歩近寄った。「帰り道がわからなくなったとか?」
今度は、久子は小さくうなづいた。
「そうか、迷子か……で、どこにおうちがあるの?」
久子が村の名前を告げると、おじさんは腕を組んで口を尖らせた。
「おじさんもね、この辺りの人間じゃないから、よくわからないんだよ。でも、誰かに尋ねればわかるんじゃないかなあ」

久子は、しゃがんだまま、おじさんの顔を見上げた。短髪で、半分白い。頭だけ見ればおじいさんのようだが、顔はそれほどでもない。なぜだかわからないが、どこかで見たことのあるような顔だった。
おじさんの身体から、消毒液のような、ちょっと不思議な匂いが届いてきた。

おじさんは、周囲を見渡し、久子と同じく「牛乳配達」の看板に目を止めた。
「あそこなら、きっと教えてくれると思うよ。あそこまで歩こう」

久子は立ち上がって、おじさんの後ろを歩き始めた。その時、今朝母親の言った言葉が頭をかすめた。
「変な大人がいるから気を付けるのよ」
しかし、久子には、その忠告が響かなかった。こんな状況を助けてくれるのなら、誰でもすがりたかったのだ。

その店は、ガラス戸が開きっぱなしで、暗く、人気がなかった。おじさんが「すみません」と何度か声を出すと、中から女の人が返事した。出てきたのは、首にタオルを下げ、エプロン姿のおばさんだった。おじさんが「この子が迷子になったらしくて…」と話すと、少しのけぞり(おや、まあ)という顔をした。

おじさんとおばさんは、バスの時刻だの停留所だのについて、いろいろと話していた。その間、久子は、ガラスケースに残ったパンを恨めし気にじっと見つめていた。
「お腹が空いているの?」久子の視線に気づいたのか、おじさんが尋ねた。久子がうなづくと、おじさんは牛乳とパンを買ってくれた。

「あそこの椅子で食べたらいいよ」と、おばさんは奥にある木製の腰掛を指さした。「ともかくね、歩いていった方がいいと思うよ。生き方は簡単だから。そこの十字路を左に曲がってまっすぐ行けば、上り坂になって、その坂の上が二股地蔵。そこから一本道だよ」






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昭和・歌・坂道(16)

2019-02-23 18:15:39 | 日記
しかし、帰り道がわからない。テントの下で談笑していたおばさんたちに、村の名前を告げて帰り道を教えてほしいと頼んだ。
「へえ、一人で帰るの? そりゃ大変だね」
一人のおばさんが久子の手を引いて、群衆の外へ連れ出し、おおよそではあったが、帰り方を教えてくれた。

久子は、教えられた道をとぼとぼ歩んでいったのだが、それは、来た道とはまったく違っていた。心細さが増してきた。

家が一定間隔で並んでいる、やや広い道である。
見渡してみたが、誰も歩いていないし、車も通らない。「きっと皆、祭りに行っているんだ」と思った。これでは、道を間違ったとしても、誰にも尋ねることができない。

不安な心を抑えながら、さらに歩いていくと、遠くに「牛乳配達」「パン」の看板が見えた。
そのとたんに、空腹とのどの渇きが再び襲ってきた。

「そうだ!」と久子は気が付いた。出かける前、母が珍しくお小遣いをくれたのだ。しかも、五円ではなく十円玉。これなら、牛乳かコッペパンが買えるはずだ。
久子はスカートのポケットに手を突っ込んだ。しかし、指先には何も当たらない。ポケットを引っ張り出してみたが、空だった。
おそらく、どこかに落としたのだ。または、誰かに取られたかもしれない。

失望のあまり、立っている気力も失い、その場にしゃがみ込んだ。涙も出てこなかった。頭の中が真っ白だ。じっと地面を見た。

「どうしたの、お嬢ちゃん?」
頭の上から声がした。
見上げると、中年の男の人が久子の前に立っていた。

誰も歩いていなかったはずの道なので、何か不思議な気がした。
気づかれないように尾行でもしてきたのだろうか?






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