池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつく老人の日常

姉妹(24)

2019-05-17 16:35:59 | 日記
 施設から自宅マンションに戻った。リビングの壁に吊されているクラシック調の時計が十時を指していた。十二時までに、滝田氏にファイルを送らなければならないのだが、それは十分に間に合う。もう修正はしないのだから。

 理恵はコーヒーを入れ、カップに注ぎ、パソコンの前に座ってスイッチを入れる。カーソルをファイルに置いてダブルクリック。開いたファイルを読んでいく。

 思った通りだ。必要十分な英文がそこにある。
 先日、あまりに凡庸でまったく使い物にならないと判断しうろたえたのと同じ文章だ。
 しかし、現在の理恵は、その時とはまったく異なる評価をしている。

 序論は、平易な単語と短いセンテンスで読みやすくし、専門用語を定義し、次第に複雑な論理展開に入っていく。しかし、そこでも読者が迷ったり飽き足りしないように、脚注を使って本文のパラグラフをうまく調節する。図表は地の文としっかり対比できるように配置されている。キャプションにも間違いはない。章分けも完璧だ。自然な流れの中で最後の結語と謝辞に到達する。

 どこからどう見ても、プロが書いた英文である。堂々と発注者に渡せるだけの内容だ。

 読み終わり、滝田に簡単なコメントを付して、添付メールで文書を送信した。

 パソコンのスイッチを切り、立ち上がって窓を開ける。初夏の風が部屋の中で舞い上がる。
 ああ、無事に『理恵』は卒業だ、これでやっと『理花』になれる……そう思った。

(了)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姉妹(23)

2019-05-16 11:21:04 | 日記
 翌朝、理恵は早くに目が覚めた。しばらくベッドでぼんやりしていたが、やがてベッドから起き出し、そのままパソコンに向かってスイッチを押そうとしたが、ボタンの冷たい表面に触れた時にそれを思いとどまった。午前中までにファイルを送ればよいのだ。それまでに、きちんと心の整理をしよう……

 ジャージの上下というぞんざいな姿で外に出た。近くの公園を二つはしごし、犬を散歩させている様々な年代の人たちを眺め、江古田の駅前まで行って、早朝から開いているファストフード店でハンバーガーとコーヒーの朝食を済ませた。

 理恵の頭は、昨晩佐伯が帰り際に上機嫌で話したことを再生している。
「まあ、夜明け前は闇が一番深いとか何とか言うじゃないですか。チーフは、きっとそれですよ。立ち直る直前だからいろんなものが現れてくるんです」
 その言葉を数回頭で繰り返した後、そうかもしれない、とつぶやいた。

 帰り道、母の施設に寄った。ちょうど食堂で朝食が始まったところだ。理恵は、介護スタッフの代わりに母親に付き添い、食事を口に入れるのを手伝った。もう熱もとれ、母は食欲が旺盛だった。口に入れるものを次々に噛み砕いて呑み込む。
「もう少しゆっくり食べてね、喉につまるから」
 そんな理恵の言葉も、耳に入った様子がない。

 食後に車いすを押して部屋に戻り、ベッドに寝かせ、いつもの通り理恵は枕元に座った。何か幸せな気分だった。父親が死んで以来、ずっと感じたことのないなめらかな時間だ。
 今の今まで苦しみに苦しみ抜いてきた時間は、いったい何だったのか? そんな疑問が湧く。おそらく、世の中の全ての事象がそうであるように、その背後には複雑な要素が絡み合っているのだろう。一つだけ確かなのは、肉体的にも精神的にも、理恵が人間として成熟していくために必ず通らなければならないトンネルだったということだ。
 そのトンネルの出口が、ようやく見えてきた。

 理恵は、母の耳元でささやいた。
「お母さん、あの海近くの家を覚えているでしょう。今度ね、あの家を改造するの。工事が終わったら、この施設を出て、あそこで一緒に暮らそうね」
 母は、理恵の方を向いているが、表情を変えない。理解しているのかどうか、よくわからない。
「あそこは、空気もきれいだし、美味しい物もいっぱいあるし、きっと楽しいよ」

 考えてみれば、母親と一緒の部屋に寝るのは、小学校の夏休みにあの家で過ごした時以来だ。その後の理恵は、受験、留学、大学、役所勤めと、母親から遠く離れた世界に飛び立った。結局、妹を作ることにも失敗した母は、そんな理恵の後ろ姿をどんな気持ちで見ていたのだろうか?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姉妹(22)

2019-05-13 16:51:41 | 日記

 佐伯が帰った後、理恵は少し遠くのスーパーまで足を運んだ。少し価格帯は高いが美味しく新鮮な素材をそろえていることで有名な店だ。
 家に戻り、久しぶりに調理道具を取り出し、料理に没頭した。エビの天ぷら、筍ご飯、なめこ汁、煮浸し……

 六時過ぎに、佐伯がワインを抱えてやってきた。上機嫌だった。
 食事になると、「チーフの手料理なんて初めてだ」と言いながら、「美味しい」を連発した。
 途中、辛口の白ワインを流し込み、急に真面目な顔をして言った。
「さっきは、本当にハラハラしていたんですよ、チーフが自殺でもしたんじゃないかって」

 理恵の頭に、夢の中の情景が流れた。
「あのね、午後に佐伯君が飛んできてくれた時、私は倒れていたのよ、そこのバスマットの上で」
「たいぶ具合が悪かったんですね」
「佐伯君のチャイムに気づくまで、ずっと夢を見ていたみたいなの。その夢から覚めたら、何か吹っ切れたような気がした」
「へえ」

 理恵の一瞬口を閉じた。こんなことを言っていいのかどうか、判断がつかなかったからだ。
「変なことを言うようだけど、きっとあれが私たちの前世の姿だったんだわ」
「私たちって?」
「私と妹」
「チーフには妹さんがいたんですか?」
「実際には見たことがない妹。死産か流産だったらしい。親は何も教えてくれなかったけどね」
「前世というのは突飛だけど、どっちにせよチーフが元気になってうれしいですよ」

 理恵は、幼い頃から双子の姉妹の夢を何度も見ている。それは自分と妹の過去世なのだとは、まったく考えたことがなかった。しかし、夢の中でそう思いつくことで、理恵に何か新しい希望のようなものが生まれた。もしかして、それは危険な思いこみなのかもしれないが……

 佐伯は、瓶の底に残った白ワインをグラスに注いだ。
 理恵は立ち上がり、戸棚からウィスキーを取り出してテーブルの上に置いた。佐伯は大声を出した。
「へえ、こんな高級なウィスキーを飲んでいるんですか? やっぱ金持ちは違うな」
「あなた、いつも同じことを言うのね」
「いやあ、そりゃ誰だってチーフみたいになってみたいと思いますよ。リッチな家に生まれて、とびきり頭が良くて……」

 理恵も以前、同じことを考えていた。お金はあればあるだけ良い。知能は高ければ高いほど良い。
 しかし、それが幻想だと知ったのは、それほど昔の話しではない。
 金持ちには貧乏人とは違った苦しみがある。貧乏なら明日も今日と同じなのだから憂う必要はない。金を持っていれば、それを失う時の恐怖が常につきまとう。
 頭が良いと評価されれば、そう見えるように常に努力していなければならない。結局、そういう人の勉強とは、頭の回転や鋭さを磨いているように見えて、実際は自分を守るための鎧を二重三重に身につけ、重くてふーふー言っているだけのことなのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姉妹(21)

2019-05-13 15:15:04 | 日記

 理恵は、またもや一人で歩いていた。住宅街の中だ。さっきの夢の続きのようだ。しかし、あの姉妹はいない。通りは空っぽだ。両側の住宅にも人気がない。
 突然空が暗くなり、大粒の雨が落ちてくる。重いうなり声の後、突然空が明るくなり、稲妻が走る。雷とともに雨が激しくなる。
 理恵は、雨具を持っていない。ずぶ濡れだ。しかし、イヤな気持ちはしない。むしろ、身体全部が濡れてしまうことが、ひどく気持ちいい。
 また光が雨雲に映り、雷鳴がする……

 いや、それは雷鳴ではなかった。家電の呼び出し音と玄関のチャイムと扉を叩く音が同時にしているのだ。
 理恵は、バスルームの前で倒れていた。さっき、佐伯と電話で話していたのは覚えている。しかし、その後、いったい何をしていたのか、わからない。ともかく、マットの上に頭を置き、身をかがめるようにして転がっていたのだ。

 音はまだ続いている。自分の身体のあちこちを手で探ったが、どこも濡れていない。しかし、シャワーを浴びた時のような爽快感が残っている。

 立ち上がり、髪の毛を撫でつけながら、玄関の扉を開ける。
 佐伯だった。理恵を見ると、肩を落として大きな息を吐き出した。
「よかった、無事じゃないですか。びっくりしますよ、突然悲鳴を上げて電話を切るから」そう言いながら、スマートフォンの画面を人差し指で叩いた。すると、固定電話の呼び出し音が消えた。「電話とチャイムと扉たたきの三拍子ですよ。そうでもしないと出てきてくれないと思いましたから」
「ちょっとね、頭がくらくらして」
「大丈夫ですか?」
「考えてみりゃ当たり前よね。昨日の夜からほとんど何も食べていないんだから。たぶん貧血が起きたのよ……入って」扉の前に立っている佐伯を中に誘った。
「何か食べた方がいいんじゃないですか?」佐伯は、勧められるままにキッチンの椅子に腰を下ろしながら言った。
「そうね……」

 理恵は、冷蔵庫を開け、顔をしかめた。
「レトルトくらいしか入っていないわね。もっと栄養のあるものをがっつり食べたいわ」理恵は佐伯に顔を向けた。「ねえ、佐伯君、今晩ここで一緒に食事しない。何か美味しいものを作るから」
「喜んで……本当に大丈夫そうですね。虚勢を張っているのかなと疑ってたけど、料理を作る気になるくらいなら本物だ」

 理恵は、一呼吸置いて言った。
「実はね、仕事で大失敗しちゃったのよ。もう目も当てられないくらい……でも、もうどうでもいい。開き直ったわ。そうしたら元気も出てきたし、お腹も空いてきた」

 佐伯は軽い笑い声を立てて、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、俺は洗濯の途中なので、いったん家に戻ります。夕方にまたお邪魔しますから」


 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姉妹(20)

2019-05-11 16:51:01 | 日記

 夢の中で、理恵は道を歩いている。呼吸法を実践しておらず、ただ漫然と歩いている。知っているような知らないような住宅街の真ん中だ。

 あの南インド系と思われる女性二人が前を歩いている。歩きながら、いつもより大きな声でおしゃべりをしている。理恵は、二人の後ろ姿をぼーっと見ている。理恵と姉妹との距離はまったく変化せず、縮まることも離れることもない。まるで呼吸を合わせているかのように、ぴったりと足の運びが重なっている。

 どうしてだろう? そんな疑問がわく。そして、その答えはすぐに出てきた。
 理恵が姉妹を眺めているからだ。
 眺めているかぎり、理恵は、呼吸や歩行のコントロールを姉妹に委ねてしまっているのだ。

 なぜなのか、理由はわからない。ともかく、彼女たちを追い抜いてしまわなければならないと考えた。
 理恵は、再び呼吸に集中した。意識を足の動きに向け、呼吸のたびに足裏がしっかりと地面をとらえているのを感じ取った。
 いくつまで数えたのか、覚えていない。彼女たちが、新しい、やや広めの道に入った瞬間、私は猛烈に足を動かした。最初は、地団駄を踏むように足が空回りしたが、すぐに歩幅が伸びるようになった。必死で速度を上げ、小走りで姉妹を抜き去った。

 抜き去った後も、しばらく必死に足を動かしていた。
 数秒間息を整えた後、もう一度ダッシュを試みた。もう十メートル以上は彼女たちより先を行っているはずだった。

 急いで歩きながら、姉妹のことを意識した。すると、後頭部に眼球が生えたかのように、遠ざかっていく二人が見えた。驚いたことに、彼女たちは、インド系の顔立ちではなく、まったく日本人女性に見えた。しかも、どこかで見たことのある顔だ。
 二人は、理恵の方に向かって手を振っている。
 さらに歩くと、二人はもっと遠くに離れて姿があやふやになり、一人だけになった。そして、見えなくなった。

 理恵は目を覚ました。携帯電話の着信メロディが鳴っている。画面には、佐伯の名前が表示されている。
「もしもし」
「あ、チーフ? 大丈夫ですか?」
「大丈夫って?」
「チーフから空メールが二度も届いたんですよ。少し具合が悪くなったのかなと思ってメールを送ったんですけど、返事も来ないし」
「最近、よくメールのチェックを忘れるのよ」
「仕事の方が忙しかったんですか?」
「ええ、最後の最後にちょっとしたトラブルもあって」
「それで、仕上がったんですか?」
「ええ、さっき」
「そうですか。それならよかった。また体調が悪くなったのかと思って心配してました」
「ありがとう」

 話しているうちに、理恵の心には、沸々と自己嫌悪がわき出てくる。滝田の電話では、さも仕事が順調に進んでいるように装い、今の佐伯との会話では、ほぼ何事もなかったかのような口調だ。
 ちょっとしたトラブルどころか、完璧な失態である。自分の評価を一瞬にして失墜させるくらいの大失敗だ。そんな英文が、ネイティブの外国人も含めて、皆に披露されようとしている。恥辱以外の何者でもない。
 それなのに、いったい、自分は何を取り繕っているのだろうか……

 理恵は、電話口で小さな悲鳴を上げ、泣き出した。
「チーフ、どうしたんですか!?」佐伯の声が耳に響いた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする