池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

真にものを考える人は、「私」という疑問に必ずぶつかる。

2024-08-08 10:42:47 | 日記

真にものを考える人は、「私」という疑問に必ずぶつかる。科学や信仰ではこれに答えが出ない。仏教は真の答えを持っているが、概念操作に慣れ常識に縛られた私たちの頭には、奇妙な考えに思えて、仏教の教えを十分に理解できないようになっている。

ものを考える全ての人にとって、まず何より気にかかる疑問が三つある。「私とは何か?」という疑問、「私はどのように振る舞わなければならないか?」という疑問、「私は何の目的でここにいるのか?」という疑問。この「何か」、この「どのように」、この「何の目的で」という三つは、あらゆる精神活動において論争の主題となっている。

全ての人が、古い時代のアウグストゥス皇帝のように、これらの物事から「友よ、喝采したまえ」と言って人生の舞台から退場できるわけではない。(訳注:「友よ、喝采したまえ。喜劇は終わった」というのがアウグストゥス皇帝の臨終の言葉とされている)。信仰も科学も、このような問いに対して満足な答えを示すことができないという否定的な役割を本書は負っている。本書の肯定的な役割は、これら三つの問いに対する答えがブッダの教えの中にあることを示すという点である。しかし、最初にこの教えを眺めると、あまりに奇妙であり、そのために現在に至るまで実際的な重要性を持てなかった。

我々は、これらの不思議な思想公式を現代の言葉に翻訳する方法を知らないのだ。あらゆる幸福の縮図ではあるが天国とは異なるニッバーナ(訳注:サンスクリット語のニルヴァーナ、涅槃)を、どのように解釈してよいのか、我々は知らない。始まりのない大昔から存在を常に束縛し、それでいて魂とは異なるカンマ(訳注:サンスクリット語の「カルマ」に相当するパーリ語。「業」と訳される)を、どう解釈してよいのか、我々は知らない。このため、あらゆる教えの中で最も真実であるこの教えが、哲学からは理解されず、自然科学から無視され、我々そしてそれを最も必要とする現代において失われている。

疑問が湧いてくる。どうして仏教は、常に我々と相容れない、一種の珍奇な対象となっているのだろうか? これについて、私は答えを与えよう、短くて率直すぎる答えを。理解されていないのである。そのことは、仏教について出版されている書籍から、痛々しいほど明白である。これらは、この主題がいかに我々の理解力から遠くかけ離れているかをよく示している。こう言うと、私に向かって必ず非難が投げつけられるだろう。第一に、私がこれまで多くの場所で激しい議論をしてきたという非難。第二に、私が謙虚さを身につけていないという非難である。

最初の点については、私は、ただ議論のためだけに議論におぼれたことなど一度もないと証言できる。他の多くの事柄と同様に、ブッダの思想は、他のありふれた建築物と比較したときだけ、その大きさが明らかになるという、巨塔なのである。ギザのピラミッドも、その後ろには果てしない砂漠が広がっており、その大きさを測るのに適した基準が存在しない。それと同様に、ブッダの思想は、単に投影しても、その偉大さを測りうる基準が何もない。その途轍もない大きさを理解できるようになるためには、心の中に別の構造物を置いておく必要がある。この場合、単純な比較が確実に大きな議論へと発展してしまうことは簡単に理解できる。二の点については、私の意見はこうだ。何か役立つものを持っているなら、それを遠慮がちに差し出す必要はないだろう。または、何も役立つものを持っていないなら、最初から何も書く必要はない。この二つのうちのどちらかであるべきだ。

私がこのように言うのは、私自身何も持っていないからだ。しかし私は、私より優れた人間の立場でものを言う。「確かに我々は何も知らないし、あれこれと疑うだけの確かな根拠はない」といった類の言葉には、真理のランク付けを固定しようという密かな意図がほとんど常に含まれている。

そんな言葉は、ブッダの教えのような教説ではまったく不要である。「この通りである」ことを知る者は、単純にこう言う。「この通りである」。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三つのタイプの書物について | トップ | アントン・チェーホフ【犬を... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事