池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつく老人の日常

夢と人格

2021-07-30 15:26:17 | 日記
 「全くの別人になってみる気はありませんか?」
 耳の底に、まだ中島の言葉が残っている。あれはどういう意味だったのか? 赤城原は、何度も考えてみるのだが、記憶は判然としない。
 もう一度中島に会って、それを問いただしたかった。
 それに、中島という人間の存在をもっとよく知りたかった。あの親切な行為の裏側に何かが隠されているような気がしてならないのだ。
 そのためには、もう一度、中島と会うチャンスを作り出さなければならない。
  赤城原は、インターネットで検索することを思いついた。講師なら大学のホームページや学会、論文の資料データベースに必ず記載があるはずだ。しかも専攻科目は判っているので、対象を絞り込みやすい。
 それは、なかなか良いアイデアのように思えた。

 夜、寝室兼書斎で眠ったままのデスクトップパソコンを久しぶりに立ち上げ、インターネットに接続した。ポータルサイトへ行き、中島の下の名前も思い出せなかったので「中島」と「講師」の組み合わせで検索してみた。一万件近い項目にヒットした。最初の数ページを調べてみたが、がらくたが多くて使い物にならない。赤城原は「心理学」をいう条件を追加し、もう一度検索した。今度は百五十件にも満たないヒットになった。調べると、確かに心理学に関連する中島という講師が存在する。しかし、それは女性である。もう一人中島がいるが、その専攻は会計学のようで、しかも奉職している大学は関西である。どちらも失格だ。三時間以上をかけて多数のホームページを閲覧してみたが、結局検索を諦めざるをえなかった。
 (検索が駄目なら)と赤城原は考えた。(大学で調べられるはずだ)
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夢と人格

2021-07-24 08:45:17 | 日記
 二人は無言で橋に向かって歩いていく。平日の河川敷にはほとんど人影がない。野球のグラウンドもサッカーのグラウンドも空っぽだった。
「ねえ…」
「なに?」
「早期退職のこと、まだあの女に話していないでしょ」
「どうしてわかるんだ?」赤城原はびっくりして理絵を見た。理絵はくすくす笑った。
「わかるわよ、そりゃ。仕事でもないのに昼間っから背広を着込んでカバン持っているんだもの」
「そうか。そう言われればそうだな」
「打ち明けるつもり?」
「もちろん黙ったままにするわけにはいかんだろう。タイミングを見て話すつもりではいるんだが」
「まだ話さない方がいいわ」
「どうして?」
 理絵は再び無言になった。下を見ながら何かを考えている様子だったが、やがて顔を上げ、強い口調で言った。
「パパが早期退職して何か新しいことを始めるって聞いたら、あの女は百パーセント離婚を要求するわ」
「そうかなあ」
「間違いない。そうなったらパパの退職金は半分になるわよ」
「本当に離婚することになったら、ある程度やむを得ないだろう。彼女は働いているわけでもないし。おまえだって相手から慰謝料をふんだくろうと言うんだろう?」
「私の場合は、明らかに私が被害者よ。パパの場合はまったく違うわ。パパの方が被害者だわ」
「どういう意味だい?」
「あの女ね・・・ぜったいに外に男を作っているわ」
「どうしてわかる?」
「女の直感よ」
「直感で物事を決めつけるわけにはいかないよ」
「ちょっとした証拠もあるの。いままで黙っていたけど、私が大学生で仙台から帰省していたとき、突然男から電話がかかってきたことがあった。私が受話器を取ると『成実?』って訊いてきたわ。『母は外出しています』と答えると、すぐに電話を切ったわ」
「それが浮気の証拠か?」
「だって他人の奥さんに向かって呼び捨てする男がいる、愛人以外で?」
「成実のお父さんだったかもしれないじゃないか」
「そんな老人の声じゃなかったわ。中年男の声よ。それも嫌らしい感じの」
「・・・」
「だから打ち明ける前にそれをしっかり調べて黒白をはっきりさせた方がいいわ。黒ならそのまま離婚すればいい。場合によっちゃ相手の男から慰謝料をもらうこともできるわ。白だったら、おとなしく慰謝料を払って別れればいい。それから新しいことにチャレンジしても遅くない」
「・・・」
「私がパパだったら、絶対にそうする」
 湿気を含んだ強い風が何度も通り抜けていった。土手の若草が揺れている。橋の向こうでは、黒い雲が低い位置を移動していた。今夕からまた雨になりそうだった。
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夢と人格

2021-07-19 14:53:24 | 日記
 食後、赤城原は理絵を散歩に誘った。
 河川敷は思ったほど蒸しておらず、風が通って気持ちがよかった。
 赤城原は、歩きながら、自分の早期退職のことを打ち明けた。
 話を聞き終わっても、理絵はしばらく黙ったまま川の方を眺めていた。
「で、どうするの? 再就職するの、それともこのまま引退するの?」
「引退するつもりはない。でもサラリーマンの世界はこりごりだな。できれば、何か新しいことをやってみたい」
「どんなことを?」
「まだ考えていない。探している最中だ」
「ゆっくり探せばいいわよ。すぐに結論が出せる話じゃないし」
「どう思う?」
「何を?」
「新しいことを始められるかな、この年で?」
「もちろんよ。パパだってまだ十分若いし」
「今までサラリーマンしかやってこなかったから」
「体力さえあれば何だってできるはずよ。でも、その点は少し心配かな。去年と比べてパパは大分やせたじゃない。顔色も悪いし、白髪も増えたし。ジムにでも通って体力をつけたら?」
「ジムか。それもいいかもしれないな」
 二人は無言で橋に向かって歩いていく。平日の河川敷にはほとんど人影がない。野球のグラウンドもサッカーのグラウンドも空っぽだった。
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夢と人格

2021-07-15 11:29:14 | 日記
 しかし理絵は、小学校の低学年で母親を亡くしたので、母親の美しい面しか眺めていない。赤城原はそう思っていた。和歌子がすばらしい母親であり妻であったことは確かだが、他の全ての人間と同様に、一長一短があった。和歌子は、自分の考えた通りに物事を進めないと気が済まないタイプだった。だから、夫に対する要求も厳しかった。
 理絵は、そんな和歌子の性格をよく引き継いでいた。
「それより、おまえの方はどうなんだ? どうして東京に戻ってきた?」
「あのね」理絵はフォークを手から話して口元をナプキンでぬぐった。「もう別れようかと思って」
「馬鹿な。結婚したばかりじゃないか」おおかたそんなことだろうと見当はつけていたものの、実際に理絵の口から聞くとショックだった。
「今年で四年目よ」
「何が原因なんだ?」
「結局、結婚観が違うのよ。性格が合わない。旦那は早く仕事を辞めて家業を手伝えって言うし、母親は早く子供を産めって言うし」理絵の夫は、食品会社の三代目である。理絵は情報処理学科を卒業して資格を持っており、地元のソフトウェア会社に勤めていた。
「その程度のことでいちいち別れていたら何度結婚しても足りないよ。おまえだって、いつまでも仕事ばかりやっているわけにはいかんだろう」
「違うわよ。それは単なる前置き。もっと決定的なことがあるの」
「・・・」
「あいつね、会社の事務員に手を出して子供を孕ませちゃったのよ。しかも、向こうの父親と母親がグルになって、私に内緒にしようとしたのよ」
「ふうん」
「函館といっても小さな社会だからさ、すぐに私の耳にも入るわよ」
「若気の至りだろう。一回で懲りるさ」
「そうじゃないと思うな」
「そうじゃないって?」
「両親が後ろでそそのかしているわ」
「まさか」
「もともと、向こうの両親は地元の家庭的な女性を嫁にしたかったんだからね。だから早く私を追い出したかったのよ。子供という既成事実を作ってね。ただ事態が予定より早く進行したというだけ」
「そこまで勘ぐることはなかろう」
「そうに決まっているわよ。あいつは、発覚してから一度も家に戻らないし、向こうの父親と母親がくどくど説明するのよ。婚姻外の子供だけど、せっかくの孫なので認知させたい。駄目なら、孫を養子にするって言うのよ。ひどいと思わない? 悪いのはあっちなのにさ。さも私が早く子供を作らないのがいけないって言い方をするのよ」
「ふうん」
「まあ、どっちにしても離婚は決まりよ。もう北海道には戻らないわ。あとは弁護士さんがどのくらい慰謝料をとってくれるかだけ」
 理絵は、小さい頃から男勝りで負けず嫌いだった。剣道では段位も持っている。受験勉強に影響するのは判っているのに、どうしても全国大会に出たくて三年の途中まで竹刀を離さなかった。ものの言い方は高飛車だが、心の中は深く傷ついている。赤城原は、父親として、それが手に取るようにわかる。
「で、これからどうするつもりだ? 東京で働くのか?」
「もちろん。東京なら働き口は山ほどあるし。実際に研究室の先輩が作っている会社にぜひ来てほしいって言われているの。たぶん来週には面接に行くわ」
「住むところは?」
「明日、板橋のマンションに契約する予定。七月から入居して、北海道から荷物を送ってもらうわ」
「手際がいいんだな」
「当たり前よ。ぐずぐずしていられないわ。四年分のキャリアを取り戻さなきゃ」
「当面の生活費はあるのか?」
「少しはね」
「ちょっとだけ渡しておこう」
 赤城原は、手持ちの現金を理絵に渡した。
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夢と人格

2021-07-10 16:05:54 | 日記
 高校を卒業すると、理絵は成実と一緒に暮らすのを嫌がり、大学は仙台を選んだ。在学中に北海道出身の青年と知り合い、卒業後しばらくして結婚し、函館に住むようになった。

 理絵とは北千住の駅前で会った。引詰髪で化粧っ気がまるでないのは以前と同じだ。Tシャツにジーンズと姿も学生時代と変わっていない。
 駅ビルに入っているイタリア料理店に入った。理絵がワインを飲みたいと言いだしたので、ハーフボトルを二人で分けた。
「近頃、お母さんの法事はやってるの?」理絵が前菜のサラダをフォークで突きながら尋ねた。
「いや、何もやっていない」
「忘れてるわけ?」
「そういうわけじゃないが」
「あの女に遠慮してるの?」
「そんなことはないさ」
 成実の話題になると、理絵は低い声の早口になる。ときどき眉をひそめる。
 理絵は、赤城原が和歌子のことを忘れてしまうのではないかと心配している。だから、赤城原の前で和歌子のことをよく口にする。二年前の引っ越しの時には、成実が無断で和歌子の形見を処分することを恐れ、北海道から赤城原に何度も電話してきた。
 しかし理絵は、小学校の低学年で母親を亡くしたので、母親の美しい面しか眺めていない。赤城原はそう思っていた。和歌子がすばらしい母親であり妻であったことは確かだが、他の全ての人間と同様に、一長一短があった。和歌子は、自分の考えた通りに物事を進めないと気が済まないタイプだった。だから、夫に対する要求も厳しかった。
 理絵は、そんな和歌子の性格をよく引き継いでいた。
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