1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月20日・カール・フォン・フリッシュの部屋

2017-11-20 | 科学
11月20日は、『ニルスのふしぎな旅』を書いた女流作家、セルマ・ラーゲルレーヴが生まれた日(1858年)だが、動物行動学者のカール・フォン・フリッシュの誕生日でもある。ハチの「8の字ダンス」を発見した人である。

カール・リッター・フォン・フリッシュは、1886年、オーストリアのウィーンで生まれた。父親は外科医で泌尿器科医だった。カールは4人兄弟のいちばん下だった。
カールははじめ医学の道に進んだが、途中で自然科学方面へ進路を変えた。24歳の年に博士号となった彼は、ミュンヘン大学の動物学部で助手となり、33歳のころ、教授になった。
彼が47歳の年にナチスが政権をとり、ユダヤ人への迫害が強まった。新しく成立した法律によって、市民は自分がアーリア人である(ユダヤ人でない)ことを証明する必要に迫られた。フリッシュは、自分の両親と、4人の祖父母のうちの3人まで証明できたが、残りのひとりの証明ができなかった。このため、彼は8分の1のユダヤ人と分類された。これを理由に、彼を追いだそうとする動きが起こり、彼は大学から追放された。追われた後も、彼は研究を続けた。
第二次世界大戦が終わった翌年、60歳の年に彼はグラーツ大学の教授となり、その後、ミュンヘン大学へもどり、72歳の年に退官した。退官後も研究を続けた彼は、87歳のときにノーベル生理学・医学賞を受賞。1982年6月、ミュンヘンで没した。95歳だった。

カール・フォン・フリッシュは、ニコ・ティンバーゲン、コンラート・ローレンツといっしょにノーベル生理学・医学賞を受賞した。ティンバーゲンは、最初のノーベル経済学賞を受賞したヤン・ティンバーゲンの弟である。
フリッシュは、ミツバチの嗅覚、味覚、視覚、位置の把握方法などを研究し、明らかにした。彼らは、自分の位置やからだの向きを、まず太陽の光によって知り、つぎに空の様子から、そして地球の磁気からも知ることができるという。
ミツバチが仲間にミツや花粉のありかを伝えるのに、巣の上をの字を描いて動きまわって見せるとき、太陽に対する角度が方向をあらわし、お尻を揺する時間が距離をあらわす。エサの場所が比較的近いときは、丸く円を描いて踊り、距離が遠くなると、8の字を描くのだそうだ。

学生のとき、同じ下宿にいた理学部生物学科の先輩の部屋へ行くと、飼っている虫の巣箱や標本箱で部屋中がいっぱいで、楽しかった。その暮らしぶりを見て、
「生物学をやる人というのは、研究対象といっしょに暮らすようになり、いわば人生そのものが虫や動物たちと一体化してしまうのだなあ」
と感心したけれど、おそらくフリッシュの部屋もハチだらけだったのだろう。いっしょに生活する家族は、ハチ嫌いだとやっていられない。
生物相手の研究暮らしは、虫や動物に気をつかう大変な生活だけれど、人に気をつかいながら生きるのとはちがって、そういうのも悪くない。
(2017年11月20日)



●おすすめの電子書籍!

『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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11月19日・ピーター・ドラッカーの予言

2017-11-19 | ビジネス
11月19日は、ツイッター(Twitter)の共同創設者ジャック・ドーシーが生まれた日(1976年)だが、「マネジメントの神様」ピーター・ドラッカーの誕生日でもある。

ピーター・ファーディナンド・ドラッカーは、1909年、現在のオーストリアのウィーンで生まれた。父親は政府の経済省の役人だった。
字が下手だけれど、学業は優秀で、小学校を飛び級して1年早く卒業したピーターは、8歳のころ、父親と同席して精神分析のフロイトに会っている。
大学を出たドラッカーは、金融会社をへて新聞社に入社。22歳のころ、大学で博士号をとるとともに、新聞編集者として、まだ政権をとる以前のナチス党のアドルフ・ヒトラーにインタビューをした。
24歳のころ、政治学にからむ論文を書くと、すぐに英国へ移住。彼の論文は、彼が予想した通り、ちょうど政権をとったばかりのナチスの逆鱗に触れ、焚書処分となった。
英国で経済学者のケインズと会ったドラッカーは、そのころ自分の興味が商品やお金の動きでなく、人の動きにあることを悟った。
彼は28歳のころに、米国へ移住し、大学で教えたり、出版に関わったりしながら、著述活動を展開。
30歳のころ『経済人の終わり』を書き、そのなかでナチスによるユダヤ人虐殺とソビエト連邦との不可侵条約を予言した。
その後、『産業人の未来』『断絶の時代』『マネジメント』『明日を支配するもの』などを書き、つねに時代の先を予見し、あるべき社会や経営の姿を示しつづけた。マネジメント方面ばかりがよくとり沙汰されるドラッカーだが、その社会観察力と未来洞察力がすごい。彼自身、自分は社会生態学者だと言っていた。ジャック・ウェルチなど、多くの世界的経営者たちから師として仰がれつつ、2005年11月、米カリフォルニア州のクレアモントで没した。96歳になる1週間前だった。

かつて『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』というベストセラー本があった。
ドラッカーは、マネジメントの大切さを説き、それを体系づけた人である。
ドラッカーは、企業や組織は社会に貢献することが目標で、マネジメントはそれを促進するための考え方だとしている。彼のマネジメント学は、ひじょうに論理的で、もっともなことばかりである。でも、このもっともなことをクールに業務としてこなすことが、人間、なかなかできない。と、こう言っている怠惰な者は、経営者に向かないだろう。

ドラッカーは、ナチスの政策を予言し、年金基金が企業の支配者となることを予言し、ソ連の崩壊を予言し、非営利企業の増大を予言した。いつも一歩先を正確に予見している。
90歳のころの著書『明日を支配するもの』で、日本の人口は21世紀末に五千万から五千五百万人くらいに減少する恐れがあると言っている。
(2017年11月19日)


●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。ホンダの本田宗一郎、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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11月18日・ジョージ・ギャラップの演繹

2017-11-18 | ビジネス
11月18日は、オペラ『魔弾の射手』を書いた作曲家、ヴェーバーが生まれた日(1786年)だが、調査実務家ジョージ・ギャラップの誕生日でもある。

ジョージ・ホレース・ギャラップは、1901年、米国アイオワ州ジェファーソンで生まれた。父親は酪農家だった。
アイオワ大学の学生時代、ギャラップはフットボール選手として活躍し、大学新聞の編集者でもあった。大学を卒業し、20代のころからあちこちの大学を転々としながらジャーナリズムを教え、30代に入ると、ニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとりながら、広告会社の調査部門を率いて働くようになった。
34歳の年に、自分の調査会社を興し、そちらに力を注ぐため、大学を辞めた。
1936年、ギャラップが35歳になるこの年は、世界恐慌が尾をひく不況の年であり、大統領選挙の年だった。大統領選は、民主党は2期目を目指す現職大統領、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト、共和党からはカンザス州知事のアルフレッド・ランドンが出て、両者の一騎討ちとなった。
この選挙の際、大手週刊誌が大金をかけた大規模アンケートをおこない選挙結果の予想を大きくはずしたのに対して、新参者のギャラップが、すくない対象人数の調査結果から結果を当て、ルーズベルトの再選を予想した。これがギャラップの大躍進につながった。
以後、「ギャラップ調査」は調査の主流となっていく。
ジョージ・ギャラップの調査会社は躍進、発展し、彼は46歳のころには、世界的な調査をおこなう国際組織を立ち上げるまでになった。
ギャラップは、1984年7月、夏を過ごしていたスイスの別荘に滞在中、心臓発作により没した。82歳だった。

選挙のとき、出口調査から候補者の当落を予想する「ギャラップ調査」は有名である。最近では逆を行って、あえて調査対象を選ばない無作為抽出法が用いられるとも聞く。

その昔、デヴィッド・ボウイが、インタビューに際して、どうしてそうやって世界で起きていることに敏感でいられるのか、と問われ、こういう意味のことを答えていた。
「わたしがわかることなんて、こうやって自分が両手を広げた幅くらいの範囲しかない。この幅から類推して、すこし広い範囲のことを考え、それを重ねていって、社会全体を理解しようとしているだけだ」と。
 ボウイの方法は、ギャラップに通じる。
 それにしても、世の中の人たちは、どうやって社会を理解しているのだろう? ちゃんと自分の両手を広げて、そこから考えているだろうか? マスメディアや誰かが言ったことを鵜呑みにして、よしとしていないだろうか?
(2017年11月18日)


●おすすめの電子書籍!

『デヴィッド・ボウイの生涯』(金原義明)
緊急出版。デヴィッド・ボウイ総論。至上のロックスター、デヴィッド・ボウイの人生、音楽、詞、方法論など、その全貌を明らかにする人物評論。遺作に込められたボウイのラストメッセージとは何か?


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11月17日・本田宗一郎の怒声

2017-11-17 | ビジネス
11月17日は、「メビウスの輪」で知られる数学者、アウグスト・メビウスが生まれた日(1790年)だが、「世界のホンダ」の創業者、本田宗一郎の誕生日でもある。

本田宗一郎は、1906年、静岡県磐田郡光明村で生まれた。父親は鍛冶屋だった。
小学校の成績が悪く、通知表を親に見せられず、自分で認め印を彫って押し、通知表を学校へもどしたという宗一郎は、16歳の年に東京の自動車修理工場に就職した。
22歳のころに、のれん分けを許され、静岡県浜松市に支店を構え、独立した。
30代の前半には、エンジンの技術力を上げるため、金属加工の学問が不可欠であると痛感し、現在の静岡大学工学部に3年間通った。
敗戦の年である1945年、39歳のとき、自分の会社の株式をすべて売却し、1年間の「人間休業」に入った。
そうして、戦後の物不足、食料難の時代に、自転車にエンジンを付けたら買い出しが楽になるのでは、という発想から二輪車の研究をはじめ、40歳になる年、浜松市に本田技術研究所を設立。42歳の年には、本田技研工業を従業員20人でスタートさせた。
以後、ホンダは、国内はもとより、世界的に有名なオートバイ・メーカーとなり、四輪車にも進出し、自動車産業界でも世界屈指の大企業となった。
67歳の年に社長を退き、さらに研究だけは続けていたが、77歳のころ、現場から引退し、1991年8月、入院していた東京の病院で肝不全のため没した。84歳だった。

学校を出たばかりのころ、本田宗一郎の話を聞いた。多くの会社の新入社員を集めた講演会だった。その講演中、ステージ上の演壇でマイクをにぎっていた本田が不意に話すのを止めた。そして、会場の中央を指さして怒鳴った。
「おいっ、そこの。むだ話をしているんなら、出ていけ!」
うつらうつらしながら話を聞いていたが、それではっと目が覚めた。会場は水を打ったように静まり返っていた。どうやら、客席のまん中にいたどこかの新入社員の男が、隣の同僚とぺちゃくちゃしゃべっていたらしい。
「おいっ、話を聞いてないんなら、とっとと出ていけ!」
本田宗一郎は繰り返し言った。指さされた男は動かず、なにも答えなかった。
「バカなやつだなあ。立ち上がって、頭を下げて『すみませんでした。もう無駄口はききませんので、話を聞かせてください』とでも謝れば、すっきりするのに」
と思ったが、その男は黙ったままだった。
演壇の本田宗一郎は、じっとにらんでいたが、やがて気をとり直して、講演を続けた。

本田宗一郎は、裸一貫から身を起こし、自分の会社を世界企業へと育て上げ、以前は安く質が悪いものの代名詞だった「メイド・イン・ジャパン」を、安価で良品質の製品の代名詞へと意味を変えさせた、日本の功労者のひとりである。けれど、そんな成功者でも、経営が苦しくて、自殺しようと思ったこともあるというから、事業の道というのは、ほんとうにきびしいものだ、と、その話す姿を見ながら、そんなことを考えていた。
本田宗一郎に怒鳴られた、あの幸福な男は、いまごろどこでどうしているかしら、と、ふと思いだすときがある。
(2017年11月17日)


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『新入社員マナー常識』(金原義明)
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、身につまされる具体的な実例、驚きのエピソードを交えて解説。


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11月16日・来生たかおの光

2017-11-16 | 音楽
11月16日は、名作マンガ『伊賀野カバ丸』を描いた亜月裕(あづきゆう)が生まれた日(1951年)だが、シンガーソングライター、来生たかおの誕生日でもある。

来生たかおは、1950年、東京で生まれた。本名は来生孝夫。
シャイな子どもだったというたかおは、十代の後半から、2歳年上の姉の書いたことばに、ギターでメロディーを付け、作曲していた。
学生だった20歳のときに、近所のピアノ教室に通いだし、子どもの生徒に混じってピアノを習った。そして、ピアノ、ギター、ベースのトリオのバンドを組み、音楽喫茶で演奏するようになり、そんななかで井上陽水と出会い、いっしょにライブに出るようになった。
来生が23歳のころ、井上陽水は「夢の中へ」が大ヒットし、たちまちフォークソングのスターへとのし上がっていった。
アルバイトをして生活していた来生は、井上の紹介で、音楽ディレクターと知り合い、井上のレコーディングにピアノで参加した。来生は音楽ディレクターに自分の作ったデモテープを渡したが、なかなか彼の曲は採用されなかった。
ほかの歌手のレコーディングを手伝いながらも、デモテープ作りをつづけているうちに、やがてチャンスが巡ってきて、26歳の年に、シングル「浅い夢」でデビューし、同名のアルバムも発売された。しかし、なかなか売れなかった。
27歳の年に、コマーシャルソングのコンペティションに参加。そこで彼の書いた「マイ・ラグジュアリー・ナイト」が採用され、しばたはつみがそれを歌った。
31歳の年に出した「Goodbye Day」がヒット。続けて発表した「夢の途中」、薬師丸ひろ子が歌った映画主題歌「セーラー服と機関銃」が大ヒット。
以後、来生は、姉の来生えつことの作詞作曲コンビで、大橋純子が歌った「シルエット・ロマンス」、中森明菜が歌った「スローモーション」「セカンド・ラブ」などのヒットを放ち、また、ソロアーティストとして来生たかおブームを起こした。

来生たかおのデビューシングル「浅い夢」が大好きで、あの静かな、心にすうっとしみわたるような味わいに酔う。静謐な精神性、それが来生たかおの魅力の核心である。

ずっと以前、ラジオ番組で来生姉弟が話しているのを聞いた記憶によると、おそらく来生たかおが23歳前後だったころのことだろう。知り合いはスターになっていくのに、自分は一向に芽が出ない。彼は気落ちし、千葉かどこかの、住みこみで働くなにかの施設に話をつけ、数日後にはそちらへ行こうと約束してあった。そんなとき、以前もらった音楽プロデューサーの名刺一枚を頼りに、もう一度だけ、その人のところへ行ってみよう、と、訪ねてみた。その名刺一枚のおかげで音楽に道が開けた、と、そういう話だった。
人生、一寸先は光。
(2017年11月16日)


●おすすめの電子書籍!

『心をいやす50の方法』(天野たかし)
見て楽しめるヒーリング本。自分でかんたんにできる心のいやし方を一挙50本公開。パッと見てわかる楽しいイラスト入りで具体的に紹介していきます。「足湯をする」「善いことをする」「あの世について考える」「五秒スクワット」「雲をながめる」などなど、すぐに実行できる方法が満載。ストレス、疲労、孤独、無力感、やる気が出ないイライラなどの諸症状によく効きます。


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11月15日・ウィリアム・ハーシェルの烈

2017-11-15 | 科学
11月15日は、七五三。この吉日は、幕末の風雲児、坂本龍馬が生まれた日(天保6年11月15日)だが、天文学者ウィリアム・ハーシェルの誕生日でもある。天王星の発見者である。

ハーシェルは1738年、ドイツのハノーファー(英語読みでハノーバー)で生まれた。ハーシェルは英語名で、生まれたときの本名は、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェルといった。父親は音楽家で、ハノーファー親衛隊の軍楽隊のオーボエ奏者だった。
18歳のとき、ヴィルヘルムは父親といっしょに英国へ旅立った。
英国へ渡ったヴィルヘルムは、英語名、フレデリック・ウィリアム・ハーシェルとなった。ハーシェルは、地方の軍楽隊に入ったり、演奏会を開いたり、音楽の家庭教師をしたりし、経済的に困難な時期を乗り越え、28歳のとき、イングランド西部にある音楽の街、バースの教会のオルガン奏者に就任した。
バースを本拠地に、ハーシェルは精力的に動きまわって演奏会を開き、家庭教師をし、公式行事で演奏し、とハードワークを重ねて大成功をおさめた。彼の成功に刺激されて、モーツァルトやハイドンもバースへやってくるようになった。
ハーシェルは22歳のころから作曲をはじめ、44歳までに24の交響曲のほか、数多くの曲を書いた。そして、やがて音楽のかたわら、天文学に打ち込みだした。
演奏会のないオフシーズンを利用して、自分で天体望遠鏡を試作しだし、しだいに音楽よりも望遠鏡作りと天体観測のほうに力を入れるようになっていった。
ハーシェルが78歳までに作った望遠鏡の数は二千を超すという。2・1メートル、3メートル、6メートルの長さの望遠鏡を数百本作り、最長のものは長さ12メートルあった。
作った望遠鏡で37歳のころから観測をはじめ、42歳だった1781年3月13日、未知の暗い星を発見した。これが太陽系の七番目の惑星だった。それまで二千年以上ものあいだ、太陽をまわる惑星は六つだった。そこへもたらされた「天王星」の大発見だった。
ハーシェルは、43歳のとき、完全に音楽をやめて、天体観測と望遠鏡製作に没頭するようになった。彼は自分が製作した望遠鏡を、グリニッジ天文台へ運び込み、自分の望遠鏡がグリニッジのものよりはるかに性能がいいことを示した。それが縁で国王に招かれ、王室付天文学者となった。
「王家の人びととの交際は、いつも楽しいとは限りません。私には鏡を磨いているほうが性に合っています。……グリニジの器械で見えない二重星が、私の七フィートでらくに見えたときほど、うれしかったことはありません。」(斉田博『近代天文学の夜明け ウィリアム・ハーシェル』誠文堂新光社)
彼は観測を続け、多くの論文を書き、ロンドン天文学会の会長を務めた後、1822年8月に没した。83歳だった。

ハーシェルは、中世的な思考から抜け出ていた近代人で、宇宙は人間のために創られたものではないと考えていた。で、ここがおもしろいのだけれど、ならばすべての星に生命体がいるはずだと、太陽や月にもきっと生き物が住んでいると推論していた。
凡人の思考ではない。音楽と天文学と望遠鏡製作と、何人分もの偉業をなし遂げた猛烈型の天才ハーシェルであれば、そう考えても不思議はない。そう、きっと、太陽や月にも生き物がいるのだ。そう信じて突き進みたい。
(2017年11月15日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


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11月14日・モネの重厚

2017-11-14 | 美術
11月14日は、プロレスラーの力道山が生まれた日(1924年)だが、「光の画家」クロード・モネの誕生日でもある。

クロード・モネは、1840年、仏国パリで生まれた。父親は雑貨屋を経営していて、母親は歌手だった。誕生した翌年、洗礼を受けて、オスカル・クロード・モネとなった。
彼の家族は、クロードが5歳の年に、イギリス海峡に面した港町、ル・アーヴルへ引っ越した。16歳のころ、彼は浜辺で風景画家ウジェーヌ・ブーダンと知り合った。彼は、日の光の下で描くブーダンに油彩画の技法を教わり、大きな影響を受けた。
19歳のころ、モネはパリへ出て、美術学校に入った。
既成の描き方を墨守する美術学校の授業を嫌ったモネは、画家シャルル・グレールの生徒になり、そこで知り合ったルノワール、シスレーたちと意気投合し、光を新しい見方でとらえ、色を壊し、早い筆づかいで描く描き方に取り組んだ。
25歳のころ、モネはサロンへ作品を出品して入選したが、当時の彼の作風は写実的なものだった。その後、20代の終わりごろには落選が続き、彼はサロンへの出品をやめた。
33歳のとき、モネは、仲間のピサロ、シスレー、ルノワールなどの画家たちと共同展を開催した。ここにモネが出展したのが「印象、日の出」で、展覧会を見た批評家たちは、モネの作品のタイトルを皮肉って、酷評した。
「こにはデッサンも構図もない。あるのはただ印象だけだ」
ここから、モネたちは「印象派」と呼ばれるようになった。
モネは、パリ郊外のアルジャントゥイユ、もっと離れたヴェトゥイユなどに住んだ後、43歳になる年に、パリの西方あるジヴェルニーに引っ越した。
40代、50代のころ、モネは各地を旅行し、滞在して絵を描いた。畑に何枚ものキャンバスを広げ、畑の積みわらに当たる日の光が刻々と移り変わっていくのをとらえ、時間帯ごとに異なる光を複数のキャンバスに描き分けた「積みわら」の連作や、また同様に、ルーアンに出かけては「ルーアン大聖堂」の連作を、英国ロンドンに出かけては「国会議事堂」の連作を完成させた。やがて世界は、モネが追求しているの道が、ひじょうに重要なものだと気づきはじめ、しだいにモネは現代の巨匠として仰がれるようになった。
モネは50歳前後のころから、ジヴェルニーの自宅に、柳のある日本風の庭園を作り、蓮を浮かべた池を繰り返し繰り返し描いた。白内障と闘いながら、「睡蓮」の大作を描きつづけたモネは、1926年12月、肺ガンにより没した。86歳だった。

モネの「睡蓮」の絵を間近で見ると、とても厚く、いろいろな絵の具が塗り重ねられているのがわかる。それを見ると、試行錯誤を重ねながら、ものすごい体力と精神力でもって、ひたすら完成へ向けて前進しつづけた作者の姿が、絵の向こう側に見えてくる。
20世紀の美術界には、一方に、マルセル・デュシャンのように、工業製品である便器をひっくり返して置き、
「はい、これが芸術です」
と言って見せる行き方もあったけれど、モネの道は、まったくちがうものだった。
モネの「睡蓮」に引きつけられるのは、もちろん、その絵が美しいからだけれど、同時に、肉体的労苦をともなってそこに塗られた絵の具の厚さにもよる。
(2017年11月14日)


●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らがいかにして作品を創造したかに迫り、鑑賞者はその美をどうとらえるべきか解説する美術評論集。会田誠など現代作家から、ウォーホル、岡本太郎、ダリ、棟方志功、シャガール、ピカソ、上村松園、ゴッホ、ルノワール、モネ、レンブラントをへて、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチなどルネッサンスの作家までをたどり、通読するとおのずと美の変遷史が把握される「読む美術史」。芸術作品の見方がぐっと深まる目からウロコの書。


●電子書籍は明鏡舎。
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11月13日・スティーヴンソンの情熱

2017-11-13 | 文学
11月13日は、女優の大原麗子が生まれた日(1946年)だが、小説家、スティーヴンソンの誕生日でもある。『宝島』『ジキル博士とハイド氏』の作者である。

ロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソンは、1850年、英国スコットランドの首都エジンバラで生まれた。父親は灯台を建築する有名な土木技師だった。
幼いころから胸が弱かったロバートは、エンバラ大学で工学を学び、法科に移って弁護士の資格をとったが、結局文筆家になった。
20代で『驢馬の旅』などの紀行文を発表した彼は、27歳のとき、仏国パリで既婚の米国人女性、ファニー・オズボーンと知り合った。たちまち二人は恋に落ちた。が、やがて夫人は米国カリフォルニアにいる夫のもとへ帰っていった。
米国の太平洋側にいる夫人には夫と二人の子どもがあり、大西洋のこちら側の英国にいるスティーヴンソンには健康とお金がなく、二人の恋はおよそ成就しそうもなかったが、スティーヴンソンの情熱はかえって燃え上がった。
彼はなけなしの所持金をかき集め、弱いからだを引きずって大西洋を渡り、北米大陸を汽車で横断し、生活をぎりぎりまで切り詰め、ほとんど瀕死の状態で米西海岸にたどりついた。そして29歳の彼は、夫と別れたファニーと結婚した。このあたり、スティーヴンソンの情熱もすごいけれど、こんなぼろぼろの貧乏男といっしょになった奥さんの覚悟も負けず劣らずすごい。
妻と妻の二人の連れ子をともなって英国へ帰った彼は『宝島』『ジキル博士とハイド氏』を書き、一躍、流国作家となった。が、健康はひどい状態で、医師に転地療養をすすめられた。37歳のとき、父親が没すると、スティーヴンソンは、母親と妻子をヨットに乗せて英国を離れ、太平洋のサモア諸島に住み着いた。
サモアでは、創作のかたわら、本国の植民地政策により現地の人々が苦しんでいるのを目の当たりにし、本国の新聞へ植民地の惨状を訴える投書をし、論陣を張った。
現地の人々からは「ツシタラ(語り部)」と呼ばれ、慕われたスティーヴンソンは、1894年12月、脳卒中により、没した。44歳だった。
彼の遺体は、現地の人々によって山の上まで運ばれ、山頂に葬られた。

高校時代、洋書『Treasure Island(宝島)』を買って以来のスティーヴンソン・ファンである。拙著『名作英語の名文句』の1、2の両方でスティーヴンソンを取り上げた。

スティーヴンソンの文章は、不要な修飾語をできるかぎり取り払って、なるたけ簡潔に、歯切れよく書くところが美点で、夏目漱石も言っている。
「西洋ではスチヴンソン(Stevenson)の文が一番好きだ。力があって、簡潔で、クドクドしい処がない、女々しい処がない。スチヴンソンの文を読むとハキハキしてよい心持だ。」(「予の愛読書」『漱石全集 第二十五巻』岩波書店)

からだが弱かったのに、ものすごい情熱家で、正義感が強くて、スティーヴンソンは、
「健康なる魂は、ときとして不健康な肉体にも宿る」
という見本である。
(2017年11月13日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「宝島」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ジキル博士とハイド氏」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。第二弾!


●電子書籍は明鏡舎。
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11月12日・エリザベス・スタントンの反発

2017-11-12 | 歴史と人生
11月12日は、体操選手ナディア・コマネチが生まれた日(1961年)だが、社会運動家、エリザベス・スタントンの誕生日でもある。米国ではじめて女性参政権を訴えた女性である。

エリザベス・キャディは、1815年、米国ニューヨーク州のジョンズタウンで生まれた。父親は弁護士で、エリザベスは11人きょうだいの8番目の子だった。
当時の米国では、多くの女の子は正式な学校教育を受けなかったが、エリザベスは男女共学のジョンズタウン学校へ通い、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、英作文、数学、宗教学、科学などを学んだ。成績優秀で数々の賞をとった彼女は、16歳で学校を卒業すると、さっそく男女差別に直面した。彼女より成績の悪かった男子の同級生たちがつぎつぎと大学へ進学していくのに、大学は女子を受け入れない。エリザベスは仕方なく私立の女学校へ進んだ。
学校を出た彼女は、ヘンリー・スタントンというジャーナリストと知り合い、彼女が25歳のとき、二人は結婚した。彼らの結婚式の際、司祭が花嫁に尋ねる誓い、
「夫にしたがうことを誓いますか?」
は削除された。こうして彼女の名は、エリザベス・キャディ・スタントンになった。
スタントンは、新婚旅行先で知り合ったルクレシア・モットといっしょに、集会開催の新聞広告を打ち、1848年7月、ニューヨーク州セネカ・フォールズで婦人の権利についての集会を開いた。これは、世界ではじめての女性の権利のための集会だった。つまり、人類はそれまで、女性に権利があるなどと考えたことがなかったのだった。
その集会で、32歳のスタントンは、女性の参政権を要求する「女の独立宣言」を読み上げた。女性の参政権の要求は、彼女の夫や、同志のモットさえも考え直してやめるようにと勧めたほど、当時としては革命的なものだった。
スタントンが46歳の年に、南北戦争がはじまった。
南北戦争が北軍の勝利に終わると、奴隷が解放され、すべての市民に参政権が与えられることになった。しかしそれは男性の市民で、依然として女性には参政権がなかった。
スタントンはスーザン・アンソニーらとともに、女性のための週刊の機関誌「レボリューション」を創刊し、全国女性参政権協会(NWSA・ National Woman Suffrage Association)を設立した。そうして、スタントンは、27歳から44歳までに7人の子どもう産み、子育てをしながら、ずっと女性の権利獲得のために活動を続けた。
スタントンは、1902年10月、心不全のため、ニューヨーク市の自宅で没した。86歳だった。その18年後の1920年、女性の投票権を認めた憲法修正第19条が批准された。

専門の米国現代史を勉強中、女性解放運動(ウーマン・リブ)の延長線上でスタントンを知った。日本の女性に参政権が与えられたのは、戦後、米国を中心にした連合軍総司令部の指導のもとであって、日本女性の参政権の源をたどれば、スタントンに行き着く。
現代の日本女性は、投票したり、選挙に立候補したりする権利は、生まれつきの権利としてもっているものと考えているかもしれないけれど、じつはスタントンのような先駆者たちの不屈の努力が山のように積み重なって、ようやく実現されたものである。先人の苦労をくんで、せめて選挙の際には、投票所まで足を運びたい。
(2017年11月12日)


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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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11月11日・ルネ・クレールの音

2017-11-11 | 映画
11月11日は、『バカの壁』を書いた脳解剖学者、養老孟司(ようろうたけし)が生まれた日(1937年)だが、映画監督ルネ・クレールの誕生日でもある。

ルネ・クレールは、フランスのパリで、1898年に生まれた。本名はルネ=ルシアン・ショメット。父親は石鹸屋で、ルネには2歳年上の兄がいた。
中央卸売市場のある、にぎやかなレ・アル地区で育ったルネは、哲学を学ぶ学生になったが、18歳のとき、第一次世界大戦に際し、衛生兵として従軍し、救急車の運転手となった。
戦場で見た惨状と恐怖に強い印象を受けた彼は、せき髄を負傷し、除隊した。そうしてパリにもどった彼は、戦後、左翼系の新聞の記者として活躍しだした。
そのころ、「暗い日曜日」を歌った歌手ダミアと知り合い、彼女に歌詞を提供するようになった彼は、ダミアの勧めで、22歳のころ、撮影スタジオを訪ねた。それが縁で、いく本かの映画に出演することになった。このとき使った芸名が「ルネ・クレール」。
ジャーナリストの仕事のかたわら、映画雑誌の編集や、映画監督のアシスタントをしていたクレールは、26歳のとき、チャンスを得て短編「眠る巴里(パリ)」で監督デビュー。
続いて短編「幕間」を発表。これは、出演マン・レイ、マルセル・デュシャン、音楽エリック・サティという前衛作品で話題を呼んだ。ここまでが無声映画時代。
そして、32歳のとき、トーキー第一作「巴里の屋根の下」を発表。トーキーをはじめて使いこなしたと言われるみごとな演出とともに、同名のシャンソンも大ヒットし、クレール監督の名は世界に鳴り響いた。日本でも、西城八十が訳詞した「巴里の屋根の下」が大ヒットした。以後、「ル・ミリオン」「自由を我等に」「最後の億万長者」「幽霊西へ行く」などを発表した後、第二次世界大戦に際しては、米国ハリウッドへ移り、「奥様は魔女」「そして誰もいなくなった」などを撮った。
戦後、フランスへ戻り、「沈黙は金」を発表。
その後「悪魔の美しさ」「夜ごとの美女」「夜の騎士道」などの名作を撮り、62歳になる年にはアカデミー・フランセーズの会員となった後、1981年3月、パリの西郊外にあたるオー=ド=セーヌ県の自宅で没した。82歳だった。

はじめて「巴里の屋根の下」を観たときの鮮やかな印象は忘れられない。パリの下町情緒をコミカルに、詩情豊かに描くなか、音と映像の組み合わせの妙にハッとさせられる瞬間がつぎつぎと出現する。「サウンドトラック付きの映画はこうやって作る」というお手本である。現代観てもなお新鮮な歴史的傑作。映画ファンは必見である。

「日本のルネ・クレール」伊丹万作監督(伊丹十三の父)は言っている。
「私たちがクレールにとてもかなわないと思うのは多くの場合その技巧と機知に対してである。クレールほどあざやかな技巧を持つており、クレールほど泉のように機知を湧かす映画作家を私は知らない。」(『ルネ・クレール私見』青空文庫)
(2017年11月11日)


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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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