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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月9日・野口英世の欠落

2017-11-09 | 科学
11月9日は、ゴロ合わせで消防庁「119番の日」。この日は、サッカーのデル・ピエロが生まれた日(1974年)だが、細菌学者、野口英世の誕生日でもある。

野口英世は、1876年、福島県の、現在の猪苗代町で生まれた。生まれたときの本名は、清作。彼の家は貧しい農家で、清作には姉と弟がいた。生後半年足らずのときに、清作は囲炉裏に落ちて、左手を大火傷し、指が手にくっついてしまった。
清作が14歳のころ、周囲の募金活動により手術費用が工面され、外科手術を受け、左手の指が使えるようになった。このときの感激が、彼をして医学の道を志さしめた。
20歳の年。上京するにあたり、家の柱に彼はこう彫りつけたという。
「志を得ざれば再び此の地を踏まず」
左手の手術をしてくれた医師のつてで、東京に住む歯科医を頼り、学資を捻出してもらい、21歳のときに医師の免許を取得した。そして、22歳になる年に、北里柴三郎が所長を務めていた伝染病研究所に就職した。このころ、本名を「清作」から「英世」に改名。ここに野口英世が誕生した。
24歳のとき、渡米。ペンシルベニア大学の医学部で助手となった。そして27歳のとき、ロックフェラー医学研究所に移籍した。
野口英世は、ずらりと並んだおびただしい数の試験管に同分量の試験薬を短時間で注入するなど、膨大な分量の実験を正確に、疲れを知らず続けるハードワークで業績をあげ、34歳のとき、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したと発表し、世界をあっと言わせた。彼はそのころから何度もノーベル賞候補になった。
彼はロックフェラー財団の研究チームの一員として、中南米やアフリカへおもむき、当時流行していた黄熱病の研究に励んだ。そうして野口自身も黄熱病にかかり、1928年5月、芸在のガーナのアクラで没した。51歳だった。
伝染病で死亡した患者の遺体は、現地で火葬される決まりだったが、ロックフェラーの鶴の一声でルールは変えられ、野口の遺体は金属製の密閉された特注の柩に収められ、米国へ運ばれてニューヨークの墓地に丁重に葬られた。

野口英世は細菌学の学者であり、手作業で実験データを積み重ねた時代の研究者だった。彼の没後、細菌よりもっと微小なウイルスの研究が進み、野口が発表した学説のかなりの部分が、ひっくり返されている。とはいえ、そんなことは科学、医学の世界では日常茶飯事であって、新事実の発見も、前人の研究成果があった上での成果なのだから、野口英世の偉大さを現代の科学の物差しで測ってはいけないと思う。

野口英世の出世物語の興味深いのは、周囲に無心して集めた学資を、遊興で散財し、また援助に頼り、そのお金をまた遊びにつかい、また無心して、を繰り返しているところである。上京する際、小学校時代の教頭が用立ててくれた、当時の一般の月給取りの年収の1年分にあたる金額の学資を、上京後ほんの1、2カ月でつかいきってしまったというから、その派手な遊び方もさることながら、その神経の太さにかえって感心する。そういう大胆に欠落した部分がないと、大事業というものは成らないのかもしれない。
(2017年11月9日)


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