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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月15日・田原総一朗頌

2024-04-15 | ビジネス

4月15日は、万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれた日(1452年)だが、ジャーナリスト、田原総一朗の誕生日でもある。

田原総一朗は、1934年、滋賀の彦根で生まれた。近江商人の家系だった。
戦中、軍国少年だった総一郎は、11歳で敗戦を迎えた。彼の父親は戦後の混乱期に闇屋に手を出したが、儲かるどころかかえって借金が増えていくばかりで、田原家からは家財道具が一つ、また一つとなくなっていったという。高校を卒業した総一郎は、親の反対を押し切って上京。早稲田大学の夜間部である第二文学部に入学し、日本交通公社(現在のJTB)に勤めながら大学に通った。当時は小説家志望で、公社の給料と奨学金から、大学の授業料と下宿代を払い、さらに実家へ仕送りし、極貧の生活をしながら、小説を書いた。複数の同人誌に参加した後、21歳のころ、自分の文学的才能を見限り、マスコミ就職へ進路を切り替えた。彼は就職後の採用条件がよくなるようにと、あらためて早稲田大学の全日制に入り直した。そうして、新聞配達や郵便の仕分けなどさまざまなアルバイトをした後、自分の下宿を教室にして学習塾をはじめ、学生のアルバイト教師を雇って、学費や生活費を捻出した。
ジャーナリスト志望の田原は、テレビ局、新聞社などマスコミを受験したが、いずれも不合格となり、26歳で大学を卒業すると、映画制作会社に入社。カメラマン助手となった。
30歳の年、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に入社。テレビ・ディレクターとなった。ガンになった俳優の切除手術から死去までをカメラに収めたり、フリーセックスの結婚式の一部始終を、みずからも参加しながら取材したりと、過激なドキュメンタリー番組を数多く手がけた後、42歳でテレビ局を退社。フリー・ジャーナリストとなり、雑誌やテレビで活躍。53歳のころから「朝まで生テレビ!」の司会役を務めている。

以前、田原総一朗の講演を聴いた。テレビと変わらぬ歯切れのいい話ぶりで、さまざまな問題について、マスコミの裏話を交えながら、おもしろおかしく興味深い話を次から次へと披露した。そのなかに、現役の大臣が、国民に政策を説明する前に、田原に会って説明の予行演習をし、チェックしてもらった裏話もあった。
講演の話しっぷりもみごとだったけれど、いちばん驚いたのは、講演の後の質疑応答だった。彼は聴衆に手を挙げさせ、いくつか質問を受け付けた。そのとき、投げつけられた質問が、北海道の問題とか、北朝鮮の問題とか、いま話した講演の内容とはまったく関係のない別個の話題ばかりなのだった。にもかかわらず、田原総一朗はつねに、
「うん、それはね……」
と、間髪をおかず、歯切れよく即答した。あらかじめ材料を用意してきた演題にちなむ話題ならともかく、その席で初出の話題について不意に尋ねられて、すかさず論理明快に答えた頭脳の回転の速さ。当時すでに70歳を越えていた。

田原総一朗は言っている。
「人生とはなんなのかということを考え、模索して生きることこそが人生なんだね。それは決し苦しいことじゃない。本当は楽しいことなんだ。」(『異端児になれる人 出来損ないで終わる日』青春文庫)
(2024年4月15日)



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