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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月22日・ラマヌジャンの身体

2018-12-22 | 科学
12月22日は、「蝶々夫人」「トゥーランドット」を書いた作曲家プッチーニが生まれた日(1858年)だが、インドの天才数学者ラマヌジャンの誕生日でもある。

シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンは、1887年に、南インドのタミル・ナードゥ州クンバコナムに生まれた。生家は貧しいバラモンの家で、身分は高かったが、近所の人に食べ物をわけてもらわなくては生きていけないくらい貧しかった。
小さいときから学校の成績のよかったラマヌジャンは、15歳のときに『純粋数学要覧』という本に出会った。英国の数学者ジョージ・カーが書いたその本は、数学の定理が6000個近く並べられた本だった。一つひとつの定理について、くわしい解説はない。
ラマヌジャンは、この本に夢中になり、そこに並んだ定理を片っ端から証明していった。そうして、数学一辺倒の人間になっていった。
17歳のとき、ラマヌジャンはクンバコナム大学に入学するが、数学しかやる気がないために、1年で退学。ラマヌジャンは数学の勉強だけを続け、自分で発見した定理をノートにせっせと書きためていった。
彼は家庭教師をしたり、経理の仕事をしたりして食いつなぎながら、数学の論文を書いた。それが数学の学会誌に掲載された。ラマヌジャンはさらに自分の発見した定理を、インドの学者に見せ、宗主国であった英国の学者にも送った(インドは英国の植民地だった)。
こうした手紙はほとんど無視されたが、送りつけられた学者のひとり、ケンブリッジ大学の学者、ゴッドフレイ・ハーディはそれに目を通した。ハーディは、ラマヌジャンの定理の数々に驚いた。
「これまで、これにすこしでも似たものを見たことがない」
ハーディはラマヌジャンを英国へ呼び寄せるよう手配した。

バラモンには海を渡ってはいけないという戒律のしばりがあった。その戒律を破ると、バラモンのコミュニティーから追放されてしまう。
ラマヌジャンの周囲では「行ってはいけない」「いや、行くべきだ」とすったもんだがあって、結局ラマヌジャンとその支持者が、ヒンドゥー教の神さまの「行ってよろしい」というご宣託を受け、ラマヌジャンは晴れて渡英した。

ラマヌジャンは、ケンブリッジに約5年間いた。ハーディは無神論者で、数学においては証明の厳格さを重んじていた。一方、ラマヌジャンは信仰心厚く、数学においては直感に頼っていた。それで、二人の共同作業は、ラマヌジャンが毎日もってくる新定理の数々を、ハーディが証明し論文を書く、というものになった。
しかし、寒い英国の気候がからだに合わず、宗教上の理由から食事の栄養が偏り、栄養不足になりがちで、さらに英国の習慣からくるストレスが重なり、彼は病気で倒れた。ラマヌジャンは、結局、31歳のときにインドへ帰っていった。
その凱旋は地元に人々に大歓迎されたが、彼の健康は回復することなく、ラマヌジャンは1920年4月、マドラスチェットペットで、没した。32歳の若さだった。
死因は結核、ビタミン欠乏症、肝炎など諸説がある。
頭の天才とからだの弱さ。天は二物を与えずということはあるものだ。
(2018年12月22日)



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