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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

7月29日・重光葵の日本

2021-07-29 | 歴史と人生
7月29日は、ハンセン病を研究した医学者、アルマウェル・ハンセン(1841年)が生まれた日だが、外交官・政治家の重光葵(しげみつまもる)の誕生日でもある。

重光葵は、1887年に大分の大野で生まれた。父親は漢学者で、大分県庁や大野郡の郡長を務めた人物だった。葵は八人きょうだいの上から四番目の次男だった。
父親は学問にのみ関心をもち、家計をかえりみなかったため、家は貧しかったが、葵はなんとか進学し、東京帝国大学の法学部を出た。大学卒業後、外交官試験に合格し、25歳の年にドイツに渡り、外交官補として着任した。以後、欧米の列強国を渡り歩き、第一次大戦集結後のパリ講和会議にも出席した。
1931年、満州で日本の関東軍が暴走し、満州事変がはじまった。45歳の重光は上海に公使として赴任した。すると、上海でも日本軍と中国軍の衝突が勃発。重光は中国側と交渉して、なんとか停戦案をとりまとめるが、その停戦文書調印を目前にした4月29日の天長節の式典会場に爆弾が投げこまれた。爆発により、重光は両足に重傷を負い、病院に担ぎ込まれた。病院へ駆けつけた警察署長に向かって彼は命令した。
「『犯人は取り逃がさぬよう厳重捕縛は必要だが、これに虐待暴行を加うる如きは一切厳重に取り締まってもらいたい』との厳命を下した。私はこのような列国環視の中にあっては日本は飽くまでも大国らしく男性らしく行動したいと考えた。」(重光葵『外交回想録』中公文庫)
重光は、結局右足を切断することになった。重光は、皇后から恩賜された義足をつけ、欧州各国を駆けまわり、各国首脳と意見を交換し、欧州の状況を日本へ伝え、欧州ではじまったヒトラーたちの戦争に日本はけっして巻き込まれてはならない旨を力説したが、一方で、アジアでは日本軍が暴走を続け、外相になった松岡洋右は、外務省の役人を大量にクビをきり、日本の参戦近しと演説をぶち、日独伊三国同盟を結んでしまった。
ナチス・ドイツ軍による空襲下のロンドンで、重光はこれから敵になる英国首相チャーチルと涙の握手をして別れてきた。
53歳の重光が帰ってくると、すぐに日米開戦となった。重光は戦時下の外務大臣となり、軍部主導による冷徹なアジア支配を、穏やかにアジアが共和するものへとすり替えるよう努力し、また終戦工作をおこなった。
58歳で1945年8月の敗戦を迎え、9月には、日本の首席全権としてミズーリ号艦上で降伏文書の調印式に臨んだ。調印式から帰った重光の耳に、連合軍司令部のマッカーサー元帥が日本に軍政を敷く布告を出すとの報を聞き、あわててマッカーサーに面会を求め、軍政は敷かず、日本政府を通して占領政策を実行するべき旨を力説して、ついにマッカーサーを納得させた。戦後の占領体制は、重光の説得によって、ずいぶんやわらかなものになった。
つねに戦争回避、平和を目指した重光だが、かつて駐ソビエト連邦公使時代、満州で日ソが軍事衝突した際にソ連側のうらみを買っていたことから、東京裁判ではA級戦犯として禁固刑7年の実刑判決を受けた。
釈放、公職追放解除後は、国会議員となり、鳩山内閣の副総裁・外務大臣として国際交渉の現場に復帰し、日ソ間の国交正常化交渉や北方領土返還交渉、日本の国際連合加盟に尽力し、69歳のとき、米ニューヨークの国際連合で、日本代表として加盟受諾演説をおこなった。その翌月、1957年1月に没した。69歳だった。
(2021年7月29日)



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