5月13日は、名短編『アルルの女』の作家アルフォンス・ドーデ生まれた日(1840年)だが、女帝マリア・テレジアの誕生日でもある。神聖ローマ帝国に君臨したハプスブルク家の女当主であり、あのマリー・アントワネットの母親である。
マリア・テレジアは、1717年、神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)のウィーンで生まれた。本名は、マリア・テレジア・ワルブルガ・アマリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ。父親は、神聖ローマ皇帝カール6世だった。
当時、ハプスブルク家は、現在のドイツ、オーストリアを含む神聖ローマ帝国を支配し、姻戚関係により一族でスペインも支配していた。
マリアには兄がいたが、早く死んでしまい、ほかに男の兄弟がいなかった。父親が亡くなると、彼女が家督を継ぐことになった。ところが、いざ家督を継ごうとすると、たちまちあちこちから反対の声があがった。
「女が継ぐのは認めない。うちだってハプスブルク家とは縁続きだ」
そう言い、ザクセン公、バイエルン公、スペイン王が反旗をひるがえした。彼らの後ろには、フランスのブルボン家(ルイ王朝)がひかえて糸で引き、プロイセン王が混乱に乗じて乗りこんできた。
マリア・テレジアは、領土について譲歩せず、戦争に踏み切った。オーストリア継承戦争である。彼女は子どもを身ごもっていたが、よく国民の士気を鼓舞し、財政面、外交面でも手腕を発揮して、よく戦時体制を支えた。内政面では、領土内に小学校を作り、義務教育とし、徴兵制度を改革して、全国民に兵役義務を課し、兵隊に給料を出した。これによって、国民の知的水準が上がり、軍隊の士気が上がった。
政治に奔走しながら、彼女は男子5人を含む、16人の子を産んで育てた。男の子は各地の領地の王となり、娘たちは各国の大公や国王のもとへ政略結婚で嫁にやられたが、そのなか、フランスのルイ16世のもとへ嫁したのがマリー・アントワネットだった。長らく対抗関係にあったブルボン家とハプスブルク家とが婚姻関係で結ばれる歴史的結婚だった。が、それがフランス革命という降って湧いた大波に呑みこまれ、マリー・アントワネットは、断頭台の露と消える運命となった。奢侈に流れやすい娘マリーの身を案じていた母マリア・テレジアは、1780年11月に没した。63歳だった。
当時は、王族の子女の婚姻は政略結婚で、恋愛結婚など許されなかった。しかし、マリア・テレジアは例外で恋愛結婚だった。小さいときから好きだった従兄のロレーヌ公子フランツと、19歳のときに結婚。それで2人は16人の子どもをもうけた。
夫のフランツは、結婚の6年後に、神聖ローマ皇帝に即位し、フランツ1世となった。が、実際の政治は、妻のマリア・テレジアが仕切り、フランツはいつもかやの外だった。外国との交渉ごとに夫が出ても、妻の意向をうかがいうかがいで、妻がハンガリー女王として戴冠式に望んだ際には、夫の彼は式場へさえ入れてもらえなかった。観劇に出かけても、格下の席にすわらされ、宮廷内での無礼は日常茶飯事だった。やり手の女房をもつと、いかに夫の存在がかすむかという見本だが、フランツはマリアが48歳のときに没した。
夫の死を悲しんだマリアは、自分の衣裳をすべて宮廷の女官たちに分けてしまい、自分は以後、亡くなるまで喪服しか着なかったという。すぐれた指導力を発揮した政治家ぶりばかりが喧伝されるが、ある清廉な精神性を感じさせる生涯だった。
(2015年5月13日)
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マリア・テレジアは、1717年、神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)のウィーンで生まれた。本名は、マリア・テレジア・ワルブルガ・アマリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ。父親は、神聖ローマ皇帝カール6世だった。
当時、ハプスブルク家は、現在のドイツ、オーストリアを含む神聖ローマ帝国を支配し、姻戚関係により一族でスペインも支配していた。
マリアには兄がいたが、早く死んでしまい、ほかに男の兄弟がいなかった。父親が亡くなると、彼女が家督を継ぐことになった。ところが、いざ家督を継ごうとすると、たちまちあちこちから反対の声があがった。
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当時は、王族の子女の婚姻は政略結婚で、恋愛結婚など許されなかった。しかし、マリア・テレジアは例外で恋愛結婚だった。小さいときから好きだった従兄のロレーヌ公子フランツと、19歳のときに結婚。それで2人は16人の子どもをもうけた。
夫のフランツは、結婚の6年後に、神聖ローマ皇帝に即位し、フランツ1世となった。が、実際の政治は、妻のマリア・テレジアが仕切り、フランツはいつもかやの外だった。外国との交渉ごとに夫が出ても、妻の意向をうかがいうかがいで、妻がハンガリー女王として戴冠式に望んだ際には、夫の彼は式場へさえ入れてもらえなかった。観劇に出かけても、格下の席にすわらされ、宮廷内での無礼は日常茶飯事だった。やり手の女房をもつと、いかに夫の存在がかすむかという見本だが、フランツはマリアが48歳のときに没した。
夫の死を悲しんだマリアは、自分の衣裳をすべて宮廷の女官たちに分けてしまい、自分は以後、亡くなるまで喪服しか着なかったという。すぐれた指導力を発揮した政治家ぶりばかりが喧伝されるが、ある清廉な精神性を感じさせる生涯だった。
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