1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月21日・升田幸三の華

2014-03-21 | 歴史と人生
3月21日は「音楽の父」ヨハン・ゼバスティアン・バッハが生まれた日(1685年)だが、将棋棋士の升田幸三(ますだこうぞう)の誕生日でもある。
升田幸三は、おそらく日本でいちばん人気の高い将棋指しである。以前、升田の著書を、自分はたまたま書店で見かけ、買った。おもしろくて、それからしばらく升田の本をたけつづけに読んだ。

升田幸三は、1918年、広島の、現在の三次で生まれた。実家は農家だったが、父親が道楽者で、田畑をつぎつぎと売って、家は大きく傾いていた。幸三は四男で、生まれたとき、釈迦かキリストかソクラテスかという奇相の赤子だと言われた。
小学校に上がる前すでに足し算、引き算、掛け算ができたという幸三は、一面、いたずらばかりする手のつけられない悪童だった。
5歳のとき彼は、7歳か8歳の女の子の眉間に日本刀で斬りつけるという事件を起こした。これはその子に「お前のような貧乏な家に刀などあるはずがない、あったらこの首をやる」と罵倒されたのに逆上し、家から日本刀を持ちだしての暴挙だった。この罰として、幸三は酒の二升樽で頭を延々とぶたれつづけ、発熱し、頭が悪くなった。
彼は小学校へ入ったが、なにも覚えられない無能な状態がずっと続いた。13歳くらいからようやく頭が正常にもどりだした。同じころ、自転車で谷から転げ落ちて左足を骨折した。それまで将来は武芸者になるつもりでいたところ、そのケガであきらめ、幸三は将棋指しになろうと進路を変更した。
14歳のとき、母親の物差しの裏に、こう書きつけて家出した。
「この幸三、名人に香車をひいて勝ったら大阪に行く」
露天の詰め将棋荒らしなどの放浪をへて、大阪の棋士、木見金治郎に入門。召集され6年間の軍隊生活の後、戦後、棋界に復帰し29歳で八段。34歳で王将位を獲得。
38歳のとき、大山康晴名人を相手に、ほんとうに香車落ちで勝利した。
つねに新しい指し手を志す「新手一生」を信条に、名人位、九段位などを獲得し、数々の名勝負を闘った後、1991年4月、心不全のため没した。73歳だった。

終戦直後の占領下、升田幸三はGHQ(連合国総司令部)に召喚され、事情聴取を受けたことがある。出頭した升田に、GHQの係官はこう質問した。日本の将棋は、とった相手の駒を使うが、あれは捕虜虐待ではないか、と。升田はこう答えたという。
「むかし楠木正成は川に落ちた敵兵を救い、救われた敵兵は感激して正成の部下になってともに働いた。これが日本精神だと話してやったんですよ。しかも将棋の場合、軍門に降った銀は銀として使う。捕虜の少尉を伍長に格下げして使うんなら虐待かもしれん
が、あくまで少尉として一視同仁に使うんだから、ちっとも虐待じゃないと。
それでもまだわからん顔をしとったから、チェスでは王様が助かるために、女王を盾にする。女を犠牲にして王様が逃げだすが、あれはどういうわけかといったら、ずいぶん困った顔をしましたよ。」(升田幸三『勝負』成甲書房)

升田は、来日したロバート・ケネディに、あなたは戦勝国の人なのだから、ふんぞり返って歩くのでなく、かがみかげんで歩くがよかろうと注意した。米国へもどったケネディは、日本におもしろい男がいると升田のことを友人に話したそうだ。升田は言っている。
「いま日本人も、東南アジアでいばっとるという話ですが、こりゃ感心せんですな」(同前)
日本人にはめずらしい、華のある、姿の大きな人だったと思う。
(2014年3月21日)


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