1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月17日・ボビー・ジョーンズの自分との闘い

2014-03-17 | スポーツ
3月17日は、「小説の神様」横光利一が生まれた日(1898年)だが、ゴルフ界の「球聖」ボビー・ジョーンズの誕生日でもある。
自分も20代のころはゴルフをやっていた。そのころ、マスターズ・トーナメントや、その創始者ボビー・ジョーンズのことを知った。

ボビー・ジョーンズこと、ロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニアは1902年、ジョージア州のアトランタで生まれた。父親は弁護士で、幼少時からからだの弱かったボビーにゴルフをすすめ、ボビーはゴルフに早くから親しんだ。6歳で子どもゴルフ大会で優勝し、14歳のとき、ジョージア州のアマチュア大会で優勝した。
彼はジョージア専門技術学校で機械工学を学び、ハーヴァード大学で英文学を修め、24歳のときロースクールに入り、弁護士の資格をとって、父親の事務所で働きはじめた。そうした学業、弁護士業のかたわら、アマチュアのゴルフプレイヤーとしてゴルフ・トーナメントに出場しつづけ、数々の大会で優勝した。
28歳のとき、当時の世界4大タイトルである全米アマチュア、全英アマチュア、全米オープン、全英オープンの各大会で優勝し「年間グランドスラム」の快挙を達成した。グランドスラムを成し遂げたボビー・ジョーンズは、そのまま競技ゴルフから引退した。
その後は、法律の仕事に専心したが、世界的有名人であるジョーンズにはつねに衆目が集まり、ジャーナリズムに追いかけられた。彼は野次馬から逃れ、友人たちとプライベートにゴルフを楽しめるゴルフクラブを作りたいと、ジョージア州オーガスタに土地を購入し、アリスター・マッキンジーとともにゴルフコースを設計した。それがオーガスタ・ナショナル・コースで、ジョーンズが31歳のときオープンし、32歳のときからそこでマスターズ・トーナメントが開催されるようになった。
第二次世界大戦中は、ジョーンズは米国空軍の士官となり、英国で勤務した。仏国ノルマンディーに上陸し、捕虜の尋問にあたった。そのとき、オーガスタのゴルフコースは、家畜たちが草を食べる放牧場として開放されていた。
戦後、46歳のとき、ジョーンズは脊髄空洞症の診断を受けた。彼は痛みと麻痺の症状に苦しめられ、ついには車椅子生活を余儀なくされた。そして、1971年12月、アトランタで没した。69歳だった。

ボビー・ジョーンズはプロにならず、アマチュア・ゴルファーを通した。フェアプレイで有名だった。23歳のときに出場した全英オープンの際、或るパー4のコースで、第一打をラフに打ち込み、第二打でグリーンに乗せ、2パットしてパーをとった。運営側が「ジョーンズ氏、4打」とアナウンスすると、ジョーンズはこう修正申告した。
「それはちがう。ラフで構えたとき、足元のボールがすこし動いた。だから5打だ」
その結果、ジョーンズはべつのゴルファーと同点首位となった。二人のあいだでプレイオフがおこなわれ、ジョーンズはプレイオフに負け、準優勝になった。

ボビー・ジョーンズはこう言っている。
「競技ゴルフは主に5インチ半の幅のコースのなかでおこなわれる……それは耳と耳のあいだである。(Competitive golf is played mainly on a five-and-a-half-inch course... the space between your ears.)」

ゴルフを、自分自身との闘いだと考えていた彼らしいことばだと思う。
(2014年3月17日)


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