1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月3日・ジーン・ハーロウの金髪

2014-03-03 | 映画
桃の節句、ひな祭りの3月3日は、『幸福論』で有名なアランが生まれた日(1868年)だが、往年のハリウッド女優ジーン・ハーロウの誕生日でもある。自分はなぜだか、若いころから金髪の「セックスシンボル」ハーロウの名前は知っていた。

ジーン・ハーロウは、1911年、米国ミズーリ州のカンザスシティで生まれた。本名は、ハーリアン・ハーロウ・カーペンター。父親のカーペンター氏は歯医者だった。ハーリアンの母親は裕福な不動産業者の家庭で育った娘で、労働者階級出身の夫とそりが合わず、ハーリアンが11歳のときに離婚し、溺愛する娘を引き取った。ハーリアンは父親を愛していたが、母親は娘を自分の強い管理下におき、父親に会わせなかった。
ハーリアンが12歳のとき、母親は彼女を連れてカリフォルニアのハリウッドへ越していった。これは、母親が映画女優になることを夢見てのことだったが、母親はすでに30歳をすぎており、やがて母親は娘を連れてミズーリへ舞いもどった。
15歳のころハーリアンは、イリノイ州の女学校へ入学した。そこで彼女は4つ年上の資産家の息子と知り合い、恋に落ちた。彼女が16歳のとき、二人は結婚し、ロサンゼルスのベヴァリーヒルズで暮らした。新郎に巨額の遺産を相続し、そのお金で若い夫婦は遊び暮らしていたが、夫がしだいに酒びたりになり、彼女は18歳のときに離婚した。
ハーリアンはロサンゼルスで新人女優と友だちになった。彼女自身は気が進まなかったらしいが、その友だちや母親にけしかけられて、映画スタジオと契約した。契約書には、母親の結婚前の名前「ジーン・ハーロウ」とサインした。
はじめ、日給7ドルのエキストラだったハーロウは、やがて週給100ドルもらうようになった。そして、19歳のとき、大富豪のハワード・ヒューズが監督した映画「地獄の天使」に出演し、ハーロウはにわかに注目を集めるようになり、20歳のとき「プラチナ・ブロンド」に出演。身持ちの悪い妖婦型の役柄を多く演じる彼女の演技を、批評家たちは酷評したが、男性ファンは急増し、娘たちは彼女のプラチナ・ブロンドの髪型をまねた。
ハーロウは21歳でMGMと契約。週給は一気に1250ドルに跳ね上がった。MGMはグレタ・ガルボの跡をつぐスター女優として彼女を売り出そうとした。MGMでは彼女はコメディの才を発揮し、クラーク・ゲーブルとのコンビで「紅塵」「春の火遊び」などに主演した。
1930年代にはセックス・シンボルとして、ハリウッド最大のスターのひとりとして君臨したハーロウは、26歳のとき、疲労、吐き気、腹痛などを訴えるようになった。彼女を診た医者は深刻な病状とは見立てず、映画撮影はハードスケジュールのまま続けられた。そしてハーロウは撮影中、相手役のクラーク・ゲーブルにもたれかかり、こう頼んだ。
「気分が悪いの。控室へ連れていって」
倒れたハーロウは、そのまま自宅療養に入り、入院し、1937年6月、入院先の病院で没した。26歳だった。死因は脳水腫、腎不全とされるが、異説もある。

ハーロウといえば、プラチナ・ブロンドの髪で有名だけれど、ほんとうは彼女の髪は灰色がかった金髪で、彼女自身は髪を痛めるからと、プラチナに染めるのを嫌がったそうだ。

ジーン・ハーロウは、短いその生涯のうちに3度結婚し、3度離婚している。2度目の夫は、結婚して間もなくピストル自殺で亡くなっている。他殺説もあって、当初は妻のハーロウ自身も疑われた。プライベートでは幸福が長続きしない、薄幸な大スターだった。おひなさまの日に生まれた女性の運命と考えると、感慨深いものがある。
(2014年3月3日)



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