沈黙の春

本ブログの避難用ブログです。

電力7社、今夏最高の使用量 供給力まだ余裕

2012-07-28 16:14:27 | 原発関連

http://www.asahi.com/special/energy/TKY201207270551.html

表:27日の電力使用量27日の電力使用量

 全国的に気温が高かった27日は、ピーク時に使われた電力(速報値)も、電力会社10社中7社で今夏の最高を記録した。

 東京電力管内では、午後2時台に5088万キロワットになり、昨年8月18日に記録した昨夏最高の4922万キロワットを上回った。東電の使用量が5千万キロワットを超えるのは震災前の昨年3月7日以来だ。供給力のひっぱく度を表す使用率は91%だった。

 ただ、この日もまだ火力発電所はフル稼働しておらず、供給力には約200万キロワットの余裕がある。

 

 


福島第一原発事故の壮絶な舞台裏 米テレビ局制作

2012-07-28 15:33:08 | 原発関連

 http://sankei.jp.msn.com/wired/news/120307/wir12030711240000-n1.htm

2012.3.7 11:21 (1/3ページ)放射能漏れ

 すべての日本人が、この番組を観たほうがよさそうだ。

福島第一原発の事故直後の舞台裏を描いた、アメリカのテレビ局PBSのドキュメンタリー

「Frontline: Inside Japan's Nuclear Meltdown」。

先月、2月28日に放映されたものだが、ネットで無料で閲覧可能だ。

英語のみの放送だが、ぜひ観てほしい。

 

 未曾有の事故から1年を控え、欧米でも福島第一原発の事故の検証がさまざまなメディアで報じられている。

 2月27日には、『New York Times』をはじめとする各紙が「核危機で東京都民の避難を検討」、

『TIME』誌は「平静を保つように語っていた政府が東京都民の避難を検討

といった見出しで、事故直後の舞台裏を改めて報じている。

このドキュメンタリー「Frontline: Inside Japan's Nuclear Meltdown」は

、同日に発表された一般財団法人日本再建イニシアティブの報告書

福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書

〈ディスカバー・トゥエンティワン〉の発表に合わせた記事として大きく取りあげられたものだが

、報告書は、協力を拒んだ東京電力の関係者以外、事故当時首相だった菅直人

、官房長官だった枝野幸男などを含む300人の証言に基づく詳細なもので、

3月11日(土)には一般書店で発売される。

 

この「首都圏民3,000万人の避難」については、PBSの「Inside Japan's Nulclear Meltdown」内の菅直人の単独インタヴューにおいても語られている。

番組は、事故後10日間の現場内部、あるいは官邸の様子を証言者たちの声を交えながら綴ったもので、既知の情報も、本人たちの生々しい証言と多くの未公開映像を通して語られることで、事故の恐怖が1年を経てなお一層リアルに迫ってくる。54分ほどの番組だが、引き込まれて一時も目が離せなかった。

 例えば。事故発生2日後、格納容器内に溜まった水蒸気を逃すために、放射能漏れを覚悟でヴェントを開く決断を官邸が下したものの、電動制御のそれを手動で開けるやり方を東電が知らなかったことを隠していたため、ヴェントを開いたという報告が入らないことに首相が業を煮やし自ら福島に乗り込む場面。

その舞台裏では、現場の技師たちがマニュアルを必死でひっくり返しては、内容を読み込むのに時間を取られていたのだという。「簡単には開かないんです。必死に作業していたんです」と現場の技師は言う。

加えて現場の放射線量は危険な値を示しており、作業員をそこにまで送り込むことは、すでに自殺に等しい行為だった(番組内ではSuicide Squadという言葉を使っている)。

 あるいは事故発生から5日目、東電が現場にいた職員・技師たちを総員撤退させることを決定し、それを首相が押しとどめる場面。この間の経緯について、東電側は「全員を避難させるとは言っていない」としているが、現場にいたある人物は、当時の吉田昌郎所長が現場職員全員を集め、「みんな家に帰ってくれ」と語ったことを証言している。

吉田本人だけは残って死ぬ覚悟だったのではないかとその証言者は類推するが、そのうえで、「家に帰れ」と言われて「ホッとした」という率直な心情をも明かしている。

 菅直人が総員撤退したいという連絡を受けたのはその日の午前3時。数時間後にはテレビ電話で、現場にいる技師・職員たちにとどまるよう「かなり強く」命じたと菅は証言する。

全員撤退して福島第一原発を放置したならチェルノブイリの何十倍もの被害をもたらすことになっただろう、と前首相は語る。こうした切迫したやりとりのなかで、現場から200、250、300kmの範囲までエリアを広げて市民の退避を行うシミュレーションが官邸内では行われていたことも明かされる

そうした間にも現場では決死の作業が続いている。悲壮な覚悟をもって現場に立った人々が語る知られざる真実には胸に迫るものがある。

3号機内部を検証するために現場に到着した自衛隊員たちが、現場到着直後に爆発に見舞われ、命からがら退避したこと。使用済み燃料の冷却プールへ、冷却水を空中から投下する任務を負った自衛隊のヘリコプターパイロットが、チェルノブイリで同任務にあたったパイロットがガンで早く命を亡くしたことを予め教えられており

、その作業を死を覚悟のうえで引き受けたこと。また、冷却プールへの海水の注入の任にあたった東京消防庁の隊員たちの深夜の作業風景といった貴重な映像も登場する。

建物に近づくにつれ、けたたましく鳴り続けるガイガーカウンターのアラーム音と隊員たちが叫ぶ、「100ミリシーベルト!」の声が入り乱れる様子はとりわけ生々しい。隊員のなかには、いまもって、その晩自分がどこに行っていたかを家族に明かしていない者もいる、とナレーションは伝えている。

 番組最後で、菅は10日目以降をもって事態は徐々に回復していったと語るが、そこに至るまでの10日間が、薄氷を踏むような想像以上に危険な日々だったことを、この番組は改めて浮き彫りにする。

東電と菅政府が、事態の深刻さを正直に国民と世界に伝えてこなかったことについて番組は多くを語っていないが、それについていまさら付け加えることもないだろう。欧米のメディアなども、先の報告書を受けて「政府と東電の対応こそが、真の災害だった」という認識を改めて確認しているが、ただ、それでも、状況によっては、もっと悪い事態も起こりえたのだ。

 3号機の爆発から間一髪で逃げ延びた自衛隊隊員は「本当にラッキーでした」と心の底からの安堵を顔に浮かべながら語っている。しかし、本当にラッキーだったのは、彼とその隊員たちだけではなかったのだろう。

不謹慎は承知のうえで、そう思わずにはいられなかった。その言葉の意味を、ぼくらはいま、新たな思いでもっと深く噛み締めるべきなのだろう。

 


脱原発に転じた東海村の真意 村上村長に聞く

2012-07-28 15:01:47 | 中国

茨城県東海村は日本国内で最初に「原子の火」がともった発祥の地だ。昨年の東日本大震災では日本原子力発電の東海第2原子力発電所が津波に襲われたが、大事故には至らなかった。原子力とともに発展した村でありながら、村上達也村長は東海第2の廃炉を求め「脱原発」にかじを切った。その真意を尋ねた。

 
――東海村は1999年、核燃料加工工場であるジェー・シー・オー(JCO)の臨界事故を経験しました。
繰り返す事故に原子力業界の反省が足りないと思われたのが、脱原発の契機だと話されていますね。

 「それもある。安全を軽視する風土は変わっていない。

また昨年、原発事故の恐怖をじかに感じたことも大きな理由だ」

 ――東海第2原発の状況に肝を冷やしたということですか。

 「大震災直後は道路や水道の復旧などに追われたが、福島原発の状況には注目していた、15日にはメルトダウンが起きていると思っていたし東海村で観測される放射線が高くなっていた。

東海第2については11日夜に原電からファクスの報告が入り始め、炉心の状況がわかっていた。圧力や温度がなかなか下がらないと思ってはいたが、破滅的な状態は避けられるとみていた」

 「寒けがしたのは23日だ。海水が(ポンプエリアの)防潮壁の高さまでわずか70センチまで到達していたと聞いた。

非常用電源3台のうち1台がダウンし、もう少しで全電源喪失、福島と同じ事になっていたと知らされた。

10キロ圏で約30万人、20キロ圏なら75万人が避難対象になる」

 「原電はよくぞ持ちこたえてくれたと評価したい半面、破滅と紙一重だったのも事実だ。

防潮壁は茨城県のハザードマップ見直しを受けて高くし2日前に壁の穴をふさいだばかり。

十分に備えがあったから大丈夫だったのだとはとても言えない。原電が安全最優先でやってきたとも思えない」

 ――確かにもうひとつ何か不運なことがあったら、事態は深刻だったかもしれません。

しかしあの津波に耐えたのも事実です。

 「日本には技術は世界一だという過信がある。日本人が科学技術で世界に秀でているとは思えないのに、米国で事故が起きたが日本では起きないとか、旧ソ連は労働者のレベルが低いとか、そんな論調が強かったことに以前から危惧していた」

 「すでにJCO事故の時から、米原子力規制委員会(NRC)は原子力の推進と規制を分離すべきだと指摘し私もそう言っていた。当時は科学技術庁に原子力安全委員会と、その事務局である原子力安全局があった。科技庁と文部省と統合で安全規制は経済産業省の原子力安全・保安院に移ったが、分離どころか、ますます推進と一体化した」

保安院は規制をしっかりやればよく『安全は確認された』などと結論までいう必要はない。検査して異常はないと確認したと言えば十分ではないか。そう保安院の人間に言ったことがあるが、その人は『(保安院は)原子力推進だ』と開き直っていた。規制というと政策に反対するイメージがあるのだろうが、これは役割をはき違えている」

 「日本は原発を技術的につくる能力はあるが、原発をきちんと管理できる組織体制をつくれていない。新しくできる原子力規制委員会や規制庁は人選やスタッフの質が重要な問題だ。(いったん配属されたら出身官庁には戻れない)ノーリターン・ルールを厳しくすると規制庁に良い人材が集まらないと言う人がいるが、そんな調子では規制の重要性が理解されていないと言わざるを得ない」

 ――東海第2の廃炉を求めていますが、企業に対し資産を廃棄しろとは言えません。具体的にどのような方策を考えていますか。

 「とくにこうするという具体的な手段があるわけではない。ただ政治的には保守的といわれる茨城県の17の地方議会で東海第2の廃炉を求める住民の請願を採択した。これは画期的だ。世論調査でも住民の多くは依存しない社会にしたいとの意見が多い。私自身は『脱原発を目指す首長会議』などで自分の意見を包み隠さず話していくだけだ」

 ――県内の自治体には原電との原子力安全協定を見直すことを求める声が高まっています。

 「9市町村からなる県央地域首長懇話会(座長・高橋靖水戸市長)で7月5日に原電に申し入れた。

東海村は安全協定に基づき原発の再稼働などで原電に対して意見を述べる権限がある。

私が同意しないと再稼働は困難だろう。他の自治体も東海村と同等の権限を持ちたいと考えている

。また東海村に隣接する日立、ひたちなか市など5市で組織する原子力所在地域懇談会(座長・村上村長)も原電に協定見直しを17日に要望した」

 ――村内には原発関連の職に就く人が多く、脱原発は経済面では難しいとの指摘があります。

 「雇用の面では日本原子力研究開発機構のウエートが大きく原発はそれほどでもない。

日本の原発は廃炉の時代を迎えている。

これから長期間にわたり廃炉と廃棄物の処理・処分に取り組まねばならないのは明かだ。

東海村をそのための人材育成と技術開発の国際拠点とし、ベトナムや中国などから技術者を招き養成する国際的な役割を果たしたい。

原研機構のJ-PARC(高強度陽子加速器施設)などの科学研究を軸に国際的なまちづくりをしていくのが進むべき道だと考えている。実現は容易ではないが、原子力発祥の地として21世紀の科学の拠点を目指したい」

 ――東海第2だけでなく、日本全体の脱原発も主張されていますが、どのくらいのスピード感を想定しているのですか。

 

「ドイツは10年かけてゼロにする。これはひとつの理想だと思う。日本政府は脱原発依存を口にしているが、どれを廃炉にするのか基準が何一つ決まっていない。原発比率が15%か25%かという議論ばかりだ。本当に脱原発依存のやる気があるとは思えない。そこが不信感の原点だ。40年で廃炉だと言う一方で、美浜原発で寿命延長を認めているのもおかしい」

 「原子力などの科学技術は西欧思想の延長線上にあり、西洋思想の前には宗教がある。日本は和魂洋才といって、科学技術が築かれた土台の思想抜きで技術だけを導入してきた。あげくに4枚のプレート(岩板)が交差する列島の上に54基を集中立地しさらに13基つくるつもりだった。先進国の形だけをまねた中国の新幹線の事故を笑う資格はない」

 ――原発立地自治体は交付金などで潤ってきたのではないかとの指摘にはどう答えますか。

 「原子力マネーで食っているから何でもできるとみられるのは不本意だ。福島県双葉町の井戸川克隆町長がこう言っている。『事故で何もかも失って改めて、原発のない会津地域の自治体でも私たちの町と同じような施設があることを知った。原発に頼らなくてもよかったのだ』と。金がないならその範囲内でやればいいだけの話だ。電源交付金は長らく、箱物(公民館などの建物)にしか使えなかった。目立つ施設を建設させ原発があるとこんなにいいことがあると見せるためだとある官僚が言っていた。プルサーマル受け入れの時もトップランナー方式と言って、早く手を挙げれば交付金を増やした。ニンジンでウマを走らせるようなことはやめてほしいと言った。原子力政策には地域の尊厳を傷つける側面が強い」

 

 ■取材を終えて
 東海村に原子力施設の建設が決まった1950年代、村上村長は中学生だった。当時の村の雰囲気は「原子力の研究所が来ると思ったので抵抗がなかった」と話す。ノーベル物理学賞を受賞した「湯川秀樹さんみたいな科学者がやってきて20世紀の科学拠点になる」との期待があり、原発が来るとは思っていなかったそうだ。確かに日本原子力研究所(現在の日本原子力研究開発機構)はやってきたが、その後、原発も核燃料再処理工場などもついてきた。
 脱原発の代替で「21世紀の科学の国際拠点」をつくりたいという村長の話を聞くと、60年前の原点に戻ろうとしているのではないかと思ったりもする。ただ村長も自覚しているとおりそれは容易ではない。「大きく膨らんだ風船のような今の社会」(村上村長)を破裂させずに新しい形に変えていくには細心の注意が要る。

 

ロンドン五輪が開幕 204カ国・地域参加

2012-07-28 11:26:45 | 英国

 

2012年7月28日 10時33分

 【ロンドン=本社五輪取材団】ロンドン五輪は27日午後9時(日本時間28日午前5時)、当地の五輪スタジアムで開幕した。ロンドンでの開催は1908年、48年に続いて3回目で、同一都市では最多。204の国と地域から1万500人が参加し、17日間にわたって26競技302種目で熱戦を繰り広げる。

 開会式は「近代スポーツの母国」として、スポーツマンシップの継承や若者のスポーツ参加促進の意味を込め、テーマに「世代を超えたインスピレーション」を掲げた。

 日本選手は293人のうち、76人が開会式に参加。真っ赤なジャケットと真っ白なズボン姿で入場し、旗手を務めたレスリング女子55キロ級の吉田沙保里(ALSOK)は白い歯を輝かせ、満面の笑みで手を振った。

 式典前半のアトラクションは、馬や羊、アヒルなどが戯れる英国の田園風景から始まった。産業革命や戦争を経て現代に至る壮大な歴史ドラマが展開。演出には英国が世界に誇るファンタジー、コメディー、ロックなどの要素が随所に織り込まれた。

 エリザベス女王の登場前には、映画「007」の主人公とともに、女王がヘリコプターからパラシュートで降下する映像が披露され、喝采を浴びた。

 聖火の最終ランナーは英国の10代の選手7人。参加各国の名が刻まれた花びら形の銅器に次々と灯がともり、各国の炎がスタジアムの中央に集まって巨大な聖火台となった。世界的な歌手ポール・マッカートニーさんによるビートルズのヒット曲「ヘイ・ジュード」がフィナーレを飾った。

 28日は柔道や射撃などで日本勢のメダルが期待される。

(中日新聞)


ロンドン五輪が開幕 204カ国・地域参加

2012-07-28 11:26:45 | 英国

 

2012年7月28日 10時33分

 【ロンドン=本社五輪取材団】ロンドン五輪は27日午後9時(日本時間28日午前5時)、当地の五輪スタジアムで開幕した。ロンドンでの開催は1908年、48年に続いて3回目で、同一都市では最多。204の国と地域から1万500人が参加し、17日間にわたって26競技302種目で熱戦を繰り広げる。

 開会式は「近代スポーツの母国」として、スポーツマンシップの継承や若者のスポーツ参加促進の意味を込め、テーマに「世代を超えたインスピレーション」を掲げた。

 日本選手は293人のうち、76人が開会式に参加。真っ赤なジャケットと真っ白なズボン姿で入場し、旗手を務めたレスリング女子55キロ級の吉田沙保里(ALSOK)は白い歯を輝かせ、満面の笑みで手を振った。

 式典前半のアトラクションは、馬や羊、アヒルなどが戯れる英国の田園風景から始まった。産業革命や戦争を経て現代に至る壮大な歴史ドラマが展開。演出には英国が世界に誇るファンタジー、コメディー、ロックなどの要素が随所に織り込まれた。

 エリザベス女王の登場前には、映画「007」の主人公とともに、女王がヘリコプターからパラシュートで降下する映像が披露され、喝采を浴びた。

 聖火の最終ランナーは英国の10代の選手7人。参加各国の名が刻まれた花びら形の銅器に次々と灯がともり、各国の炎がスタジアムの中央に集まって巨大な聖火台となった。世界的な歌手ポール・マッカートニーさんによるビートルズのヒット曲「ヘイ・ジュード」がフィナーレを飾った。

 28日は柔道や射撃などで日本勢のメダルが期待される。

(中日新聞)