いい日旅立ち

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太平洋戦争で捕虜になった機長のその後

2019-06-18 20:46:02 | 文学


太平洋戦争の経験から得られる教訓を、後世に残したいという願いは、
もう遂げられなくなる寸前である。
戦争経験者が、次々と鬼籍に入るからである。

戦争末期、米軍の捕虜になり、のち、生還した飛行機長がいる。
海軍兵学校の卒業生、海軍少尉豊田穣である。

彼は、南方で、敵軍襲撃のために
出撃したが、気象状況のために1943年4月7日、
米軍機に撃ち落されてしまった。
幸い、けがはなく、洋上を漂流する。
自決するかどうか、迷ったが、生き続ける道を選んだ。
周りをうろつくサメの群れに脅かされつつ、
1週間ののち、米軍の船に救助された。

彼は、部下の一人とともに、米軍捕虜としてアメリカに抑留される。

飛行機を操縦していた時に何が起こったかは、次のように書かれている。

……

空母・飛鷹の急降下爆撃隊員として、この攻撃に参加した。
目指すガダルカナル上空の手前で、高度1万メートルの積乱雲に遭遇して、
行き悩んだ。急降下爆撃機の上昇限度は8千メートルで、
そのため、
攻撃隊の速度は鈍った。
先頭から70機めくらいにいた私の機も、
速力を緩めざるを得なかった。
眼下に敵艦隊は見えず、海の波が見えないほどの高度である。
わたしが焦っていた時、
「敵機襲来!」
という偵察員の声が響いた。
反射的に上空を見ると、敵戦闘機がこちらに向かってくる。
急降下してくる敵戦闘機をかわして、ほっとしたとき、
私の機のエンジンが、下から襲ってきた敵機の銃弾にやられたのである。
操縦席から1メートル半ほど前方に、火の玉が噴出し、エンジンは停止して、
プロペラは空回りを始め、機は高度を下げていった。
滑空状態に入ったのである。

……

その後、前述のように、洋上に落下し、
1週間の漂流生活に入る。
米軍に助けられ、捕虜となったのは、
その後である。

捕虜としての生活、復員後の生活も
明らかにされている。
こののち、少しずつその内容を述べたい。











































































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