小安中学校第10期生 Version 2

自然豊かな栗駒山麓にたたずむ学び舎から巣立った、我等40人の恋と涙と心の交流を綴るサイトである。

橋のおかしな人生!その10

2011年07月23日 | ドキュメント「青春感動巨編」

 

 【丁稚奉公篇】 

大工職人になるため、秋田市のU島建築に弟子入りしました。先輩達はあまり

賢くなかった、早い話がバカでした。当時17歳ですまだ身長が160センチ

しかなかった。その先輩達3人は170センチ以上です。私がいじめの対象でした。

影の声:成長期が人より遅れているのですか?

 

【丁稚奉公いじめ篇】

だが、18歳になったら身長が10センチのびました。先輩達はバカですから

私が本気になったらかないません。3人に喧嘩を売って追い出しました。

そのなかで1人は戻ってきましたが、2人はどこへ行ったかいまだに分かりません。

影の声:これは、どっちがいじめたのかわからない?

 

【丁稚奉公師匠病気篇】

バカな先輩がいなければ私が一番です。なにがってなんでもいいんです。

その後私の師匠が48歳で当たってしまいました、当たるといっても宝くじで

はありません。今はやりの脳梗塞です、右半身が完全に麻痺しました。

師匠は右半身不自由なまま16年後に亡くなりました。

丁稚奉公4年で実家に帰ってきました、21歳になっていました。

 

影の声:これからですね、酒びたりの生活は?

 

放浪篇、仕事篇、恋愛篇、結婚篇、子育篇と続く予定でしたが、

福島出張中のため今回を持って、ちょっとだけお休みいたします。

そのうち再開するかも知れません。乞うご期待!

 

ここで一句 「彼女とのフラッシュバックは突然に」 青春だぁ

 


橋のおかしな人生!その9

2011年07月21日 | ドキュメント「青春感動巨編」

「中学校青い性篇」 テント夜明け編

 

今どきの中学生なら、女子の好奇心によって

裸にされるかもしれない。

 

変な想像しながら、まんじりとした時間をすごす。

 

地球の奴は何も考えず、

ゴロリと寝返りしたら朝がきた。

 

私は横向きで外側を向いて寝ました。なぜって決まっているじゃありませんか。

 

朝テントの中でテントを張ってました”

 

なんて噂されたら卒業まで、いや卒業して同級会のたびに、話題にされたら大変です。

 その後はなんといっても中学生です、想像してもたいしたことはありません。

と言うわけで大湯温泉に朝がきた。なんてたって子供です。

今の私からは想像できないって、そうですか? 今でも純情ですよ。

 

「朝立ちも小便までの命かな」 

こんな句は詠んでなかった時代です。

また夏が来ました、青い良き思い出です。

 

みなさんもこんな経験ありませんか。

 

あるわけがないだろうって、ごもっともです。

最近は、中学生がネットで変な画像を平気で見ています。

中年の男性と援助交際や、妊娠してしまった話などあります。

考えさせられる今日この頃です。

 


橋のおかしな人生!その8

2011年07月19日 | ドキュメント「青春感動巨編」

 

「中学校青い性篇」 テント夜間編(七夕の夜)

 

お待たせしました。橋のおかしな人生! その7からのつづきです。

 

いい加減にして早く始めろと怒られそうです、そうあわてないでください。

「あわてるこじきはもらいがすくない」 (こじきと一緒にするな←影の声)

 

お湯が噴出している所でキャンプです。

 

さて、テントには6人泊まれます。

だが私のテントに、どういう訳か女子4人に私ともう1人男子です。 

私ともう一人の男子は、発育途中の男なのかは置いといて女子の話です。

 

中学3年の女子というと、すっかり大人の女性になっている人もいます。

セーラー服を脱いだら、当時の私にはお姉さんに見えました。

 

女子はスリップにブルマーでした。

また、下シャツにブルマーの子もいました。

 

私にはふたつ上に姉がいましたが、姉と同級生は違います。

気になって気になって眠ることはできません。

下からは地熱です、熱くて寝苦しいです、熱帯夜です。

薄目で横を見るとそれはそれは・・・・・・、

素肌に肩ひもの女の子目に入ってきます。もう大変です。(何が?)

 

「ビッグな男になったらどうしよう?」

 

12時過ぎても眠れる状態ではありません、

外のほうが涼しいです。

 

テントの外に出て、星空を見上げロマンチックな夜に感謝します。

今日は、織姫と彦星が一年に1回だけ逢うことを許された日です。

星空を見て、精神的に落ち着いたのか、テンションが上がったのかよくわかりません。

 

しかたなく、テントの中に入ります。

 

今度は女子のほうが薄目を開けて私を下から覗いています。

ブリーフじゃないので下から見られています。(通称さるまたと言う)

 

「こら、下から覗くのは反則だ」 と言ったら、

女子連中大笑いです。

 

山奥村の中学生は純情そのものでした。

 橋のおかしな人生!その9に続く。

 


橋のおかしな人生!その7

2011年07月17日 | ドキュメント「青春感動巨編」

「中学校青い性篇」 キャンプ、テント編

 

さて、テントには6人泊まれます。

 

だが私のテントに、どういう訳か女子4人に私ともう1人男子です。

 

これは今でも謎です。男女混合のテントになったのは私達だけでした。

 

たぶん、当時私も身長が153センチしかなく童顔だったためかも知れません。

 

女子も安心して承諾したと思います。

 

同級生でひげ面でオヤジみたいな奴もいた、むさくるしい奴らのテントもあった。

 

なんだかんだで、夜も更けてきました。

 

 

今思えばなぜパンツとシャツだったか謎です。たぶん先生が持ってくるものに、

 

パジャマと書き込むのを忘れたからだと思います。

 

いや、書いてあってもパジャマはその当時我々にはなかった。

 

テントの中は暑いです、真夏日・熱帯夜の状態です。

 

 

熱いはずですあっちこっちでお湯が噴出している所です。

 

 

ゴザや毛布を敷いたくらいでは地熱を防ぎようがない。

 

テントの中は蒸し風呂状態です。 男子は、下シャツにパンツです。

 

 

みなさん気になる女子はどうかって? 忘れました。

 

 

それでは、長くなったので次回ちょっと恥ずかしい「テント夜間篇」に続く。

 

 

   さいなら

 

 

   さいなら

 

 

   さいなら。

 

 

 いててて、 パンチがいっぱい飛んできた。

 

 

誰がなんと言っても“橋のおかしな人生!その8”に続く!

 


橋のおかしな人生!その6

2011年07月15日 | ドキュメント「青春感動巨編」

「中学校青い性篇」 キャンプ、日中編

  

なぜ今頃中学校特別篇かと言うと、ただ忘れただけで特別意味はない。

 

中学三年の夏休みです、なぜか最後の夏なので「思い出つくり」と言ってキャンプを

 

することにしました。 1学級40人です、キャンプは自由参加でした、たしか24人位

 

参加しました。場所は大湯温泉の川原です。我が中学校にはテントがありません、

 

隣の皆瀬中学校から借りてきたのでした。引率は担任の先生1人です。

 

 

学校から、このときどう行ったのか良く思い出せません。たぶんテントを背負って

 

1時間半か2時間近く歩いたような気がします。大湯温泉の川原の周辺は温泉

 

そのものです、あちこちで源泉が噴出しています。

 

 

この源泉に生卵を入れておけばまもなくゆで卵になります。

  

このボコボコ噴出しているのを見て、「地球の屁」 と呼んでいました。

  

ゆで卵の殻を破るとそんな香りがする、それが動かぬ証拠です。

  

 

昼食食べて、川原で水泳ぎではありません、お湯泳ぎです。

 

川全体が温泉です。

  

夏休みの宿題なんかする人はいません、だいいち宿題を持ってきた人はいない。

 

遊びに来たのだから先生の言うことなんか聞く訳ないだろう。

 

教室から離れたらこっちのものだ、自然に飛び出せば先生の注意は無視です。 

 

ビッキの面に小便”状態です(蛙の顔に小便)

 

岩だろうが川の流れだろうが、遊びの天才みたいな奴等だ水を得た魚状態です。

 

思いっきり遊んで、自分達で夕食を作り思いっきり食った。

 

自然のなかで食べることはなんとも言えないご馳走です。

 

さて、夕食後はキャンプファイヤーです。

    燃える火を囲み歌った歌が懐かしい。

 

「音痴でもみんなで歌えば恥かかず」 (川柳を詠んだかは忘れた)

 

なんて言いながらそろそろおやすみの時間です。 

 

 

誰がなんと言っても“橋のおかしな人生!その7”に続く!

 


橋のおかしな人生!その5

2011年07月13日 | ドキュメント「青春感動巨編」

 

【中学校篇】

 

中学校は優秀な成績で卒業しました、先生方は私を理解できませんでした。

 

卒業から10年後廃校になった、木造校舎が懐かしいです。

 

影の声:自分で優秀と普通言うか? 変人だから理解に苦しんだと思う。

 

中学校の思い出というとやはり修学旅行だろう。

 

皆瀬村には当時中学校が三校ありました。三校合同の修学旅行です。

 

行き先は、日光、東京、江の島です。大型バス4台で4泊5日の旅です。

 

たしか5月だったと思います、道路は皆瀬村は舗装されておりません。

 

私の学校は最後の4台目でした。前のバスが砂煙をあげて走るので窓は

 

閉めたままです。バスの中は暑かったです。

 

バスガイドの途中の名所旧跡の案内に驚いたものです。

 

よくすらすらと出てくる、真似はできないとすごく感心したものだった。

 

だけど道中は長いので、トイレタイムのとき一生懸命“虎の巻”を見て

 

暗記していました。

 

私は子供の頃からいじわるな性格だったのかと、今気がつきました。

 

 

【職業訓練校篇】

 

夢多き青春時代です、県南でも有名な湯沢高校に進学?しましたが、

 

入学式に参加したがその日だけで退学しました。

 

理由は簡単です、「勉強が嫌い」だった。

 

代わりに選んだのが1年だけの職業訓練校です、家計を助けるためです。

 

この訓練校は大変な所でした、痴漢、万引き、喧嘩など日常茶飯事です。

 

たちが悪いのは弱いものを大勢でいじめることです。

 

「さわらね神に祟りなし」の格言を理解できたのはこの頃です。

 

その訓練校がその後、大曲職業訓練校に統合になりました。

 

分校、本校、中学校、職業訓練校が統廃合で消えてしまった。

 

私の学んだ?母校はすべてなくなった。まっ、しょうがない時代の流れだ。

 

影の声:まぐれで入学試験が通ったんですか?

 

だが突然に、長編問題作(事実です)「中学校青い性篇」につづく。

 

次回は、中三の女子生徒4人と男子生徒2人(私を含む)がひとつ屋根の下で

 

一夜をすごす。

 

衝撃の感動篇はアサッテへつづく。

 


橋のおかしな人生!その4

2011年07月12日 | ドキュメント「青春感動巨編」

友達が「うちのガンバサミ(ネズミ捕り)は凄いぞ」というので、
      「わ~、すごいなぁ」と感心したのは遠い昔だった。
***ただ、そこにネズミが多くいただけだった、タカハシです***
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中学校編に行く前に、いきなり幼少時代の思い出ですす。

秋田県南部の山奥です。

裕福ではなかったしバナナなんか見たことがなかった。

第一に魚屋はあったらしいが、八百屋はなかった。(自給自足です)

 


私はバナナを始めて食べたのは小学校6年のときです。

私の両親はバナナは外国の食べ物だ、外国人ならいいがお前は日本人だから

バナナは食べなくていいのだ。と変な理由をつけて食べさせてもらえなかった。

そうか、そうなんだと妙に納得させられたのを憶えています。

 


だから、一度でいいからバナナを食べてみたかった。

そして、そのバナナの皮で滑って転ぶのを試してみたかった。

当時、手塚治虫の
「鉄腕アトム」
のマンガの中の、

バナナの皮で転ぶ
ヒゲオヤジ”
に憧れていました。

バナナの皮とは、どれくらい滑るのだろうと研究熱心な子供でした。

そんなけなげな子供が、バナナを初めて食べました。

食べた感想は、モサモサして決して美味いものではなかった。

 


りんご”のほうがはるかに美味かった。

台湾産のバナナが秋田の山奥まで運ばれてくるのに、

日数がかかりすぎ鮮度が落ちたのだと思います。

 


あっ、

その前に、みなさんはバナナの皮ですべって、

転んだ人を見たことがありますか?

いままで生きてきて、まだ見たことがありません。

第一バナナの皮が道路に落ちていません。

りんごの皮なら見たことがあります。

さて、バナナの味は置いといて実験開始です。

本当に滑って転ぶか試してみました。

バナナの皮を道端に置いて歩きながら踏んでみました。

 


あれ~っ、

 

 

なんともないよ。

おかしい?

マンガでは両足が上を向く位跳ね上がるのに原因があるのだろう。

歩くのには何か物足りない、そうだスピードがないのだ。

なんと、科学的な子供だったろう。

じゃ、走ってきて踏んでみようと言うことになりました。

 

 


あれ~っ、

やっぱりすべらない。

そうだ、曲がり角にすればいいのだ。

なんと頭の良い子供だったろう。

気を取り直して走って行って、バナナの前で急に右に方向を変えてみることにしまた。


よ~しゃ、えぐぞ~。(訛ってるぞオイ)

やっぱり転ぶまでは行きませんでした、足がズルっと横に流れるだけでした。

原因は何だと思いますか?

賞味期限が切れた、バナナの皮が干からびていたのでした。

ちゃうちゃう(何故か大阪弁)本当はこうです。

道路が砂利道だった為に、バナナの皮に砂や小石が混じって滑らなかったのです。



気分が乗ってきたので一曲歌います。(だいたひかる調)

い~な~か~のバスは、オンボロ車

でこぼこ道を、ガタゴト走るう~・・・(やめようバスガイドも歌わないこんな歌)


ここで一句 「幼少から 研究熱心 変わらない」 現在もそのままです。

追記 バナナを食べている人を見ると、ゴリラに見えることがあります。
     たぶん、ガッツ石松とゴリ(ガレッジセール)を想象するからだと思います。


    この記事を投稿したことを、深く深く反省しております。


橋のおかしな人生!その3

2011年07月11日 | ドキュメント「青春感動巨編」

 

【小学校統合篇】 

小学校4年のとき、分校から本校に統合なった。

児童の少子化は、山奥から始まったといっても過言ではない。

本校といっても、皆瀬村立○○小・中学校です。

小学校1年から中学校三年までの9学年です。

我が家でも兄弟4人弁当もって学校に行きました。

だから6年生になっても高学年という責任感なんかありません。

卒業という感じもしません、そのまま中学生になるだけです。

中学生は他校からみるとものすごく幼稚です。

転校してきた先生方は間違いなくそう言います。

 

委員長の「真剣白刃取り」? ← 本校に統合したときの話です。

 

話がそれましたが、元に戻します。

複式学級から普通の授業に変わった。

新4年生です、私は3年のときに4年の予習していたので授業は簡単だった。

予習しなくても、私は元々天才なので先生のほうがびっくりしたみたいです。

 

小学校を優秀な成績で素通りして、中学校篇に続く

 

 

追記 サトー君へ、カテゴリーをもう4件追加できます。

 


橋のおかしな人生!その2

2011年07月09日 | ドキュメント「青春感動巨編」

 

【複式学級篇】

 

私が入学したのは、小学校は複式学級の分校でした。

小学4年のとき分校が無くなり、その年から本校に統合しました。

 

なぜ、私が頭がよいかそれは「複式学級」だったからです。

授業風景を想像して見てください。1,2年生同じ教室です。

1年生が授業を受けてるとき2年性は自習です、2年生が授業のときは1年せいは自習です。

つまり、私は1年の授業を受けて、次の自習時間に2年生の勉強をするのです。

翌年は2年生です、そのときは2年生の授業は二度受けることになります。

そして自習の時間に1年生の復習になります。これで完璧に予習復習ができます。

このシステムをいま仕事に生かしています。

 

じつは、今だから言えることがあります。1年のときの担任の“おなご先生”に

思いっきりたたかれました。窓際まで吹っ飛ぶくらいに平手打ちを頂きました。

“手打ちそば”なら美味しいだろうが“平手打ち”は苦いし痛い味がしました。

なぜ叩かれたって、それが思い出せない、私はなにも悪いことはしていないし、

 

が、たぶんたぶんですよ。

 

“おなご先生”は夫婦喧嘩の翌日だったと思います。

殴られるようなことはしていない。ただ残念なことに、その

先生が私のお袋と友人なので何も言えなかった。

 私が幼少の頃の話  ← クリック

前回投稿していました。本人が忘れるくらいだから、訪問者も忘れていると思います。

影の声:場所はどこだ?いつの時代だ?学校の先生と生徒数は?

 


橋のおかしな人生!その1

2011年07月07日 | ドキュメント「青春感動巨編」

プロローグ】

さてこの辺でみなさん気になる、橋について述べてみたいと思います。

真夜中に、素敵なジョークと知的なポエムでみなさんのハートをくすぐる、

捻くれ物の橋の過去に迫ってみたいと思います。

 

なぜこんなにもおもしろいのか、過去に何かあったのか疑問を探ってみます。

出生地は湯沢市皆瀬の山の中です。交通の便は悪くデコボコ道をおんぼろ

バスが、夏は10往復冬は午前2往復午後2往復しか走っていませんでした。

 

橋の「青春感動巨編」の始まりです。涙なくして笑えない青春ラプソディです。

 

【誕生兄弟篇】

兄弟は上に姉二人下に弟妹の5人です。両親は大姉を特別可愛がっていたと

聞きました。田舎でしたので、医者にかかるのは滅多にありません。

私の大姉は5歳の冬に肺炎で亡くなっています。真冬の夜に叔父さんが負ぶって

医者に行くに2,3時間かかる山の中です。叔父さんから聞いた話ですが、

負ぶって1時間くらいで背中で冷たくなっていくのが分かったそうです。

私が生まれる3年前の話です。

 

【子守篇】

すぐ上の姉はの五兵衛という家のバッパ(おばあさん)に育てられました。

小学校4年くらいまでそこの家から学校に通っていました。そして私は隣の

おねえちゃんに子守をしてもらった、やはり小学校まで子守をしていただいた。

特別かわいいと言うことでなないが、当時私の家には祖父祖母がいなかった、

また裕福で名無かったために両親は働かなければならなかった。

 

【大自然篇】

保育所・幼稚園、見たことも聞いたこともない、ある訳ない皆瀬の山奥だ。

幼少時代は大自然の中でのびのび暮らしていた。今思えばいじめや恐喝など

なく子供が育つには最高の環境だったかも知れない。

  

本当はこの辺は記憶にないのである、書いてもいいが大して面白くない。

波乱万丈の痛快。青春・感動の物語は次回に続く。