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高枝きりばさみ

2019年09月23日 | essay

 ついに高枝きりばさみを買った。こういう日が来るとは思ってもみなかった。

 高枝きりばさみと言えば、私が学生の頃、テレビショッピングで盛んに取り上げられた商品である。テレビショッピングの代名詞的存在であり、その非日常的な形状と、そこまで必要かと疑わせるに十分な特殊用途のせいで、どちらかというとコミカルな印象を与える存在であった。ああいうのを騙されて買う大人がいるんだろうな、と、学生で庭木の剪定などしたこともない私は冷笑したものだ。「高枝きりばさみ」という名前からして、用途をそのまま呼称にしただけであり、長ったらしくて滑稽だ。せめて「高枝ばさみ」で、「きり」は要らないのではないか。

 その高枝きりばさみを、買ってしまったのだ。ためらうことは随分ためらった。所有することで近隣から馬鹿にされないか、とまで心配した。しかし、我が家の庭に前の所有者から残る梅の木が、イソギンチャクの化け物のように枝を伸ばしている。おまけに隣に植えたシデコブシも手が届かない高さまで繁茂してしまった。ここは世紀のアイデア商品に頼るしかなくなったのだ。

 意を決して購入すると、今度は使ってみたくてしょうがない。子どものおもちゃと同じ理屈である。さっそく使用してみた。手元の握りを握ると、三メートル先のハサミがカチャカチャ動く仕組みである。ハサミの隣にはなぜかのこぎりまで付いている。

 梅を切ると、爽快に切れる。もちろんシデコブシもバサバサ切れる。何と便利な道具であることか! これは、その名の仰々しさに相応しい、大変優れた発明品であったのだ。馬鹿にしていた自分を恥じた。謙虚な気持ちでのこぎりまで使ってみたが、さすがに三メートル先をギコギコするのは難しかった。

 しばらくは重宝するであろう。問題は、一度高枝をすべて切り落としてしまうと、次の出番まで相当時間がかかることである。

 値段はそれなりである。だまされたと思うほど高くはない。確か学生時代のテレビショッピングでは、一本一万円で、もう一本「おまけにお付け」していた気がする。もう一本はいらないから半額にしろ、と当時の自分はテレビに向かってつぶやいたものだが、実際、今ならそれくらいの値段で売っている。学生時代の自分の指摘は妥当だったと言える。

 目下のところ、どこに収納するか、が悩みの種である。

 

 

 

 

 

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