た・たむ!

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         空のあお葉を牛が食む食む

徘徊の味

2008年09月28日 | essay
 飲む酒が身体を温める季節になった。

 寂れた飲食店を見つけて入るという癖が私にはある。たぶん悪い癖である。
 もちろん繁盛する店も好きであるし、もともとそういう店を求めて夜の街を彷徨うのだが、ふと埃を被った赤提灯や立て付けの悪い引き戸を見つけると、まずはその外観にまとわりつく拭いようのない静けさにしばし打ちのめされる。ここはやっているんだろうかやっていないんだろうか、やっているとすればどうしてこんな状態でやっていけてるんだろうと要らない心配をしてしまう。うーん、気になるが気になったところで仕方ない、早く立ち去らなければと思いながら、意に反して手は戸に掛かっているのである。
 そういう店は大抵、中に入るとまず足が止まる。テーブルに読みかけの新聞と吸殻で山盛りになった灰皿が載っていたり、猫がカウンターから飛び降りたり、客席で店主が寝ていたり、店主がそもそも出てこなかったりする。そのときすでに後悔は始まっているのであり、すぐさま店を飛び出せばいいのだが、何か不思議な魔力に引き寄せられるように、私はその場に立ち尽くすのである。


 先日の韓国料理屋は店員が寝ているパターンであった。五十を超えたおばさんだろうか、顔に掛かった新聞をはねのけてすぐに飛び起きたが、日本語がまったく通じない。どうも留守番を任された料理専門の韓国人らしい。にこにこしながらメニューを差し出してくれるので、韓国酒と、二皿ほど焼肉の絵を指差して注文する。何を話しかけてもにこにこしながら首を振る。やむを得ず黙ったまま焼肉を突付く。当然客は私しかいない。どうやってこのおばさんは日本で生活しているのだろうと気になったが、それよりも焼肉が気になったので(何しろ、何日ぶりに解凍するのだろうかと思わせるような音が台所から聞こえた)、必然なかなか箸が進まない。するとおばさんが目の前に座ってきた。にこにこしながら火箸で焼肉を焼いてくれる。焼けたら皿に盛ってくれる。それを私が食べる。そんな不思議な作業が、閑散とした店内の一隅で、儀式のような静けさをもって繰り返された。


☆。・ ° 。



 一ヶ月ほど前は、赤提灯の灯る廃屋のような一軒家の暖簾をくぐった。予期に反して、女の客が一人カウンターに座っている。もう若いとは言えない歳であろうが、なかなかの美人である。しかし私と合わせた視線が定まっていない。泥酔状態である。
 「そ、外、外雨降ってる?」
 「いや、止んでますよ」
 「変な天気だねえ」
 「そうですねえ」
 「へへへ、酔っ払っちゃったよ」
 私は笑顔を作った。「いいんじゃないですか」
 「あーあー、日本のどこかにー、私をー待ってるー人がいるー、なんてね。へへへ」
 彼女は鼻歌を歌うとカウンターの上に突っ伏した。
 服装を見て、水商売の人なのだろう、と判断した。初老のママが彼女を見つめながら、黙って煙草の煙を吐き出す。私にはいろいろ惣菜を出してくれた。
 会計を済ませて店を出たら、閉じた扉越しに、「もう来ないだろうね」「来ないねえ」という会話が聞こえてきた。


 酔いの回った身体でふらふらと夜の街を歩きながら思う。酒はそれを飲む人間の数だけ種類がある。酒に魅せられるのは、全くそのためである、と。
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