た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
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病院

2012年10月17日 | essay
 長いこと咳を患っていて、観念して近所の病院に行く。
 家人はもっと評判の高い病院に行けとしきりに勧めたが、私は散髪屋でも居酒屋でも近所から攻めるのが好きな性分である。なるほどその病院は、近くにあるというだけで、いつ通っても不思議なくらい人けが感じられない。門構えがやたら立派で、逆に閑散とした雰囲気を醸し出している。ひと時代前に廃業した旅館のような趣がある。人が出入りするのをついぞ見たことが無い。だからこそ興味をくすぐるのである。まさか串刺しにして焼かれたりするわけではあるまい。私は意を決して、マスクをかけたまま門をくぐった。
 中に入れば、思ったよりもちゃんとした病院であった。すでに待っている患者もいる。あとから来る患者もいる。いい加減な観察で判断してはいけないのである。待合室に「さざえさん」と「いじわるばあさん」が揃っているのが好感を誘った。いや「さざえさん」はいいのだが、「いじわるばあさん」もここの医者の趣味なのだろうか。「いじわるばあさん」が好きな医者、というのは少しく胸騒ぎを覚えるが、さすがに仕事に趣味を持ち込んだりはしないであろう。
 受付で、体温測定にレーザーガンのようなものをおでこに当てられた。最新式である。なかなか侮れない。大病院のような待ち時間もなく、「いじわるばあさん」を手にとって読み始めたらすぐに名前を呼ばれた。
 血液検査をし、X線を撮る。X線室まであるのには驚いた。まったく、我々は侮っていたのである。帰ったら家人によくよく説教しなければいけない。特に異常はない旨を教えられて、八種類もの薬を出された。
 八種類は多いな、と思ったが、それぞれの薬の役割、というのも詳しく教えられて、それなりの安心感を覚える。食前に、これ、食後にこれ、寝る前にこれ、朝起きたらこれ。まあこれだけ飲んでいたら何かしらが上手く効いて咳の虫も退散するであろう。この安心感が現代なのだ、と、普段薬を飲まない私はしみじみと感じた。充実した機能に対する安心感。ただし本質は、私がもっと健康的な日常生活を送ればいいというように、もっと違う所にあるのかも知れない。
 それでも何だか仕事をたくさん抱えた秘書のような使命感を帯びて、朝起きたら一錠、朝食前に一包、と、けなげに指示を守って飲んでいる。私の知人に大の薬嫌いの人間がいるが、彼が聞いたら憤慨しそうな薬漬けの生活である。
 それでいいのである。正しくもおかしくも、これが現代なのだ。
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