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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
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小編:  束縛の人

2015年10月23日 | 短編


 その人は、ぼくにとって特別な人だった。
 さらりとした黒髪がいつもえくぼにかかっていた。しなやかに伸びた四肢でぼくをまるごと包みこみ、しかもちっともぼくを束縛しなかった。
 まるで、天女の羽衣を縫ってできた柔らかいクッションのような、そんな人だった。
 大学一年の夏から足かけ六年間にわたる交際中、ぼくは一度だけ浮気をした。ゼミの後輩の女の子で、ぎらぎらと挑発的な目をした子だった。隠さなくてはいけないのに、なんだか自慢したい気持ちになり、すぐわかるような嘘をついた。
 その人はぼくの背中をたたいて泣きくずれた。
 一週間口をきいてくれなかった。彼女もぼくも、少しだけやつれた。ある晩おそく、友だちと飲んで酔いつぶれてから彼女のアパートに押しかけ、床に倒れこんだぼくを、彼女はやさしく抱きしめてくれた。
 それからぼくらはまた、恋人同士としてすごし始めた。 
 やがて二人とも大学を卒業した。彼女は保育士になり、ぼくはフリーターとして彼女のアパートに転がりこんだ。何となく同棲生活が始まった。まともな就職先もさがさずにふらふらしているぼくを彼女がなじり、それがもとでけんかになった。ぼくがそんなに不満なら別れると言い出し、彼女のアパートを飛び出した。三日間、友だちの家を渡り歩いてから、彼女のアパートにもどった。彼女はさびしい笑顔でぼくを迎え入れてくれた。
 いつも、ぼくが彼女を困らせるたび、彼女はさびしい笑顔でゆるしてくれた。
 ああ、ぼくの心には意地悪い悪魔が棲みついていたのだ。彼女のうれしいときの笑顔より、さびしいときの笑顔を、どこかぼくは見たい気がした。
 ぼくはあの人をボロボロにした。柔らかいクッションをそうするように。
 ぼくはことあるごとにあの人を責めた。「独りよがりだ」と言っては責め、「心が弱い」と言っては責めた。彼女を責め続けることで、ぼくは自分が責められることを未然に防いだ。
 それでもあの人はあたたかくぼくを包み続け、
 十年前の春、ぼくを捨てた。
 
 あれから十年。
 就職先も見つけ、サラリーマンとなり、ぼくは大都会でひとり、なんとか暮らしている。収入は決して多くはないけれど、週に一度は昔の友だちと飲みにいっている。趣味でバンド演奏もふた月に一度続けている。去年の十一月に妹が結婚した。姪の写真も見せてもらった。
 ぼくは、あの人の残影に苦しめられつづけている。
 これはかんぺきな復讐だ。もちろん、ぼくがそう思っているだけだ。
 寝ても覚めても彼女のことが頭から離れない。あれからいくつかの出会いがあったけど、すべて思いきれずにふいにしてきた。
 枯葉のしきつめられた公園のベンチに座って頭を抱えこみ、声を上げて泣いたこともあった。
 夜ふけになるとあの人のアパートのところまで電車を乗りついで行き、窓明かりを見上げながら何時間でもたたずんだ。
 あの人は美しい人だったということを、本当に美しい人だったということを、別れてからようやく理解した。自分の肉体をバラバラに引きちぎりたくなるほどに理解した。
 すべてぼくが悪かった。
 それをあの人に伝えたくても、もうそのすべもない。 
 あれから十年。
 いったいいつになったら、ぼくはゆるしてもらえるのだろうか。
 いつまで待てば、
 思い出という
 この束縛から解き放たれるのだろうか。
 

 (壁一枚隔てた隣の部屋で今、子どもが泣いている。ずっと泣いている。よく泣く子だ。子どもは失うことを恐れて泣く。大人は、失ったものは取りもどせないと知って泣く。そんなことも、この歳になって初めてわかった。まったく、この歳になって初めて、そんなことがわかったのだ。)


 《終わり》

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