た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

讐い(むくい)

2019年07月12日 | 怪談

  雨の中、バス停で佇んでいたら、俺が待っているのはバスではないことに気付いた。

 誰かを待っていたのだ。水飛沫にズボンの裾を濡らしながら、ずっと、俺は誰かを待っていたのだ。だが誰を、何のためにここで待っているのかは、どうしても思い出せなかった。

 背後でガマガエルがゲ、ゲ、と鳴いた。

 雨は時刻を誤解させるほど激しく降った。日はもう沈んだかもしれない。それともまだ沈んでないかも知れない。バス停に立っているのはまったく俺だけであった。山あいの崖の多い田舎道である。こんな辺鄙なところにバス停があること自体が不思議でしょうがない。いったい日に何人が利用するのだろうと思った。だが自分は雨の降りしきる中、傘を差して、何かが来るのを目を凝らし、じっと待った。

 そのうち俺は、自分が過去の人生においてずいぶんひどいことをしてきたような気分に襲われた。吐き気を催すように、急にそんな気持ちになった。なぜそう感じたのかはわからない。だいたい具体的に何をしたのか全然思い浮かばない。だが、何にせよ相当ひどいことをしたに違いない。そうでなければ、こんな土砂降りの中、待ちぼうけを喰わされている必要もないではないか────

 ────いや、馬鹿馬鹿しい。俺は冷笑を浮かべた。心に余裕を持たせるためあえて笑ってみたのだ。もっとも、疲れと冷たい雨のせいで、俺の浮かべた笑みは不自然に歪んだに違いないが。どうも自分は冷静さを失いつつあるようだ。それも致し方ない! 靴なんてもう海に浸かったようにぐちょぐちょだし、ズボンときたら脚にべったりとひっついて、不快なこと極まりない。何より苛々させられるのは、さっきから何のためにここでこうして待っているのか、どうにも思い出せないことだ。こんな風にいつまでも来るかわからないものを待っていたら、それこそ自分の正気が────ええい、帰ってやれ。どこへ? ここでないどこかへ!

 ガマガエルがすぐ背後でゲ、ゲ、ゲ、と鳴いた。

 俺が横を向いた瞬間、雨音や蛙の鳴き声に混じって、遠くから車の音が聞こえてきた。おそらく大きな車体である。あれはバスか。バスが、来るのか。忽然と、ずっと昔、俺はこの場所でバスを待っていたことを思い出した。あれは確か、小学校の低学年の頃だった。俺は隣村に独りで探検に出かけた。夕方になり、急に怖くなって、帰るためにバスに乗ろうとして────でもあの時は、雨は降ってなかったはずだ。それにあの日、結局バスは来なかった。長い田舎道を独りでとぼとぼ帰った───だが今は、ほら、バスのはっきりと近づく音がする。来る・・・・・・左手に百メートルくらい離れた曲がり角から、バスが現れた。相当古い型の錆びついたバスである。水溜りのあちこちに出来た峠道を、飛沫を上げ、ガタゴトと振れながらこちらに近づいてくる。目を凝らすと、意外なことに、満席らしい。つり革につかまっている人影も見える。こちらに近づくにつれ、乗客の表情まで見えてきた。どの座席の顔も、一様に青白く、苦痛に歪んでいる。車酔い? 小さな子供も窓にへばりつくようにいる。ねじれた腕を差し上げている老人もいる。それにしても酷い表情ばかりである。なぜそんな思いまでして、バスに揺られて・・・・・・バスは俺の目の前で、ガタン、と停車した。

 運転席の窓が開き、運転手が顔をこちらに向けた。額と頬骨の張った、ひどく仏頂面の男だった。

 「乗っていくのかね」

 雨でも掻き消されない野太い声である。

 俺はうろたえた。一刻も早くここを立ち去りたかったが、正直、このバスには乗り込みたくなかった。だいたいこれだけ人が乗っていて、自分の入る余地などあるのだろうか。そうだ、ひょっとして、これはどこか焼き場にでも向かう貸し切りバスなんじゃないか。だからみんな、こんなに悲しげな表情をしているのだ。その全員が、今や珍しいものでも見るように俺を見ている。それは決して気持ちの良い風景ではなかった。

 「この人たちは・・・」

 俺は、このバスの行き先を聞くつもりで口を開いた。

 運転手はほとんど憤慨せんばかりに俺の言葉を遮った。

 「この人たちかい、この人たちは、お前さんが殺してきた人たちだよ」

 俺は傘を落とした。大粒の雨が俺を激しく打ち据えた。今や、はっきりと思い出した。俺は、**社の開発事業部で働いていたのだ。俺たちが作り出した化学薬品を経口摂取することで、何人もの人々の寿命が縮まったのだ。すぐには死なない。すぐには死なないが、その効果は長期にわたり身体を蝕み、様々な健康被害をもたらす。その因果関係が内部調査で明るみになっても、会社の利益保護のため、俺たちは事実を完全に隠蔽し続けたのだ。警察もマスコミも、ついに気づかなかった、それが真実なのだ。しかし開発グループの主任として、俺は自責の念に苛まれた。体調を崩し、会社を辞め、自殺しようと思い立ってこの村を訪れたのだ。だが────

 雨か冷や汗かわからないものを全身に感じながら、俺は考えを巡らせた。もし、もしそのことだとしたら、犠牲者の数は、こんなちっぽけなバス一台に入り切る人数じゃない・・・・・・・

 俺の耳に、また別のエンジン音が届いた。遠くの曲がり角から同じ型のバスが現れた。それに続いて、また別のバスが、次々と。

 膝の関節が勝手に踊りだし、俺の体が崩れ落ちた。

 

 

(おわり)

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 入梅 | トップ | 文月一景 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

怪談」カテゴリの最新記事