新年早々、尾籠(びろう)な話で恐縮だが、脱糞について書こうと思う。
これにはやはり勇気が要る。脱糞、と熟語にすることで多少紛らわそうとしているものの、この単語を出すことで、本稿の品位を著しく貶(おとし)める危険があるには間違いないからである。
それでも私は脱糞について書く。ずっと、書きたかったからだ。
私はよく脱糞する。普通の人の倍くらいの頻度で厠(かわや)へ駈け込んでいるのではないかと思う。ああ今も、こうして「厠」なんぞ古めかしい言葉を使うことで、さも高尚な話であるかのように見せかける魂胆が見え見えであるが、それでいいのである。実際、下(しも)の話だからといって喜んでしているわけではない。私は小学生ではない。真剣に、脱糞の魅力と不思議について語りたいのである。
話を戻そう。私は頻繁に脱糞する。もし人類を便秘気味と下痢気味に大別するなら、私は間違いなく後者の部類に含まれる。食べ物に含まれる添加物、体調の加減、精神的な緊張などで、いとも簡単に便が緩む。繊細なのである。四十を過ぎ、五十に手が届く年齢となり、面の皮だけは相応に厚くなったが、胃腸はいたいけな少女並みなのだ。あるいはただ胃腸が弱いだけかも知れない。
そのせいか、私の脱糞には勢いがある。いたって健康な時でもそうだ。まるで食べたものをそっくりそのまま下水溝への置き土産とするかのように、大量である。思わず便器の中を二度見するほどである。そして、脱糞後の爽快感は、これがまた驚くほどに素敵なのだ。ああ、出した、という達成感。トイレを出て仕事に戻っても、しばらく心の中は脱糞の心地よさに浸っている。
その余韻がほぼ小一時間続くこともある。その上回数が多い。一日に何度でも便座に座ることができる。座るたび、排便する。そしてその都度、快感に浸るわけである。そもそも糞意を覚えてから、便座に辿り着くまでに約半時。脱糞してのちに余韻に浸るのが小一時間。それを日に何度か繰り返すわけだから、そう考えると、実は一日の大部分を脱糞について考えながら過ごしているのではないか。そんな事実を眼前にし、私ははっし、と膝を打った。
脱糞は人生そのものではないか。
人間の欲望というものは数知れず存在する。食欲、性欲、金銭欲などが、中でも好んで語られるところだ。それらについて掘り下げた文芸作品や映画、ドラマは数知れず。だが、排泄欲───そういう呼称があるか否かはともかく───排泄欲は、食欲や性欲などより、実は上位に存在する欲求なのではないか。誤解しないでほしいが、私は別に、脱糞に性感を覚えているわけではない。性的倒錯者ではない。私は単純に、トイレの大は気持ちがいい、と言っているのである。それも、とても気持ちがいい、と。ほとんど、生きる意味にまで近づくほどの、深い感慨をそれは日々、我々にもたらしてくれているのではないか。
こんなことを考えるのは私だけだろうか。いや、そんなことはあるまい。誰しも、心の奥底ではそう思っているのだが、恥ずかしいから口に出さないだけに違いない。私も書いていて恥ずかしい。それでも、もう一段階、この考察を推し進めずにはいられない。
なぜ、脱糞はこれほどまでに快感なのか。
食欲のように、体に取り入れる行為より、体から吐き出す行為の方が快楽の度合いが高いのだとしたら、それはどういうことか。得ることより失うことが幸せだとしたら。もしそうだとすれば、それが意味することは何か。もしかして我々は、そもそも間違ったものを摂取しているのではないだろうか。あるいは、間違ったほど大量に。本来は食べてはいけないものを、食べてはいけないほど多く取り入れているので、その結果排泄行為に、かくも解放感を覚えるのではないか。
私以外の人はどうなのだろうか。さらに、人間以外の生き物は。想像は果てしなく広がる。我が家には飼い犬がいるが、犬にとっても、脱糞行為は是が非でも叶えたい行為である。キャンキャン吠えて散歩を催促するのはそのせいだ。奴が脱糞後、快感に浸っているかどうかはわからない。すぐに散歩の続きをねだってリードを引っ張るので、あまり感慨深く思っていないのかも知れない。
だが、排泄が極めて大事な行為であることには変わりない。
もしかして、と思う。生き物の中でも、我々人間を含む動物は、植物のように自分で栄養を作ることが出来ない。やむを得ず他の植物や動物など自分以外の生命をむさぼり食うしかない。その慙愧(ざんき)の念が、排泄行為の快感さにつながっているのではないか。古代よりずっと、獣や人間たちは、そうやって、口に入れたものを出すことで、贖罪(しょくざい)行為に似た安堵感を得ているのではないか。
そんなことを考えながら水を流し、私は今日もベルトを締めるのである。