た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

一酒

2013年11月03日 | essay
 久しぶりに、日本酒と出会った。

 出会ったと言っても、およそ二年の歳月をかけた長い出会いである。
 始まりは去年の冬の終わり。ぶらりと立ち寄った戸隠にある一件の蕎麦屋で、試みに注文した酒である。名前は「豊香」。そのときの香りが忘れ難く、秋の始まる先月、再びその店を訪れた。松本から長野まで電車で一時間、長野からバスに揺られてさらに一時間。馬鹿馬鹿しいような長旅ではあるが、「豊香」は前回と同じ豊穣さで私を迎えてくれた。
 大ぶりの陶器に入れて差し出す仲居さんが、「豊香です、てうちが言うたら、『ほうか!』と答えて下さいよ」と冗談を飛ばす。
 旅人ばかりでごった返す店内。二階の窓から見える静謐な木立。天婦羅と蕎麦と、岩魚の燻製。
 二杯目は確かに、「ほうか!」と叫んで受け取った。
 洗い場の方でひとしきり、仲居さんたちの大笑いする声が聞こえた。

 あまり市場に出回っている酒ではない。酒蔵は諏訪湖畔と知る。先日、ついでがあったので、車でさんざん道に迷いながら酒蔵に辿りついた。一本を人に送り、一本を自宅用に買い求める。
 たまたま老いた両親が松本を訪れる機会と重なったので、彼らに供する。決して飲む口ではない彼らが、しみじみと味わってくれた。一本はすぐに空いた。
 発送した受け取り主も、「旨かった」「妻も旨いと言っていた」とメールで感想を寄越してくれた。
 ひょっとして、酒豪にとっては甘過ぎる酒かも知れない。人の好みはそれぞれである。しかし決して酒に詳しいわけではない私にとっては、今のところ最高の一杯である。そういうものに出会えただけで、この数日間はやたら幸福な気分である。飲まなくてもそういう気分が続くのだから、安上がりな酒である。

 一年ぶりに再会した老父老母には信州の紅葉をたっぷり見せておいた。

 出会いと別れがあり、秋が深まる。
 

 
コメント
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