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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

2024年幕開け。

2024年01月09日 | essay

 新年の扉は激しくきしむ音を立てて開いた。

 元日の参拝は、毎年決めていることであるが、深夜に一人家を出て、近所の神社まで往復一時間ほど歩き、仕事の成就を祈願する。もう十何年もこんなことを続けている。この時ばかりは一人でないと意味がないと思うし、それも深夜じゃないと効き目が薄い気がする。もちろん、そんな意味や効き目など、最初から独りよがりに過ぎないことも重々承知している。

 今年の元日は例年ほど寒くなかった。それでもスキーウェアを上下に着こみ、毛糸の帽子をかぶってマスクをして、防塵服のような完全防寒体制で出かけた。神社にいた、和気あいあいとした若者や家族連れにはさぞ異様な光景に映ったろう。

 こちらは毎年これを続けているのだ。万が一にも風邪菌をもらわないよう配慮してのことだ。どう思われようと知ったこっちゃない。

 お参りして破魔矢を買って、帰宅して寝て起きたら正月である。雑煮を食べ、年賀状を読みながら、自分はなぜこんな風に同じことを繰り返したがるのだろう、などと考えていたら、地震が来た。ゆっさゆっさと音のするような揺れだった。慌ててテレビをつけると、臨時ニュースで、石川県などの様子が映し出されていた。慎ましく穏やかだったはずの日常があっという間に奪われていく。それは、心を持たない悪魔に鷲摑みにされたような悲劇だった。

 呆然とテレビを眺めるしかなかった。阿呆のように目を見開き、繰り返し流れるニュースにくぎ付けになった。東北の地震と津波のときもそうだったように。もっとさかのぼれば、アメリカのツインタワーが煙を上げて崩れゆくときもそうだったように。いつでも自分はただ眺め、無力だった。熊本の地震の時も。台風で長野市が水浸しになった時も。

 平凡な日常というものがいかに貴重であるかを、どうしてこういう大惨事を目の当たりにしたときでしか、自分は自覚できないのか。

 自分は本当に、できることをしてきたのか。

 

 

 まずは目を閉じ、黙祷せよ。

 

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常念乗越日帰り

2023年10月02日 | essay

 常念乗越まで日帰り往復。午前三時起床のつもりが、興奮したのか二時に目覚めた。遊びと仕事はかくも違うのかと思う。

 一時間早く行動したおかげで駐車場も何とか確保できた。丑三つ時でも車はいっぱいである。あちらこちらでライトを照らしてごそごそしている。みんな睡眠時間を削って、わざわざ疲労困憊しに来ているのである。物好きな連中だなあと自分のことを差し置いて感心する。

 暗いうちに歩き始め、山腹で朝日を浴びる。

 

 中秋や 夜明けの森の 鈴の音

 

 登るにつれてぽつぽつと紅葉が始まった。立ち止まって眺めれば、山の斜面を走るようにして黄や赤に色づいているのが確かめられる。雲が流れ、暑くも寒くもない。実に快適な登りであった。

 乗越まで出ると、途端に風が強くなった。これだから山は侮れない。小屋に逃げ、体を温めようとカップ麺を啜る。

 

 下山は登りと同じくらい時間がかかった。常念は三回目だが、いつ来ても下りが長いと感じる。同じ道を来たはずなのにおかしい。いくら何でも長過ぎる、と感じる。不思議な山である。車にたどり着くころには、ちゃんと足が棒になった。

 もうこりごりと思いながら、またいつか登るのだろう。そんな山である。

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残暑・日本海

2023年09月19日 | essay

 一年に一回は海を見たい。私の住む信州は「海なし県」と言われ、物理的にも精神的にも海が遠い。遠いと余計見たくなるのが人情である。

 車に乗せろと発狂する犬を乗せ、日本海に向かう。

 暑い。でも海はそこにあった。

 波打ち際まで下りていこうと砂浜に足を入れたら、火にかけたフライパンの上を歩いているようだった。犬もびっくりしている。これで少しは懲りるといい。だが火傷は困る。犬を抱き上げ、退散する。

 海辺のカフェを見つけ、避難した。ナポリタンとコーヒーフロートを注文し、海を眺めながらゆっくりと時を過ごす。

 潮風が心地よい。犬は寝ている。

 水平線に向かっていくつか問いかけてみたが、返事はなかった。

 帰宅後テレビをつけてみると、本日は新潟が日本最高の37度越えを記録したとのことだった。わざわざ一番暑い日を選んで行ったらしい。思い付きで行動すると、そういう馬鹿を見る。まあそれでも、海とじっくり対峙できてよかった。答えは聞けなかったが、背中を押してもらったような気がする。

 明日からも頑張れそうだ。

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蝶ヶ岳二度目

2023年09月05日 | essay

 登山靴が重い。

 五十になるまでは感じなかったことだ。

 年齢と結びつけて考えること自体が、足取りを重くさせるのか。

 道端にはキンポウゲやイワカガミがのんきに咲いているというのに、まるで親の仇のように汗だくの顔でそいつらを睨みつけながら、一歩一歩よじ登っていく。

 一人登山は寡黙なばかりでつまらない。しかしそれを年に何度かやらないと、自分が駄目になってしまいそうな気がする。そう思って登る。息が切れる。膝が痛い。暑くて暑くて堪らない。おい、お前。と自分に問う。駄目になってしまいそうって言うけど、じゃあ駄目にならなければ、お前はいったい何になるのだ。何にもなってないではないか。駄目になってもならなくても大して変わりがないじゃないか。その程度のちっぽけな存在じゃないか、お前は。なのになんでこんなに苦しむのだ。

 登山靴が横に這う木の根に引っ掛かり、転びそうになった。

 五十になるまではなかった失態だ。くそっ。

 五十、五十とうるさい奴だな。年齢とやたら結び付けて考えたがるのは、つまり区切りをつけたい、ということか。お前のここまでしてきた苦労に。忍耐に。ちっぽけな冒険に・・・お前はもう、隠居したい、ということか。五十だから、と微笑んで。静かに茶でも啜りながらこれから先を生きるつもりか。

 蝶ヶ岳は階段ばかりで疲れる山だ。ずっと眺望も悪い。ただ頂上まで来ると、一気に視界が開けて気持ちがいい。それだけを期待して登る山である。数年前一度登って懲りたはずなのにまた登っている。汗だくのみっともない格好で。階段の度に立ち止まり、肩で息をしながら。

 ここまで来たなら歩けよ。なあ。ここまで来たというそれだけの理由でいいから。

 歩け、ほら。

 

 山には目に見える頂上がある。人生の頂上は、後からしかわからない。

 だから人生は、登山のようにはいかない。

 

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三本滝

2023年08月09日 | essay

 何しろ毎日我慢大会のように暑い。涼しそうな所ならどこへでも逃げたいと思う。

 それで、乗鞍の三本滝を観に行った。予備知識はあまりない。

 上高地線をひたすら車で上り、幽霊の出そうな長く狭いトンネルを抜けると、乗鞍高原に入る。

 ここまでくると、それまでひしめいていた車の列が嘘のようになくなる。やはり乗鞍が賑わうのはスキーシーズンなのだろう。

 スキー場近くのカフェレストランのテラスで昼食をとる。閑散期だから、至って静かである。店主までが、ねじを巻き忘れたようにのんびりしている。ナポリタンを注文したら、絵に描いたような懐かしいナポリタンが出てきた。しっかりとケチャップがきいた味で、旨い。木の葉が涼しげに日差しを揺らし、道路には誰も通らない。充分だ。これで充分だと思った。

 それでも目的地まで行こうかと、コーヒーを二杯飲んでから席を立ち、先を行く。どこへ連れていかれるのか不安になるほどの山道を行ったら、入り口の駐車場にたどり着いた。

 大きなビジターセンターがある。外のベンチでは、何組もの観光客が汗を拭いている。みな、割合しっかりと山行きの服装をしている。思ったよりずっと有名な場所らしい。

 そこから歩いて一時間余り。木立を抜け、渓流を渡った。なかなかに登山気分が味わえて気持ちがいい。

 こういう所を行くたびに思う。

 自然の中は、圧倒的に情報量が多い。土や落ち葉を踏みしめる香り、見て飽きることのない様々な植生、鳥のさえずり、羽虫、川のせせらぎ、清冽な空気。巷では情報化社会と言われているが、しょせんそのほとんどがパソコンの画面上で得られる情報だ。その情報量に比べて、この林間に横溢する情報の無限なまでの豊かさよ。もちろん、これを情報と呼ぶか、単なる景色と呼ぶかは人それぞれであろう。が、ネット社会の情報だって、芸能人が離婚したとかくっついたとか、あの有名人がああ言ったとかそれで叩かれたとか、果たして情報に入るのかと疑いたくなる情報が多くないか。

 我々は昔の人に比べて、知識が増えているのだろうか?

 終着点にある三本滝は、想像以上に見事だった。激しく落ちる滝、岩肌をなめるように下る滝、高いところで現れては消える滝。造形の異なる三本の滝が落下点で一つの川に合流する様は、どこに目を向ければ一番いいのかわからないほど変化に富んでいた。

 写真はまたいつか載せようと思う。

 それとも、と思い直す。写真を載せればより正確な情報が伝わると思っているあたりが、すでに情報化社会に洗脳されたか?

 

 

 

 

 

 

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六月、夜、ジャズ喫茶にて

2023年06月21日 | essay

大きな仕事が一つ終わり、エオンタに行く。

心を整えるときによくその店を使っている。

ざらざらな触感を残したジャズの音色。上質な酒と珈琲。いつでも変わらない心地よさと信頼感。

その店には確かなものしか存在しない。

エ・オンタ(存在する者たち)。

グラスに口をつけ、じっと耳を澄ますと、音楽がまるで無音のように体に染み入ってくるのがわかる。

 

僕は自分に囁く。

「よし。じゃあ、次は何をしようか。」

 

 

※写真は夫神岳。

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森の雨

2023年05月08日 | essay

 雨の日曜日、だらだらと家で過ごそうとも思ったが、一つにはさほど雨脚が強くなく、もう一つに飼い犬が連れて出ろとうるさいので、犬を車に乗せ、牛伏寺のフランス式階段工に行ってみることにした。最近立て続けに何度か犬をドライブに連れ出したところ、犬の方でそれが当たり前と思いこんだらしい。すぐぜいたくに慣れるあたりが人間と同じで始末に負えない。少しは雨に打たれて後悔すればいい。

 フランス式階段工は、静かな森に囲まれ、川が幾つもの人工の滝となって静かに流れ落ちる、なかなか風情のある場所である。人が少ないのがいい。川岸は整備されて遊歩道があり、あずまやもある。

 傘を差し、犬を連れて歩いた。霧雨に打たれる新緑が実に鮮やかである。一幅の水彩画を見ているようだ。橋を渡り、小道を上り、あずまやに入った。ここだと雨も当たらない。座ってじっと外を眺めていると、体の細胞が一つずつ新鮮なものに置き換わっていくような気がした。雨の森も素敵なんだとつくづく思った。

 半分犬の我がままに付き合わされた感があったが、出かけてきてよかった。これだから犬を強くも叱れない。

 カメラを持って出なかったので、写真がないことを後悔している。

 

 

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奇跡のポスター

2023年01月26日 | essay

 物を大切にする癖が抜けない。

 そう書くと聞こえはいいが、実際は幼いころの刷り込みで、長く使わないで捨てるとバチが当たる、と、大人になった今でも本気でおびえているフシがある。

 大正生まれの祖母は、広告の裏紙でも丁寧にのして、取っておく人だった。祖父も、ずっと同じふんどしを履き続け、毎日自分で洗い、風呂場に干していた。もちろん「現代っ子」の私は、そんなやり方に首をすくめ、どちらかというと、大量生産、大量消費という社会の風潮の方に乗っかっていったのだが、それでも幼少期に老人たちの行動を見続けた記憶が、潜在意識となって澱(おり)のように残ったようだ。

 加えて、二人兄弟の末っ子であった要因も大きい。当然のように兄のお下がりを押し付けられた。帽子からズボンまですべて兄のお古。これにはさすがに抗議もしたが、母の「もったいない」の一言で撥ねつけられた。

 そうした生い立ちが、古いものを使い続けることに抵抗感を無くしていったのだろう。

 高校時代のセーターを三十過ぎまで着たり、中学時代の辞書をいまだに使い続けたり、家人にしつこく勧められても車の買い替えに踏み切れなかったり。それくらいならまだしも、使わなくなったCDデッキや使えなくなった掃除機を、いつかのためにと捨てきれないでいる。家人の眉を著しく顰めさせる原因となっている。決して自慢できることではない。

 アニミズムなのだろうか。物にはすべて、その形状と用途以外の何らかの「存在」感があると思ってしまうのだ。せめてその「存在」を全うさせてから屑籠なり市指定のごみ袋に放り込んであげたい、と思う。

 

 ちょっと話が怪しくなってきた。最近のエピソードで締めくくろう。

 

 先日、職場に見知らぬ人が訪れた。白髪交じりの男性で、丸めたポスターを手にしている。聞くと、この建物に貼ってあるポスターを、毎日通勤途中で見かける。自分は当時、そのポスターの制作を担当した者である、と。確かに一枚貼ってある。それも、ずっと貼ってある。美術館の特別展のポスターで、祈る女性が描かれている。依頼されて貼ったものだが、特別展の開催期限が過ぎてもはがさずにいた。いい図案だし、祈りのポーズが、現代の不安な世情に向けたものとしてぴったりな気がしたからだ。美術館側から剝がすよう注意されないかと内心ひやひやしていた。

 しかし、そのポスターはそこに当初のままの姿で「存在」し続けた。ここが何とも不思議なところだが、雨風に晒される場所にあり、決して特別な紙質でもないはずなのに、いつまで経ってもふやけも破れもしないのだ。そのポスターだけが。たとえ雨に打たれてふやけても、乾けば元のピンと伸びた姿に戻っている。他のポスターはそうはいかない。こうなると、女性が祈っている姿も、だんだん神々しく見えてきた。外すに外せなくなり、いつの間にか一年が経ち、二年が経ち、三年目になった。さすがに最近、色褪せてきて、そろそろ限界を感じていた矢先だった。

 白髪交じりの男性は、自分が担当した思い入れのあるポスターをずっと貼ってくれていることに感謝し、いつか挨拶に来たいと思い続けていたとか。手にしたものを広げてみせてくれた。全く同じ、祈る女性のポスターである。画鋲の跡があるが、色褪せはなく、保存状態もいい。おそらく、掲載後、思い出にと自宅に大切にとっておいたものであろう。それを私に譲ってくれると言う。

 お互いに何度も礼を言い合いながら、別れた。

 

 たかが紙一枚。でも貼り続けたことで、思わぬ出会いと感動があった。いただいた品は大事に保管しておくことも考えたが、いや、ポスターはやはりみんなに見られてなんぼのもの。そう思いなおした。色褪せた「祈る女性」をはがし、今までの礼をそっとつぶやき、同じ場所に、色鮮やかな「祈る女性」を貼った。道行く人は、突然色彩を取り戻したポスターにびっくりするだろう。それも、二年以上前の代物なのに、と。

 それを想像するだけで、ほくそ笑んでいる。

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木曽路・秋

2022年11月24日 | essay

 平日休みに、知人と木曽福島に行く。知人は、高校生をこの街で過ごしていた。

 爽快に晴れ渡った秋空と、彼女の青春時代の思い出が、隣を歩くこちらにまでシンクロする。

 そういう街歩きはいいものである。

 

 帰途、奈良井宿にも立ち寄った。

 そこで日が沈んだ。

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人生の楽しみ方

2022年11月01日 | essay

 人生を楽しむ。

 雑誌のタイトルにありそうな文句だ。もっとも、雑誌だと勿体をつけて、「愉しむ」となるか。人生を愉しむ。まあ、愉楽どちらでも良いが、いずれにせよ常套句のように使われている割にはなかなか実感できないものである

 友人のM氏は五十を境に東京の会社を辞め、茨城の小さな町に小さな中古住宅を買い、引っ込んでしまった。別にその土地に惚れこんだわけではない。東京を脱出しようと不動産屋巡りをしていて偶然見つけた物件らしい。引っ越したからと言って何かを始める目論見はない。仕事もせず、テレビを観たり、ゲームをしたりで日が暮れるとか。都会が嫌になったのはわかるが、いくらなんでも無計画過ぎる。しばらくして、いい歯医者を見つけたと連絡が来た。歯の悪いM氏はその歯医者がいかに凄いかを熱く語る。何でも歯の磨き方を教わるだけで数日かかるらしい。まあそんな歯医者に出逢っただけでも引っ越した甲斐があったじゃないかと、半ば皮肉交じりに返した。

 依然として、歯医者以外との人的交流は皆無に等しい。一日中液晶画面を見ているのだから当然である。あまりにも人と会わない生活が続いたので、さすがにそろそろ精神に異常を来しそうだと言ってきた。

 どうなることかと経過を見守っていたら、一念発起し、地元の農産物直売所でアルバイトを始めた。今までのキャリアとは全く無縁の職種である。ところがこれがM氏にとっては大当たりを引いたようなものだった。仕事が面白くてたまらないらしい。客や同僚、おまけに農産物を卸す農家の人たちとまで親しくなり、ときには農家にお邪魔し畑仕事の手伝いまでしているそうな。最近では保護犬を散歩させるボランティアにも手を出して、毎朝犬たちと汗を流している。

 彼は人生を楽しんでいる、と言えるだろう。経歴や収入とはまったく無関係に。一人者だからできるのだ、という横やりは、それを選ぶ覚悟のなかった者に入れる権利はない。M氏は世間体もプライドも、おそらくは自分の生き方へのこだわりも含めて、全く気にしない柔軟さを身につけたのだろう。だから、一年引き籠ってから突如社交的人間に変貌するような離れ業ができるのだ。

 人生を楽しむには、頭の柔らかさと心の強さが要る。

 仕事に追われ日々を凡々と送っている私個人も、せいぜい非日常を楽しもうと、最近はよく山に登る。先月末は知人と唐松岳に行く予定だったが、都合が悪くなり急きょ取りやめになった。代わりに何となくサイトで見つけた栂池自然園に行ってみた。ゴンドラで高原まで上がり、木造りの遊歩道を歩く。よく整備されていたが、整備され過ぎていて、もう少し年を取ってからでもいい気がした。売店で買った林檎を丸かじりしたら旨かった。

 山にも当たり外れがある。

 先日は小熊山トレッキングコースというのを公の機関が勧めていたので行ってみたが、車道ばかり続くので嫌になって引き返した。途中、紅葉を眺めながら珈琲を沸かして飲んだ。連れて行った犬は満足げだった。

 

 人生を楽しむのもなかなか難しい。難しい、なんて言ってる時点で、おそらくそもそも難しい。

 

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