7/11 深夜 追記しました
驚きで言葉がありません・・・・
プロレスラーの橋本真也氏が死去
※以下記事引用
“破壊王”のニックネームで親しまれたプロレスラーの橋本真也さんが11日午前、横浜市内の市立大付属市民総合医療センターで死去した。40歳だった。死因は脳幹出血とみられる。
橋本さんは1984年に新日本プロレスに入門。その後独立し、2000年11月には新団体「ZERO‐ONE」を設立したが、2004年11月に活動を停止。橋本さんは右肩を手術し、リングから遠ざかっていたが、リハビリをしながら復帰を目指していた。
※引用ここまで
どうして・・・・
40歳って若すぎるよ・・・・
橋本選手の思い出を語れば語りつくせない
私にとって名プロレスラーの一人です。
何度も会場で入場曲「爆勝宣言」を聞き、
その都度「ハッシモト!ハッシモト!」
と声を嗄らしました。
思えば着メロを探した時も
最初にDLしたのは彼の「爆勝宣言」でした。
幾多の名勝負をありがとう橋本!
ただ、できることならまたリング上の君を見たかった・・・・。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
追記 7/11 深夜
<訃報>橋本さん死去 盟友・小川直也さん悲痛
※以下記事引用
“破壊王”のニックネームで人気を集めたプロレスラーの橋本真也(はしもと・しんや)さんが亡くなった11日、盟友の小川直也さんが都内で会見を行った。小川さんは「まだこの目で確かめるまでは信じたくない。いや信じてない」と声を絞るように話した。
※引用ここまで
画像は1999年10月ドームでの小川直也選手との試合から。
殴られても、殴られても、
這い上がってゆく破壊王の姿は当時痛々しくもあり、
また、胸を熱くしたものです。
思えば彼の試合は潰すか潰されるか。
一球入魂の試合ばかりでした。
長州選手との試合はそんな魂のぶつかり合いに感動したものです。
あの伝説のG1三銃士による争い。
蝶野選手にタイトルは持っていかれたものの
彼らの伝説はそこから始まりました。
IWGPの防衛も納得の試合が多く、
彼こそ王者に相応しいと思ったことも多かった。
そして小川選手との出会いは彼のプロレス人生に
大きな変動を起こしました。
やられてもやられても、這い上がり立ち向かう姿勢
それはプロレスの美学、ロマンを
身をもって表現しているかのようでした。
それが橋本真也のプロレスだったんだと思います。
そして、これからもまだまだ・・・・
表現させなきゃいけなかったのに・・・。
どうしてだよ・・・・。
橋本・・・。
驚きで言葉がありません・・・・
プロレスラーの橋本真也氏が死去
※以下記事引用
“破壊王”のニックネームで親しまれたプロレスラーの橋本真也さんが11日午前、横浜市内の市立大付属市民総合医療センターで死去した。40歳だった。死因は脳幹出血とみられる。
橋本さんは1984年に新日本プロレスに入門。その後独立し、2000年11月には新団体「ZERO‐ONE」を設立したが、2004年11月に活動を停止。橋本さんは右肩を手術し、リングから遠ざかっていたが、リハビリをしながら復帰を目指していた。
※引用ここまで
どうして・・・・
40歳って若すぎるよ・・・・
橋本選手の思い出を語れば語りつくせない
私にとって名プロレスラーの一人です。
何度も会場で入場曲「爆勝宣言」を聞き、
その都度「ハッシモト!ハッシモト!」
と声を嗄らしました。
思えば着メロを探した時も
最初にDLしたのは彼の「爆勝宣言」でした。
幾多の名勝負をありがとう橋本!
ただ、できることならまたリング上の君を見たかった・・・・。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
追記 7/11 深夜
<訃報>橋本さん死去 盟友・小川直也さん悲痛
※以下記事引用
“破壊王”のニックネームで人気を集めたプロレスラーの橋本真也(はしもと・しんや)さんが亡くなった11日、盟友の小川直也さんが都内で会見を行った。小川さんは「まだこの目で確かめるまでは信じたくない。いや信じてない」と声を絞るように話した。
※引用ここまで
画像は1999年10月ドームでの小川直也選手との試合から。
殴られても、殴られても、
這い上がってゆく破壊王の姿は当時痛々しくもあり、
また、胸を熱くしたものです。
思えば彼の試合は潰すか潰されるか。
一球入魂の試合ばかりでした。
長州選手との試合はそんな魂のぶつかり合いに感動したものです。
あの伝説のG1三銃士による争い。
蝶野選手にタイトルは持っていかれたものの
彼らの伝説はそこから始まりました。
IWGPの防衛も納得の試合が多く、
彼こそ王者に相応しいと思ったことも多かった。
そして小川選手との出会いは彼のプロレス人生に
大きな変動を起こしました。
やられてもやられても、這い上がり立ち向かう姿勢
それはプロレスの美学、ロマンを
身をもって表現しているかのようでした。
それが橋本真也のプロレスだったんだと思います。
そして、これからもまだまだ・・・・
表現させなきゃいけなかったのに・・・。
どうしてだよ・・・・。
橋本・・・。
プロレス界が盛り上がるのに重要な人物の一人だったのに…と思います。
はじめまして。こちらこそコメントありがとうございます。
まだまだ彼にはやらなければならない事はたくさんあったはずだし、本人もそう思っていたのではないでしょうか。
本当に残念でなりません・・・。
それもあるでしょうが、やはり様々なストレスも因果関係の一つであったことでしょう。
突然死はマルファン症候群などのように
気をつけていても掛かる病気もあります。
ただ、レスラーならなおのこと、徹底した自己管理は当然必要だったとは思いますが。
最後に見たのは何年か前の真撃やったけど、かっこいい橋本がおった。
昨日からいろいろな方のブログを回って、橋本真也というプロレスラーの偉大さを改めて感じているところです。本当に残念です。
ご冥福をお祈りいたします。
先日はウルトラマンマックスの件でのトラックバック・
コメント、ありがとうございました。
今日は、橋本真也さんの訃報に関し、私の記事と
トラックバックさせていただきました。
橋本さんと言えば、テーマ曲「爆勝宣言」とセット
でしたよね。
私も札幌の中島体育センターで「ハッシモトー!」と
橋本コールをしたこともあります。
闘魂三銃士の中で、唯一のパワーファイターでしたよね。
だからと言って、武藤・蝶野両選手と比べて目立たなかったかと
言えば、そうでは無く、かえって一番目立っていた印象が
あります。
もう一度、三銃士が揃い踏みをして、同じリングの上で試合を
して欲しかったですね。
惜しいレスラーが亡くなられたものです・・・
今朝のテレビで、橋本さんのご近所の方が言ってました。
「神様はどうしてあんないい人を先に連れて行ってしまうのか」
本当にそう感じます。
>きゃすさん
蝶野も武藤も心では大泣きでしょうね。
おーちゃんのあの会見の表情見たら、こっちももらい泣きしちまった・・。
>ゆきさん
こちらこそ、ご丁寧にありがとうございます。
橋本選手はプロレスラーとしては認知度も高いですし、
彼のファイト、生き様に惚れ込んだ人も多かったと思います。
本当に残念です・・・。
>大きい子さん
突然だっただけに聞いた時はオイラも耳を疑ったよ~。
大きい子さんにとってもいろんな意味でショックでしょう。大丈夫とは思うけど体の管理にはくれぐれも気をつけてね。
>AYUZさん
こちらこそご丁寧にありがとうございます。
札幌中島体育センターですか。私達プロレスファン、特に新日を見ていたものにとっては感慨深い響きです。
仰るとおり三銃士はそういう意味ではバランスよくファイトスタイルの違った面々でしたよね。
第一回のG1は本当に熱い夏でした。
あの3人の揃った姿がもう二度と見れないとは・・・。これからだったのに本当に残念でなりません・・・。
橋本氏は、御母様が若くして亡くなられた事(50歳)や、郷土の英雄である織田信長に憧れていた事から、常に「太く短く」という人生観を持っていたと聞いています。ハードなトレーニングの合間に、水分補給もせずに御菓子をパクついている姿を見た新聞記者が、「そんな生活をしていたら身体に良くないですよ。」と注意した所、「好きな事をして一生終えられたら本望。」と答えたとか。
公私に亘って多くの問題を抱えていた事も、強靭な肉体を蝕んでいったのでしょうが、やはり根幹に「太く短く」という思いが強く在ったのでしょうね。あの雄姿をもう見れないと思うと唯々残念です。御冥福を心より御祈り申し上げます。
これからも宜しく御願い致します。