大島恵真(おおしま・えま)の日記

児童文学作家・大島恵真の著作、近況を紹介します。
絵本作家・大島理惠の「いろえんぴつの鳥絵日記」もこちらです。

あらためて憧れる(渡辺貞夫さん)

2021年01月25日 | 個人的なエッセイ
みなさま おはようございます!(もう午後になってしまいましたが)
仕事にとりかかる前に、つらつらと書くエッセイのようなものです。
きょうは、サックス奏者の渡辺貞夫さんについて書きます。私が高校生の頃、「世界のナベサダ」として知られた方です。「知られた」と過去形にしてしまいましたが、高校卒業後は意識することなく暮らしてきたため、そういう失礼な位置づけになっていました。

渡辺さんは、今も現役です。87歳、バリバリのプレイヤーなのです。それを知ったきっかけは、先週のNHKアーカイブスの放映です。15年くらい前の、70代の渡辺さんでした。まったくバリバリでした。私が高校生の頃と、変わらない印象でした。
今はどうなのだろうかとネットで検索したら、ご自身のサイトがあり、動画を配信されていました。すごい鋭さで演奏されていました!80代といっても90近く、しかも肝炎で入院されていたこともあったとのこと(これは40代くらいのとき)。健康そのものというお体でもないのに、すごい!と思いました。

私が高校の頃の渡辺さんは40代前半。次々とアルバムがヒットし、海外の有名ミュージシャンと共演もするスタープレイヤーでした。というのを、高校の吹奏楽部の友人に教えてもらいました。
ジャズミュージシャンに憧れる友人は、自分で渡辺さんのフュージョン曲を編曲し、吹奏楽部の定期演奏会でビッグバンドを編成し、けっこう本格的なステージにしてくれました。私は当時フルートを担当していましたが、ピアノも弾かされ、まるで弾けず、悔しい涙を流したものです。
友人は、卒業後は東京の音響専門学校に行き、同時にジャズミュージシャンの弟子生活を始め、数年後には自分のバンドを持ち、ライブに呼んでくれたこともありました。ですが「ジャズでは生活できない」とゲーム音楽の作曲家になり、今はジャズミュージシャンを専門に撮るカメラマンになっているようです。

ところで渡辺貞夫さんも、経歴をネットで拝見すると、栃木県の工業高校出身とのこと。その後ボストンの有名音楽大学のバークリー音学院に留学され、本場のジャズを学ばれたとのこと。

私の高校生の頃、工業高校というのは、「家の仕事を継ぐ」「もの作りが好き」といった人が多かったのですが、ふつうに成績のいい人が、中学の担任の先生に振り分けられて行くところでもありました。「大学進学が経済的にむずかしい→高卒でも工業高校なら大企業に就職できていいポストにつける」という考えもありました。今でもそういう面もあるかもしれませんが。
入学してから、退学する人もいました。やっぱり向いていない、ということだったのでしょうか。
ちなみに私が入学した目的は、吹奏楽部だけでした。大学には行かせてもらえない家庭環境だったこともありますが。

ネットでみた経歴では、渡辺さんのお父さんは薩摩琵琶奏者とのこと。時代によっても違うかもしれませんが、多くの伝統芸能同様、薩摩琵琶だけでの生活はむずかしく、他の仕事をしながらお弟子さんをとって教えたり演奏したりしていた、ということも考えられるのでは、と。家に音楽のある環境だった渡辺さんは、音楽に進むならかなり戦略的に行かないと仕事にできない、と思われたかも。その姿勢が、今も現役、ということにあらわれているのかな、と勝手に勝手に思わせていただいたりしています(すみません渡辺さん…後ほど自伝を読ませていただいて、間違った部分は訂正させていただきますから)。

高校生当時の私は、友人からジャズ、フュージョンを教えてもらい、みんなでジャズ喫茶やライブハウスに行ったりもして、それなりにジャズに親しむことはできましたが、「やっぱり私はクラシック音楽だな」と再確認もしたのでした。
そんなわけで、ジャズもそれ以来聞かず、今に至っていたのですが、87歳でバリバリ演奏する渡辺さんのお姿で、「ナベサダからジャズを聴いてみようかな!」と思いました。
あらためての、憧れのスタートとなりました!

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ぼんやりとした憧れ(石岡瑛子さん)

2021年01月24日 | 個人的なエッセイ
みなさま こんにちは!
創作の姿勢を再発見したいため、思っていることをつらつら書き連ねています。
きょうは、アートディレクターの石岡瑛子さんについてです。

石岡さんは私が若い頃の世界的に著名な日本人でした。私が若い頃と言えば高度経済成長のピリオドを打つバブル景気の頃で、斬新な表現者がさまざま出てきていました。石岡さんは、美大生ならば知っておくべき一人でした。
しかし私はそのころ、自分で生活費と学費を稼ぐ苦学生だったので、そんな風潮に背をむけて、大学も必要最低限しか行かず、アルバイトに明け暮れていました。石岡さんのこともお名前しか認識していませんでした。

今日、テレビの日曜美術館で石岡さんのことを少し知りました。
まず感動したのが、ご自身の歴史を絵本にしていたことでした。カラフルで美しい絵本でした。必ず世界のおいしいものを食べに行きたい、と結ばれていたように記憶しています。
高校生のときということですが、人の目が気になる年齢のときに、素直に自分自身を語り、夢を語り、それが優れた作品にもなっていることに感銘をうけました。

衣装デザインも多くてがけ、どれもすばらしいものでした。コッポラ監督の映画「ドラキュラ」の衣装デザインもされていたようです。好きな映画なので、うれしい発見でした。ニューヨークを拠点に活動されていたことも、うれしかったです。今からこの人に憧れよう、と思いました(笑)。

なぜかニューヨークに憧れています。一度も行ったことはないし、くわしくも知らないし、どこに何があって誰がいるのか調べたこともありません。学生の頃は広告文化の最盛期(やはりピリオド)で、広告といえばニューヨークという記憶もあったこと、ジャズやアートの街だったことなど断片的に入ってくる情報で、なんとなく好きなのです。
洗練と、自由。そして人間的な温かさがあるのではないかと。さまざまな人の営みのなかで、築かれたものがあるのではないかと。
テロや分断などがあるたび、もう昔のニューヨーク(アメリカ)ではないという声も聞きます。でも私は昔を知らないので、いいのです。こんなふうに書くと、もっと現実を知れと怒られそうですが、ぼんやりと憧れたままの状態がいいな。

きょうは、石岡瑛子さんとニューヨークを、ひとつながりの憧れとして心におさめました。石岡さんのことも、これ以上は知らないでおこうと思います。石岡さんのエッセンス(私の中の勝手な)として、私の中で妄想としてふくらんで、いつか現実の作品として実をつけてくれたらいいな。

明日は、やはり私の若い頃から活躍されている、サックス奏者の渡辺貞夫(貞雄さんを訂正)さんについて、書いてみます。

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私が音楽を好きになったのは(長文失礼します)

2021年01月20日 | 個人的なエッセイ
みなさま こんにちは!
自分が音楽を好きになったきっかけのひとつが発見できたので、今日は書きとめておきたいと思います。長文になりますが、おつきあいください。

父の趣味で、生まれたときからクラシック音楽(いわゆる子どものための名曲)を聴いていたらしい自分。家に何枚かレコードがあり、それをかけてもらっては、ごみ箱の底をたいこがわりに叩いて喜んでいたそうです。
でも、自分では喜んでいた記憶はありません。保育園までは、音楽を「好き!」と思った記憶がないのです。
幼少期の記憶って、そもそもないものかもしれませんが、お遊戯会の合奏で「リエちゃんは何をやらせてもだめ。人とあわせられないから鈴ね」と鈴を持たされて端に並ばされ、そしてそのことを不満にも思わず、目立たないように立っていた、そんな記憶はあるのです。

保育園時代に、保育園に出張していたヤマハのオルガン教室に通っていましたが、やはり楽しかった記憶はありません。あったのかもしれなくて、覚えていないだけかもしれませんが、小学校にあがる前に「次はピアノに行きましょう」と先生から言われ、親が「ピアノは買えませんから」と教室をやめさせて、それを不満にも思いませんでした。

ですが、小学校時代は「オーケストラに入りたい!」「そのためにはピアノを習いたい!」と毎日のように訴えていました。それなのに、幼少期の音楽への執着がなかったのが我ながら謎でした。

オーケストラに入りたいと思った日は、ぼんやりと過ぎていく人生が、はっきりとした色に変わったような日でした。よく記憶しています。
小学校2年のとき、学校の体育館に東京都交響楽団(たぶん)が来て、演奏してくれたのです。私は背が低かったので最前列に体育座りして、演奏する団員の人たちを見ていました。
曲目は、いつも聴いていたビゼー作の「アルルの女」。フルートのやさしいメヌエットや、ゴージャスなファランドールを、夢中で聴いていました。オーボエの人が、真っ赤な顔をして一心不乱に吹いていたのを覚えています。

その日の夜から、雷に打たれたようにぼんやりしてしまい、自分で自分に何が起きたかを知りました。
初めて、音楽をやりたい、と思ったのです。
あの人たちのようにクラシック音楽を演奏したい。そのためにはオーケストラに入らなくては。そのためにはピアノを習わなくてはならないのではないか。こんなことを思ったと思います。
それまでもクラシック音楽は聞いていたものの、そこまで「好き」とは思っていなかったのかもしれません。今となってはわかりませんが。

とにかく、「(オーケストラに入るために)ピアノやりたい」と親に訴えましたが、却下。ずっと疲れるくらい、毎日、小出しに言い続け、中学になって「もうピアノを習うには遅い」と諦めた頃に、吹奏楽部に入りました。

オーケストラでやるような交響曲はできませんでしたが、吹奏楽のための交響曲というのがいくつかあり、夢中でした。高校は吹奏楽部のためだけに入ったようなものでした。ここでは、ワーグナーやリムスキーコルサコフの序曲、交響曲を編曲した楽譜で、熱中して練習しました。

成人してからは、音楽から離れました。やる機会も場所もなかったし、やっても仕事にならないし、そもそもそんなスキルもないからと、あえて離れた気がします。
いくらなんでもそれはさびしいので、ある日、仕事にさしつかえないで流せるピアノのCDをさがしに、CDショップに行きました。ベートーベンの三大ソナタ集があったので、買いました。聞き覚えもあったメロディなので気分良く聴いていましたが、とりたてて興奮もしませんでした。オーケストラじゃなかったからかもしれません。

ところが、テレビで、そのCDのピアニストの映像が流れたとき、びびっと、久しぶりに雷に打たれたのです。
演者は、グレングールドでした。個性的な演奏で、広く愛されていますよね。
グールドは、背中を丸めて、しかも歌いながら、夢中でバッハを弾いていました。それからグールドのピアノをもっと聴きたくなり、バッハやモーツァルトのCDを買いました。グールドのおかげで、バッハとモーツァルトを好きになり、自分でも弾いてみたいと思うようになりました。
グールドの映像を見なかったら、ピアノ自体にもそれほど興味はわかなかったと思います。

こう考えると、演奏している人の姿を見ること、そしてその演者が「一心不乱に演奏していること」が、私が音楽を好きになるきっかけなのでは、と思えてきます。

先日は、オルガニストの鈴木雅明さんの演奏をテレビで見ました。やはり、それまで、高名なお名前は知っていたものの、とりたてて聴いてみようとは思いませんでした(ピアノ曲だったら自分でもいつかは演奏できるかもと思うのですが、パイプオルガンには縁がないと思ったこともあり)。
ところが、鈴木さんが教会のパイプオルガンを弾いている姿を見て、また雷に打たれ……。
鈴木さんは、ときに天上にいるような楽しい顔で、ときにものすごく真剣に、オルガンに向かっていました。オルガニストの演奏中の顔なんて、ふつうは観客からは見えないものですが、カメラが演者の前から撮ってくれたので、見ることができました。感謝です。

プロの大人が夢中になって、それこそ魂を響かせて何かをする姿に出会うこと。
それが、子どものときから現在まで、私を駆り立てているのかもしれません。音楽は、その一例だと思えました。
そうすると、子どもが何を好きになるかのきっかけのひとつは、「熱中しているおとなに出会うこと」(実際にその姿を見ることも)なのではないか。勝手にそんなことを考えて、満足しています。






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とりあえず新聞を読む

2021年01月09日 | 個人的なエッセイ
みなさま こんにちは!
寒くなりましたね! コタツに入る時間もふえました。

私は新年から決めたことがあります。
「とりあえず、来た新聞を30分で読む」です。
朝ご飯のあとに、コタツにはいって動けないままでいるあいだに、朝刊を読みます。30分。夕刊も30分。それ以上に長くなりそうだったら興味のある紙面のみ残してあとで読む。

新聞は、美大生のころに「読め」といろいろなところで言われてきましたが、とにかく時間がかかって、へたすると半日も読んでしまうことがありました。理解できていなかったからですが。
それで「夕刊だけにしてほしい」と販売店に頼んでもそれはできなかったりして(当時)、引っ越しを繰り返すうちにとらなくなってしまいました。

電子版が出るようになって、電子版なら電車でも読めるし、と取り始めて、通勤電車の中でタブレットで読むようにしていました。今では紙の新聞を電車で広げている人はいませんが、やはり電子版を読んでいる人はいるらしく、知らない高齢の女性から「私もその記事、読んだの!」と声をかけられるうれしいこともありました。

コロナ禍で在宅勤務になってからは、久しぶりに紙の新聞に。目が疲れるからでもありますが、電子版で「トリミング」とかしてもぜったいに見ないので、紙の新聞を切り抜いてスクラップしてみようかな、と思ったのです。

昔、スクラップをしていて、切り抜いたものをあとで読んでみると、けっこう発見や感動があったりしたもので。

ところが、上記のように、読むのが遅いため(政治経済スポーツ国際情勢株、どれも興味がない性質)、たまっていく一方。1週間に一度、まとめて読むことにしよう!と猶予を与えたら、その1週間に一度が拷問のように。夕食のあとに読み始めて、眠くても「まだ、あと3日分…」など、夜中の1時まで読んでいたり。

夕食のあとは、何をしてもだめですね(笑)。
新聞だけでなく、本も積まれたまま溜まっている状態なので、なんとかしなくては、と。

新年、時間があったので、来た朝刊を読んでみたら、1時間で読み終えられた!(ざっとですけど)

これに気をよくして、来たらすぐ読む!をやってみることに。大事なのは、「もとを取らなきゃ!」と焦らないこと。どの記事も全部じっくり読んで理解できたらいいのですが、「自分にとっての光る記事」をみつけるのが重要。毎日、ざっとでも読んでいると、光る記事を見つけるのもうまくなります。

ネットでなんでも手に入る時代ですが、新聞、雑誌、本は、時間を掛けてセレクションと編集がされています。手がかけられている分、人の叡智も入っている…と思います。
日々の創作時間を削らないことを第一に、今年は「まず新聞読む」を習慣にしてみっか、と思ったのでした。

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同時代性

2021年01月04日 | 個人的なエッセイ
同時代性とは、同じ時代に生きる感覚、のようです。
児童書の執筆でいつも重要だな、と思っています。
一般書でも重要かもしれません。読むのは、今を生きる人たちですから。

私が読書を始めたのは18歳からで遅いスタートでしたが、そんな本と遠かった私でも、中学のときに人気だった本というのがあり、みんなで、主人公を自分のように感じ、「えっ、次はどうなるんだろうね!?」とわくわくしながら回し読んだことを思い出します。
文字には、当時はやっていた漫画やテレビアニメとも違う、ピンポイントな濃さがありました。

あのとき、それらの本に、同時代性を感じていたと思います。

普遍的な、何十年も読み継がれる本を書きたいと思ういっぽうで、今の人が「これは自分のことが書かれている!」と思えるような本を書ければ…と思います。

児童書の同時代の人たちといえば、10代までの人たちです。むずかしいです。当時の自分を思い出して書くのですが、時代背景、環境、身の回りの景色など、どこまで今の人たちの同時代性に迫れるかがポイントかな。

私は人より5年遅く大学に入ったので、入学当時は4、5歳下の人たちに囲まれていました。聞いている音楽や漫画もまったくわからないものばかり。最初は「なんだろうあれ…」なんて傍観していたものの、だんだんみんなと仲良くなるにつれ、文化がわかってきます。ついには「なんてすばらしい音楽(漫画)なんだろう!」と思うまでになりました。あれも同時代性だったと思います。

いっぽうで、この同時代の感覚は、一般には通用しない、普遍的ではないものなんだろうな、と思ってはがゆく感じることもありました。バイト先の人などに説明しても、まったく理解されないときなどに。
それだけ、自分「たち」の間では光る、大切な感覚だったのです。

本でも、そんな感覚を出せたらいいのですけど。

なんてことを、つらつら考えております。

※photoは、テレビでオーケストラを見ながら縫い物、の一場面。ネコは毎晩、こうやってのびてくつろいでくれています。

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家族のことを考える

2020年10月14日 | 個人的なエッセイ
みなさま こんにちは!
家のことを書くようになって、見てくださる方も増えました。
ありがとうございます。

家族とは何か、結局、このことをずっと考えている気がします。
2018年に刊行された児童文学『107小節目から』は、家族とのことをベースに書いたものでした。
あの本で、子ども時代の父との確執に正面から向き合うことができました。

ですが刊行のすぐ後に、こんどは母に病気がみつかり、一年後に亡くなってしまい、それからは、母との問題に正面から向き合うことになりました。

私と母の問題は、何も関係がないと思われたことでした。
母と自分の関係は、つらつらと作品に書いています。出版される見通しがあるわけでもありませんが、書かないと前に進めないし、母という人が見えてきません。

母は、何も言わない人でした。どういう人だったか、わかりませんでした。当時は、お互いがお互いをわかっていないんだから、それでいいんだと投げやりになっていました。
ですが、私が母をわからなかったことで、母はどれだけ悲しかったでしょうか。
母は伝える言葉を持たなかったのだと思います。いまになってそれがわかります。

私は母に何もしてやらなかったと後悔していますが、一緒に写っていた写真を見ると、母はそれでも楽しそうです。
ときどき、ふっと、母がもういないんだな、と愕然とします。
でもそれも、生きるということの一部です。

せめて、母が私との関係を楽しんでくれていたらいいな、と思っています。
そう思わせてもらえれば、私も前に進めます。

ほとんど接点のなかった母のことを、この一年はずっと考えています。
母が私に与えてくれた、家族についての課題だと思います。
「しっかり生きなさいな」と母が言っているような気がします。
親は、大きなもので子どもをつつんでくれているのかもしれません。

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兄との初めての会話

2020年09月23日 | 個人的なエッセイ
みなさま こんにちは!
お彼岸ですね。そんなおりに、兄と初めて電話で会話しました。

前回、自分から電話をしたのは、父が亡くなったことを知らせたとき。
それから25年以上たっています。

もともと、10年間をともに暮らしながらも、会話らしい会話はありませんでした。
兄が母の実子でないことを知ったのは、私が結婚するときでした。

前の晩からどきどきして、朝いちばんに電話をすると、
電話に出た兄は、思いのほか明るい声でした。

ずっと何も知らなかったことをあやまり、兄と父の確執、父が兄にした借金のことなど、
あやまりました。

兄は、ずっと、うん、うんとうなずきながら、聞いてくれました。
そして、もうそれはいいよ、過去のことだから、終わったことだからと言いました。
みんな棺桶に入っちゃったしな、と。

その電話の日から日々、兄と過ごした自分の子ども時代のことを思い出しています。
私にとって、兄は、家族を構成していた重要な一員でした。
父にも母にも頼れなかったので、会話がなくても、いちばん兄を頼りにしていたのです。

みんな棺桶に入ってしまいました。
兄との初めての会話は、自分の子ども時代の終わりを認めるものともなりました。

兄は自分の家族と、もうずっと前から新しい生活を歩んでいます。
兄の明るい声から、家族との生活が幸せであることが感じられました。

兄たちが遠くで元気に生きていてくれることは、やはり幸せです。

私も、自分のパートナーと、その家族たちと、絆をもっていこうと思いました。
みなが幸せに生きることが、遠くのだれかを幸せにすることだとも思えました。

みなさまも、よいお彼岸シーズンをおすごしください。
どのようなわだかまりの関係も、少しでもよい方向にほぐれていきますように。


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家の事情

2020年08月24日 | 個人的なエッセイ
家の事情を長文失礼します。

もう楽しいお話を書きたい。
母が亡くなって一年、ようやく、そう思えるようになりました。

で、その前にやることがあります。父の借金を確認すること、異母姉兄たちにお金を渡すことです。
家にあった借用書と、親戚のみなさんに問い合わせている感じでは、父の借金は一部をのぞいて、母が全部完済してくれたようで、ほっとしています。
一部とは、父が兄にしていた借金です。こちらは母のお金の用意があるので、私が返す予定です。

次に、その兄と、姉です。
ふたりには、父の借金と資産がほぼ同額ということで、父の死亡時に母が相続放棄をお願いし、そうしていただいています。

ですが母は生前に、いくらかは兄と姉にお金を渡さないとかわいそうだと言っていました。母が早くに繰り上げ返済をしてくれたため、思ったよりも返済額が少なく済んだからです。
その差額を調べようと、いま、実家を管理してもらっている不動産やさんに、資産としての家の査定をしてもらっています。こちらは無料とのこと。
※その後査定額がだいたいわかり、家は思ったよりも高く(今という時代もあるのかもしれませんが)、やはり兄と姉には返すべきお金があると判明しました。不動産屋さんに、きょうだい3人分の資料も作ってもらいました。

兄は連絡先がわかりますが、姉は会ったこともなく、相続放棄当時の住所には今は住んでいないようです。
困った。もう当事者は、私と兄と姉しかいません。兄は2歳のときに、実のおかあさんと別れたので、おかあさんが連れていかれた姉のことは、ほとんど何も知らないのではと、親戚の叔母が言っていました。

私自身、自分に異母姉がいること、兄とは異母きょうだいということは、結婚するときに初めて知りました。
母は兄をとても大事にしていて、私には関心がないように見えたので、私は母の実子ではないと思い込んでいました。

結婚前、現在の夫と、おかあさんのお世話は誰がするのということになり、私は「兄がやると思うよ」(他人事)と言っていたら、兄は母の子ではないという。

物心ついたときから、兄が私をきらっているように思え、私がかわいくなくてスポーツもできないからかな(兄は中学高校と野球選手)と思っていましたが、複雑な事情があったのでした。
もっと早くに知らせてくれればよかったのにと思いました。当時から、家の中で、両親の結婚のことは何も聞いてはいけないような雰囲気がありました。家はつねにさびしいというか、暗かったです。

戸籍をみると、母が結婚したのは、父が、兄と姉のおかあさんである人と別れてから10年くらいしてからでした。
母は、兄を好きだったようです。落ち着きがなくて、ケガばかりして帰ってくる兄を、大事にしていました。
しかし、兄は、さびしかったでしょうし、父を横取りした私を憎んだでしょう。赤ちゃんのころは、お世話をしてくれたそうです。葛藤があったと思います。

その兄も、父に反発して飛び出すように結婚してからは、ほとんど音信不通です。
ですが、連絡先はわかります。
これまで、法事で会うことはありましたが、年賀状を出しても一度も返事はなく、母が亡くなってからお金を返したいと手紙を出しても返事はなく、もう勇気を出して電話をするしかありません。電話で、きちんとおわびと、お礼をしたいと思います。

いっぽう姉は、存在も知りませんでした。父の亡きあとに、お墓参りに来てくれたそうです。私はもう結婚して東京にいましたから、お会いしていません。
姉がいると知ったとき、うれしかった。お姉さんがいるということが。
ですが、むこうは、いまさら異母妹と会いたくないかもしれません。母が生きているときは、母をおもんばかって、こちらから連絡はしませんでした。それも悔やまれます。

思い切って、電話をしてみたら不通。
当時の住所をグーグルマップで調べてみたら、どうも違う人が住んでいる様子。
親族のお名前を戸籍で確認して検索したら、インスタをやっている方を特定できました。
悩んだあげく、おもいきってフォローして、事情をメッセージ。
こうなると、まるで詐欺師か妖しい探偵のよう…。
ご連絡はまだありません。

コロナで、いや他の事情でも、これからどうなるかわからない。会えるときにおわびとお礼をしたいものです。
弁護士にお頼みすると今の連絡先を調べてくれるみたいですが、お金もかかりそう。
決めたときに済ましておかないと、一生、忘れてしまいそう。
そこで、投稿してみました。読んでくださったみなさま、家の事情ですみません。親族の方が見てくれたら、そして連絡をくれたらいいなと思っています。

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家族とは…

2020年07月03日 | 個人的なエッセイ
母とのことを小品にしてみようと思って書いてみたけど、そもそも母のことをなにも知らないので、うまくまとまらなかった。児童文学のサークルで合評にかけてもらったら、さまざまな意見をもらった。そうすると、やっぱり母のことをちゃんと書こうと思えてくるからふしぎだ。きっと誰にもわからない…などと、閉じこもっていたのだが、作品を提出した時点で人の目にさらすわけだから、やはりわかってもらいたいと思っているのだ。

母のことは本当に知らない。私の育児にかかわったのは、祖母と父だった。今は疎遠となった兄もお世話をしてくれたようだ。
母はいつも、仕事をしていた。それだけが、母なのだった。

実家の跡片付けをしていたら、父が亡くなるわずか前に、父名義の借金の連帯保証人に、母と私がなっていた書類が出てきた。思い出した。大学を出て、就職した年にそんなことがあったことを。
そのときの母の言葉も思い出される。「形だけだから」。本当に、母はひとりで、借金を返してくれた。それなのに、私は何も母に返してやれなかった。亡くなるときも、前日と朝、病院から電話があったのに、仕事の校了日で間に合わなかった。

母は私に何もしてくれなかったから、私も何もしなかった。ずっとそう思って意固地に生きてきた。大学も、自分で働いたお金で行った。でも、私立の美大だったから、奨学金だけではまにあわなくて、昼も夜もバイトで心身を疲弊させていたとき、母がお金を送ってくれた。自分だけで生きてきたつもりでも、そんなことがあった。

言い訳はもうしない。母にできなかったことは、できなかった事実として残っている。私は、母にしてやれなかったことを、夫にしてやればよい。ほかのだれかに返してやればよい。それが、母が残してくれた大きなものかもしれない。

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エル・システマの指揮者の人びと

2020年05月19日 | 個人的なエッセイ
みなさま、おひさしぶりです!
お元気ですか?
私はテレワークにしてもらいつつ、仕事は減ってきましたが、あいた時間に読書と執筆に励んでいます!

昨日、テレビでN響の定期演奏会を聞きました。
そのお話です。

エル・システマとは、ベネズエラのスラム街に1970年代にできたオーケストラです。スラムの子どもたちを非行から守るために作られました。

ここの出身者に、ロサンゼルスフィルの指揮者、グスターボ・ドゥダメルがいます。私、ダイナミックな指揮のファンで、サントリーホールに友人とマーラーを聞きに行きました。

昨日、N響を見たら、新しい指揮者が登場(だいぶ前からいたそうだけど)していました。ショスタコーヴィチ愛にあふれる、ラファエル・パヤーレです。
やっぱりダイナミックでした!
エル・システマの人の特徴かもしれませんが、とてもわかりやすい。観客が乗れるのです。微細な音の美しさを追求しているかどうかはわかりませんが、見た目に乗れるというのは私の指揮者ポイントでは優先トップです!

今回はショスタコーヴィチの交響曲5番のラストがすばらしかったです!スネアドラムのロールが、垂直に立つ指揮者を断頭台につれていくような、すごさがありました!
ショスタコーヴィチの5番は、スターリンの圧政下で隠れた自由を表現しているとも言われています。断頭台につれていかれつつも、心で自由を喝采している、そんな感じが伝わってきました。

勝手な解釈…終わります。😇
しかし、朝から音楽を聴くと、一日元気に過ごせそうです。

みなさまも、よい1日をお過ごしくださいね!

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