釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

「政治の自壊」

2012-01-31 19:17:48 | 文化
昨夜も小雪がちらつき、今朝は車に積もったその雪を出勤前に取り除いた。昼頃からまた空を雪雲が覆って、周囲は白銀の世界になってしまった。まだまだ寒波は続くようだ。震災後釜石では仮設住宅が真っ先に建設されて行ったが、途中からは仮設の商店街も造られるようになった。その一つに新日鉄の所有地に建てられた仮設商店街がある。そうした商店に来る客には他県から来ている人たちもいる。その客たちの中には、被災した商店主たちに傲慢な態度をとる心ない人たちもいる。支援者が必ずしもすべて心から支援する気持ちでやって来ている訳ではない。形は支援だがあくまで組織の指示でやって来たような人に特にそうした態度を見受ける。震災直後にも支援のふりをして、実際には取り残された物品を物色し、持ち去る人たちもいた。警備が強化されたために、最近はそれはあまり聞かなくなったが。海外が賞賛したように確かに震災直後は暴動のような状態は生じなかったが、実際には心ない行為がそれなりにはあったし、現在もあるのだ。昨日未明南米ペルーでM(マグニチュード)6.3の地震が起きているが、今日の読売新聞によれば、海洋研究開発機構などの研究グループが東北沖の新たな大地震の可能性を突き止めたという。昨年4~7月、宮城、福島両県の沖合250Km以上離れた海域に設置した20台の海底地震計で、プレート内部で起きる余震を観測、データを分析した結果、東日本大震災の地震により、東北地方に沈み込んでいる太平洋プレートの内部で力のかかり方が変化したことが明らかになった。東北を含めた糸魚川-静岡構造線以北の日本列島は北米プレートの上に乗っており、その北米プレートの下へ日本海溝で、太平洋プレートが潜り込んでいるが、太平洋プレートの潜り込んでいない浅い部分では引っ張り合う力が働き、深い部分で押し合う力が働いていた。しかし、震災後は東北の沖合300Kmで深い部分でも引っ張り合う力が働くように変化したために深いところで40Kmに渡って断層が動き、M8.1の昭和三陸地震と同じタイプのM8級の大規模地震が起きやすくなったのだ。津波の解析が専門の東京大学地震研究所佐竹健治教授によれば、10mの高さの津波が陸上を駆け上がる可能性が考えられるという。昨年の震災で防備はすべて破壊され、地盤も沈下しているので、前回より規模が小さくなるとは言え、再び大きな被害が出る可能性がある。1日の時間帯によっても被害状況は変わって来るだろう。対策を待ち切れず元の住居に戻った人たちが心配である。福島第一原発では23カ所の水漏れが次々に生じているようだ。昨年の夏にすでに現場の作業員たちから、急遽設置された冷却装置の多くの配管への冬場の凍結防止対策の必要性が訴えられていたにもかかわらず、保安院も東京電力も放置していた。昨年末になって、ようやく一部の対策が講じられたが、遅きに失したのだ。例年より寒い東北で、配管の凍結が配管の損傷までもたらしている。重大事故が起きても何ら反省の色を見せない保安院や東京電力は後手に回る対策しか講じることが出来ない。これが「安全」の実態だ。今月18日の原子力委員会新大綱策定会議で慶應義塾大学経済学部金子勝教授が提出した資料によれば東京電力は当面4年間だけで債務返済額3兆7,421億円をかかえており、潜在賠償見込額は6兆円近くに膨らむと考えられ、現時点の廃炉費用見込み1兆2000億円を加えれば、1兆円の公的資金注入と1兆円の銀行借り入れを考慮してもすでに債務超過は明らかで、破綻している、とされている。昨年8月共同通信の井田徹治編集委員は『原発の不都合な真実』と題する記事を書かれている。地球温暖化対策として政府は「クリーン」な原発を推進して来た。しかし、原発の新増設をして来なかったドイツ、デンマーク、スウェーデンなどで二酸化炭素排出量が削減されているのに対して、事故後の昨年6月にもまだ「2020年までに9基、2030年までに計14基の原発を新増設する」と打ち出している日本では1997年の京都議定書以後も二酸化炭素排出量は増加し続けていることで原発推進の根拠は失われているとしている。米国の国務省にも在籍した著書『歴史の終わり』で知られるスタンフォード大国際問題研究所上級研究員フランシス・フクヤマ氏は共同通信のインタビューで「平穏で安定し、経済成長を何十年か続けてきたうちに、先進民主主義諸国は、ある種の共通した問題を抱え込んだ。さまざまな利権集団が生まれて、強い影響力を持つようになり、自己の権益を守ろうと民主的政治制度を操る術を覚え込んだ。そのため、政治制度はまったくと言っていいほど身動きがとれなくなっている」「その一例が、規制当局と癒着し、市民の安全を犠牲にしてまで自己利益をうまく図ってきた日本の原子力産業界だ。米国では、保険会社と医療業界がつるんで、本格的な医療保険改革を難しくしている。金融業界も強くなりすぎて、激しい富の集中と格差が生じている」「それが先進民主主義社会が直面している政治の自壊という問題だ」と指摘されている。政治の自壊は同時に民主主義の崩壊をも伴っている。
甲子川で寒さの中でも元気に泳いでいたホオジロガモの雌

『今そこにある危機』

2012-01-30 19:21:51 | 文化
今朝も冷え込みが続き、ー7度だった。盛岡市ではあるがかなり郊外の山間部にある薮川地区ではー25.8度まで下がった。花巻市の北になる紫波町でも-16.4度となり観測史上最低になった。晴れてはくれたが風が冷たく寒い。今日も仮設住宅では水道管が凍ってしまっているだろう。東海・東南海・南海の3地震が同時発生するいわゆる「連動型巨大地震」は1707年の宝永地震に関連する古文書から推測されて来ただけであったが、東京大大気海洋研究所の朴進午准教授(海洋地質学)らはこのほど東南海地震の震源域ですでに見つかっている断層の西側の紀伊半島沖の南海トラフ沿いでこの断層に続く新たな断層を発見しており、連動型巨大地震が実際に起きたことが明らかとなった。1995年1月に起きた阪神・淡路大震災以来日本列島は地震活動期に入っており、昨年3月11日の東北地方太平洋沖地震はさらに他の地震や火山噴火を誘発する大きな要因となった。54基の原発が並ぶ日本列島は内陸の断層も多く、国内でもはや安全な場所と言えるところはなくなってしまった。1929年に発生した世界恐慌では各国がともに緊縮財政をとったために恐慌から抜け出すことが出来ず、「第二次大戦」によって解決されるという惨めな歴史を残した。今世界の主要国は財政難を抱え、特にギリシャ危機を抱える欧州では緊縮財政がとられている。基本的には日本も同じであり、日本はさらに消費税増税により財政難を解消する方向へ進めようとしている。社会保障との一体改革という官僚お得意のうたい文句で実は財政難の補填でしかない。健康保険料の一体化がなされれば、それだけでも1兆円以上の国庫の余裕が生まれると言うのに公務員の優遇された環境を崩したくない官僚たちはそれには一切手を触れようとしない。消費税増税は2014年8%、2015年10%に上げられるが、10%で得られる税収見込みは12.5兆円しかない。昨年1年間で円高是正名目で為替介入には14.3兆円も使われている。円のわずか「1日」の売買が90兆円もある。1年間で14.3兆円など焼け石に水である。しかも、介入で得たドルは毎年価値を下げている。世界の経済をリードして来た日欧米は失速状態にあり、欧米の消費税と異なり、日本の消費税は対象品すべてが一律の税率になっている。税率の高いと言われる北欧は対象によって税率が変わり、低所得者の生活をできるだけ圧迫しないように考えられている。経済が上向けば税収は期待以上に得られるが、経済が低迷している時の増税は確実に経済をさらに悪化させる。特に消費は手控えられるために、消費税は「想定」通りに得られなくなるばかりか、税収全体が落ち込んでしまう。今や世界は1929年前夜に向かいつつある。税収は名目成長率に連動するようだが、米国は先日2%のインフレ目標を設定した。資本主義経済の成長はインフレと不可分だ。インフレがなければ成長はないと言ってもいいくらいだ。しかし、先進国と言われる国で日本だけはかたくなにそれを避けようとして来た。1989年に3%でスタートした消費税は1997年に5%に引き上げられて以来経済は低迷から抜けられないままになっている。無論1997年にはアジア通貨危機もあったが、その影響が去っても低迷が日本では続いている。この20年政治家たちが耳に響きのいい「改革」を掲げて来たが、すべて官僚たちの作り上げた「お題目」にしか過ぎず、実際には何の改革もなく、むしろ、「前例踏襲」だけが継続されれてきた。真剣に考えれば1000兆円にも達する国の借金をわずかな消費税で穴埋め出来るわけもない。官僚たちはともかく単年度の収支にとりあえずけりがつけられればいいのだ。だからこそ、政治家がビジョンを持って、しっかりとした改革をやる必要があるのだが、政治家の質は低下し続けており、もはや行き着くところまで行くしかないようだ。ただそれが1929年同様に「戦争」でないことを祈るばかりだ。
晴れた日の「釜石ブルー」

地震と噴火

2012-01-29 19:16:44 | 文化
今朝は-7度になっていた。日中もほぼ氷点下で晴れていても寒い。しかし、空は澄み切った「釜石ブルー」が広がっていた。午後には久しぶりに白く雪が残った庭に小さく可愛い黒っぽいミソサザイが姿を見せてくれた。昨夜も岩手県沖でM4.9の地震があった。以前程頻回ではないが、相変わらず余震が続いている。昨年1月鹿児島・宮崎県境の霧島連山、新燃岳(しんもえだけ)が噴火しているが、火山周辺の地殻変動をGPS(全地球測位システム)で観測すると、地下のマグマだまりの大きさを推定できるそうで、ここしばらくは噴火は見られないが、専門家によれば地下ではマグマだまりが既に昨年を上回る大きさまで膨らんでいるという。富士山についても地下でのマグマだまりに関連する隆起が起きている。地殻変動による影響は地震だけではなく、火山の活動にも大きく影響する。昨日の午前7時43分、富士五湖直下を震源とするM5.4の地震が発生し、最大震度5弱を観測した。気象庁はこの地震について「富士山の活動とは関係ない」と発表する一方で、「すでに日本は地震活動期に入っている。M9の東北地方太平洋沖地震によって活発となったプレートの動きが富士山の火山活動に影響を及ぼしている可能性が高い」と考えてもいる。1707年のM8.6の宝永地震では49日後に富士山の宝永大噴火が起きている。その後300年間富士山の噴火は起きていない。千葉大学大学院理学研究科の津久井雅志准教授は「地震の揺れがマグマだまりを刺激することになり、影響が心配です」と語り、東京大学地震研究所の武尾実教授も「富士山のマグマだまりは地下10キロ以内に1つ、15キロより深い場所に1つ。少なくとも2つあるといわれています。噴火発生前には地震が頻発する傾向にあり、警戒が必要です」と述べている。昨日たまたま1984年に製作された映画『空海』をDVDで観た。その中で修行中の空海が富士山の噴火に遭遇する場面があった。その頃富士山は781年、800年、802年、864年と続いて噴火している。864年の噴火は「貞観大噴火」と呼ばれており、869年に起きたいわゆる「貞観大地震」と連動した地殻変動であった。富士山の青木ヶ原の大樹林に見られる溶岩群はこの時の噴火で形成されたと言われる。当時富士山北麓には広大な湖が広がっており、『日本三代実録』では「(せのうみ)」と呼ばれており、「青木ヶ原樹海」もやはり、そこにあったために流れ出した溶岩で埋められた。去る23日には静岡県は東海・東南海・南海の3連動地震を踏まえ、巨大地震によって誘発される富士山の噴火や、中部電力浜岡原発(御前崎市)の事故を盛り込んだ第4次地震被害想定を来年6月をめどに公表する方針を打ち出した。しかし、昨日のような富士山直下型地震が発生していることを考えると来年6月などという余裕はないのではないかと心配される。現在中部電力浜岡原発は運転を停止しているが、核燃料からは崩壊熱が出続けており、使用済み核燃料プールとともに冷却を続けなければならない。浜岡原発は相良-掛川層群比木層 という砂と泥からできた地層であり、地盤としては極めて問題がある。北海道大学平川一臣教授らの浜岡原発周辺のボーリング調査結果で、8000年以上前から100 - 200年周期で東海地震が起きており、さらに従来想定されていた東海地震とは別タイプの大規模地震が約4800年前、3800 - 4000年前、2400年前、それ以降にもう一度発生していることを確認したという。地震や富士の噴火で核燃料の冷却が継続出来なくなると福島第一原発事故以上の放射性物質の拡散に繋がる恐れがある。現在の運転停止は決して「安全」を保障するものではない。日本の科学や技術は確かに水準が高いが、ロケットの独自開発にも失敗しており、世界で最も科学と技術の水準が高いと言われる米国ですら断念した核燃料サイクルでも成功に覚束なく、膨大な国費が費やされている。今回の震災は自然がいかに強大な力を有し、人の信頼する科学や技術が脆いかを教えた。しかし、その後の国や科学者とされる人たちにはそうした自然の教えに耳を傾ける姿勢は見られない。このまま行けば大惨事は再び避けられないことになるだろう。
釜石駅前の「日本近代製鉄の父」大島高任の像と「高炉の火」のモニュメント
震災で「高炉の火」は一度消えてていた。4トンの鉄鉱石には「ものづくりの灯を永遠 に」と刻まれている

「個」への配慮

2012-01-28 19:25:36 | 文化
今日と明日は釜石の最高気温が氷点下になっている。気温が低い日が続くため、先日降った雪が凍ってそのまま残っている。昨日は朝も夜も外の水道が凍ってしまった。昨日も毎週金曜日応援に行っていて、震災の日もそのために危うく津波にのまれるところだった関連施設に行った。そこの同僚の方は自宅の水道まで凍ってしまったそうだ。今朝も晴れたので、放射冷却で-10度まで下がった。おそらくその方の家の水道は凍ったままだったのだろう。水道が凍ると水道管に通電して、水道管を熱する方法があるが、その方の話だと、そのやり方だと火災が発生する場合があるので、専門業者は最近は極めて細い内視鏡のようなドリルを水道管の蛇口から入れて、中の氷を直接砕くのだそうだ。しかし、残念ながらそうした最新兵器を持っている業者は限られるのだという。結局その方も通電方法しか出来なくて、駄目だったようだ。住宅と違って仮設住宅はあくまで仮設なので、造りはそれなりだから、今朝もかなりの仮設住宅で水道管が凍ってしまっているだろう。昨日行った関連施設に臨時で神奈川県の小田原から来られた方がいたので、今冬の小田原の寒さを尋ねてみたが、やはり小田原も例年より寒いと言われていた。ただ東京のように雪は降らなかったそうだ。さすがに小田原は暖かい地域だ。今日一日は娘はNPOのイベントがあるため普段より早く出かけた。明日も何か仕事があるようで、変わりに月曜に休むんだと言っていた。被災者の支援と一口に言っても、実際には結構大変だ。頑張って支援したつもりでも、被災者側から不満が出る場合もあり、そうそう報われるものでもない。ほんとうに被災者が何を望んでいるのか十分被災者の声を聞いた上で立てられた企画というのは実際にはあまりないのだ。大半が各地からやって来たNPOが自分たちで勝手に決めた、支援物資を持ち込んだり、イベントを行ったりしている。よく娘が言っているのは、支援物資を闇雲に送って来て、配布をすべて現地任せにするものが多いと言うことだ。この配布に人手がかかり、しかも中にはただ売り残ったから送って来たというような品物もあり、誰も使いそうになかったりするものもあって困るのだ、ということだ。送る方は捨てるよりはという気持ちなのだろうが、被災者の気持ちというのが頭にはないのだろう。イベントも同じだ。釜石には新日鉄全盛時代からそこで働く人たちのために安く飲める「のんべい横町」というのがあったが、そこも津波で見事にやられてしまった。昨日その「のんべい横町」の一部が仮設で再建されたが、その式典があり、市長や来賓の挨拶があり、演歌歌手の歌なども披露されていたようだが、取材した娘は寒さの中集まった人も少なく、とても寒さに耐えられず、最後までいられなかったそうだ。市長も天皇や総理大臣から様々の国や県の役人との応対や、各地からやって来るこれも様々な支援者との応対と、大変だろうと思う。娘も会議で何度も市長には会っているが、その度に毎回名刺を渡される、と言っていた。市長の忙しさを思うと、釜石の復興を真剣に検討する余裕があるのか、心配になる。まあ、実務は副市長以下がやってくれてはいるのだろうが、その副市長すら、忙しく会合へも出席しているのだ。市の幹部がこういう状態だから、かえって、現場に出ている市の職員たちの努力が見えていないようだ。ここでも地道な努力が報われていない。被災者も周囲で「復興」と言われていても、そう簡単に復興の意欲が出る訳ではない。家を失い、家族を失い、職まで奪われてみれば、その喪失感は簡単に癒されるものではない。それぞれがそれぞれの問題を内に抱えたまま毎日を送っている。先が一向に見えて来ないのだ。「心のケア」が確かに必要なのだが、阪神大震災や中越地震があっても、日本にはそうした人たちのほんとうの意味での「心のケア」が出来る体制が作られていない。平時であれ、震災時であれ、日本と言う国は「個」への配慮に欠ける国になってしまっている。特に、「心」の面では明らかに「後進国」だ。
滑り易くなった歩道を足下に注意しながら歩いていた老人

釜石が語る教訓

2012-01-27 19:23:41 | 文化
昨夜も今朝も庭に出ると手足が寒さで痛くなって来た。今朝は-7度だ。連日外の水道は凍ってしまっている。釜石へ来てからこんな冬は初めてだ。家のすぐそばに職場の関連施設があり、そこに今朝出勤して来られた同職の方が一面凍った路面に集中して自転車のハンドルを操作しておられた。こちらが近くにいることも気付かないし、こちらも危ないので声をかけるのを控えた。よくこの路面を自転車で来られたものだと感心した。手には軍手をはめておられた。タイヤは恐らくスタッドレスではないはずだ。日中も風がひどく冷たかった。三陸の海はとても豊かであるが、この豊かさは昔からずっと続いていた。正規の文献とされるものの中で初めて三陸が登場するのは『続日本紀』巻第七「霊亀元年十月」(715年)の条だ。『又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以来。貢献昆布。常採此地。年時不闕。今国府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請、於閉村。便建郡家。同於百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。』蝦夷の須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)らが『先祖以来』献上している『昆布』を運ぶのに『国府』が遠く離れているので『閉村』に『郡家』を建てて欲しいと請願している。この時代も三陸沿岸では昆布が献上されるほどに特産物になっていたのだ。ここで『閉村』は多くは現在の宮古市とする説をとっているが、『北上市史』ではさらに現在の宮古市の「大須賀」あたりで、津軽石川の河口付近だろうとしているようだ。山内丸山遺跡で知られるように縄文時代の津軽は国内でも繁栄を誇った地であり、弥生時代以後東北に打ち立てられたと思われる荒覇吐王国の中心でもあった津軽の人たちが太平洋側の交易を行うのに現在の宮古市の「津軽石」に拠点を置いたものと考えられる。従って「蝦夷の須賀君古麻比留」もここを治めていた人物だろうと思う。この太古から豊かであった三陸の地を何度も津波が襲った。昨夜の時事ドットコムによれば「下北沖にM9級震源域か・・・切迫度高い」とある。地層の堆積物から津波の痕跡を調査されて来た北海道大学の平川一臣特任教授(自然地理学)は過去の震源として「(1)根室沖-襟裳岬(2)下北-陸中沖(3)陸中-常磐沖。」の三カ所が注目され、(2)の「下北-陸中沖」が既に800~900年が経過しているため、およそ1,000年間隔の発生を考えると警戒が必要なのだと言われる。記録が残る1896年の明治三陸地震も1933年の昭和三陸地震も震源地はいずれも釜石沖200Km前後のところであった。明治三陸地震では震度はわずか3しかなかったにもかかわらず、津波は釜石市の小白浜で16m、両石で14.6mにもなった。昭和三陸地震の場合は震度が5で、津波は小白浜で6.0m、両石で9.5mとなっている。当然被害は明治三陸地震の方が大きい。当時の釜石町(釜石村と平田村が合併)の人口6,529名中死者行方不明者は4,985名にも達した。ちょうど津波が襲った午後8時頃は日清戦争が終わり、帰郷した戦勝兵士たちを祝う酒宴が催されていた。今は釜石市に合併されている当時の唐丹村などは人口2,807人中2,100人が亡くなっている。流失家屋は341戸あり、壊滅状態となった。昭和三陸地震の場合は釜石町では火災が発生し、249戸が焼失している。死者・行方不明者は403人だ。唐丹村は359人だった。地震の震度と津波の高さは比例しておらず、地震による犠牲者と津波によるそれとの違いは、犠牲者の傷付き方だ。津波では流される家屋や建材などにより犠牲者の肉体が極度に破壊されることだ。それだけに津波が引いた後の惨状は凄まじいものがある。明治三陸地震の釜石の状況は「1896年明治三陸地震津波による釜石市の状況」で見ることができる。現在よりずっと山が海に迫っている。つまり現在はこの頃よりさらに海を埋め立てたり、山を削って平地を広げていると言うことであり、それだけ津波の被害地域になる可能性のある範囲を広げてしまった、と言うことになる。江戸時代には薬師公園の下は海だった。30年の歳月と1,200億円をかけて造られた防潮堤を信じ過ぎたのだ。原発の安全性を信じてしまったのと同じく。岩手の三陸沿岸に伝承されて来た古人の「津波てんでんこ」(津波が来た時には家族や友人にかまわず、個々がともかく逃げろ)こそ現代人が学ばねばならないことなのだ。防潮堤ではなく、高台移転なのだ。原発推進ではなく、廃止なのだ。これほどの惨事に学ばなければまた必ず同じことを繰り返すことになるのだ。
雪の大樹

子供たちの被曝低減は大人の責任

2012-01-26 19:19:59 | 文化
明日からは裏日本中心に大雪が予想されている。釜石も週末は気温がさらに下がるようだが、雪は予想されていないようだ。今朝はまた地鳴りとともに地震があった。宮城県沖を震源とするM5.1の地震で、釜石は震度2のようだが、体感的にはもう少しあったのではないかと思えた。まだ眠気の去らない時間だったので、そう感じたのかも知れない。今日も釜石らしい青空が広がっていて、職場の駐車場から見える裏山に何日ぶりかでゴイサギが同じ枝に戻って来ていた。少し安心した。甲子川もよく観察すれば、多種の野鳥を見ることが出来るのだが、残念ながらゴイサギを甲子川では見かけたことがなかった。愛知県にいた時は何度か見かけたことがあったが、釜石では初めて裏山の木に休んでいるのを見つけた。冬至が過ぎて1ヶ月を超えて来るとさすがに日が長くなって来たことが分かる。日が沈んだ西の空に愛染山が黒くシルエットを浮かび上がらせ、その上には傾いた上弦の月が顔を出し、東の空にはオリオン座の三ツ星が並んでいる。午前中には平田地区のコミュニティ型仮設住宅で市や各団体が出席する会議があり、娘も出席していた。職場の同僚で、市の部長職も兼務されている方から、会議終了後に職場に戻られた時、娘がタイミング良く発言したことをお褒めいただいた。意欲的なのはいいが出しゃばり過ぎないように、常々娘に注意していた。昨年12月宮城県は県内33市町と共同で東京電力に対して約3億7326万円の損害賠償を請求したが、本日岩手県も放射線量を測るサーベイメーターなどの機器購入や牛肉検査、除染などで県と市町村が負担した費用のうち、昨年11月末までの確定分を東京電力に請求した。厚生労働省の委託を受けたいくつかの機関が各地の放射線量を測定しているが、北海道の室蘭沖のマダラからも国の規準値内ではあるが測定のすべてにヨウ素131、セシウム134、セシウム137が検出されている。24日に福島県の相馬地方森林組合が開いた放射性物質が森林に及ぼす影響について説明する会合で、東京農業大学の林隆久教授は相馬市や南相馬市などの山林を調査したところ標高4百メートル以上の山のふもとで放射性物質による汚染が悪化する傾向があると報告している。さらに採取したスギやヒノキなどを詳しく調べたところ、表面の樹皮にとどまらず、樹木の内部にまで放射性セシウムが浸透し、濃度は数百から数千ベクレルに達していた。樹木の場合は表面の除染だけでは済まないどころか、建材やその他の用途にも使えないということになる。海や山の汚染は確実に広まっている。今後はそうしした場所を生活のよりどころとしている人たちからも賠償請求が出るようになるだろう。一度汚染されてしまうと実質的には確実な除染など不可能だ。汚染とともに暮らして行くしかない。問題はその中で妊婦や子供をどう守って行くのか、だ。昨日書いた南相馬市で医療支援をされている東京大学医科学研究所の坪倉正治医師も述べておられるが、一般論ではなく、現場の個々の問題にいかに個別に具体的に答えられるかが問われている。今回の原発事故は日本では初めての経験であり、国をはじめ東京電力やそれに関わる多くの原発推進に協力して来た大学教授たちは汚染の影響はないという立場に立つので、それらの人たちの言説は何の役にも立たない。今の日本が唯一参考に出来、具体的な対処法を学べるのはチェルノブイリしかない。昨年11月08日NHKの石川一洋解説委員が解説委員室ブログに記しているように国土の23%が放射性物質で汚染されたベラルーシでは全国に放射線検査所が860カ所設けられ、放射性セシウムについて年間1,100万個の食品がチェックされ、現在の日本よりはるかに厳しい内部と外部合わせて年間1mSv以下が適用されている。土壌研究所では各地の土壌のカリウム含量毎に作付け作物を決定し、作物の汚染を減らそうとしている。ベラルーシ・ベルラド放射能安全研究所の副所長であるウラジーミル・バベンコ氏がまとめた『自分と子どもを放射能から守るには』が京都大学原子炉実験所今中哲二氏の監修で日本語訳され、出版されている。具体的な家庭で取り組める食品の安全性を少しでも高められる方法が書かれている。被曝の影響は30歳が境となっており、若ければ若いほど大きくなる。逆に30歳を過ぎると年齢とともに影響は少なくなって行く。乳幼児がもっとも守られる必要がある。福島県が実施した甲状腺検査で、先行して検査を受けた18歳以下の子供3,765人のうち、26人に一定の大きさのしこりを甲状腺に認めたが、検討委員会座長の山下俊一福島県立医大副学長は「原発事故に伴う悪性の変化はみられない」発表している。では、その「しこり」の原因は何に由来するのだろう。山下氏は「年に100ミリシーベルトを浴びても大丈夫」で「名を上げ」、『ミスター100ミリシーベルト』と通称されるようになった人だ。
釜石駅前の「復興の鐘」
鐘には「鎮魂」「復興」「記憶」「希望」の四つ文字が刻まれている。向こうに白っぽく駅舎が見える。

隠蔽により創り出された「あいまいさ」が分断をもたらす

2012-01-25 19:11:35 | 文化
3日前の雪と違って昨夜降った雪は北海道ほどではないが、ややパウダースノーに近い雪だった。車に積もった雪を払っている間に手袋をしていなかったため手がかじかんで来た。よく晴れたので放射冷却で気温が下がり、軽いパウダースノー様の雪になったのだろう。今回は国道も雪が残っていて、車もスピードを落としていた。気温が上がって来ると融け始めた雪が高みから次々に落ちて来る。夕方また気温が下がって明日の朝はもっと滑り易くなっているかも知れない。葉が落ちた木に積もった雪が真っ白な花のように輝いているのもほんとうにきれいだ。近くの仮設住宅のお年寄りが普段以上に足下に気を付けながら買い物から帰って来ていた。今朝もあちこちの仮設住宅で水道が凍結してしまったようだ。屋内の水道が凍結すると外の水道とは異なりお湯をかければ解除できるというものではないので厄介だ。専門業者に通電してもらって、水道管を熱してもらわないと凍結を解除出来ない。台所仕事も、洗濯もできず、風呂にも入れない。何日もそんな状態に置かれた仮設住宅もある。原発事故が「想定」されていなかったのと同じく、寒冷地での仮設住宅の必要性も想定されていなかったのだ。毎日新聞が何回かに分けて『この国と原発:第4部・抜け出せない構図』の特集を組んでいるが、その中でも書かれているように政府の原発予算枠は事故後も変わることがなく、変わらないだけでなく、事故にかこつけて新たな組織をさらに付け加えてもいる。その一つが「原子力規制庁」だ。最初は「原子力安全庁」としようとしていた。大地震や大津波、それに伴う原発事故の警告を発していた研究者がいたにもかかわらず、政府も東京電力もこぞって想定外だと訴えて来た。これはある意味で真実を述べている。政府も東京電力もそうした事態を全く考えて来なかったばかりか、それらを否定する立場を押し通して来たのだ。実際にそうした事態が発すれば、パニックは政府や東京電力そのものに起きたことがその後の経過で明らかになった。パニックは正常な判断を妨げる。津波や原発事故への対応が誤るのも当然と言えば当然なのだろう。しかし、パニックの時期が過ぎてからも、政府や東京電力の姿勢には何ら反省が見られず、従って事故以前と変わらぬ姿勢を続けている。原発から出る使用済み核燃料を再利用する「核燃料サイクル」事業の見直しをしていた国の原子力委員会の小委員会は技術面から検討した五つの選択肢を示したが、サイクルの中止に繋がる案はわずか1つだけだ。もうすでに原発推進が前提であるのは見え透いている。22日の同じく毎日新聞に何冊か著書を読ませていただいた精神科医の斎藤環氏が「時代の風:放射能トラウマとリスク」と題する記事を寄稿されている。福島県南相馬市で除染活動をされている東京大学児玉龍彦教授らとともに医療支援をされている東京大学医科学研究所の坪倉正治医師からの話を引用されながら「現時点で慢性被ばくによる大きな実被害の報告は、ほとんどない」状態ではむしろ「放射能トラウマ」の影響の方が重要で、「低線量被ばくの危険性がはっきりしないという問題がある。」状況で、「立場は二つに分断される。「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」とする立場と、「安全であるという根拠がないので危険」とする立場。」だとされ、「リスクによる分断」により、他の立場への攻撃が強まっており、そこには「「隣組」的な心性があるように思われる。」とされている。社会学者のウルリッヒ・ベック(「リスク化する日本社会」岩波書店)の提唱する「リスクによる連帯」の必要を説き、さらに、「「連帯」の手前で問われるのは、私たちの「死生観」そのものなのではないか。」とされている。斎藤氏自身は最近は「危険であるという根拠がないのでさしあたり安全」とする立場に変わって来たと述べられている。確かに安富歩東京大学東洋文化研究所准教授も著書の中で、原発反対者の中にもユダヤ人陰謀説などオカルト的な人がいることに言及され、危惧を示されてもいる。しかし、斎藤氏と安富准教授の基本的な違いは「「これ以下は安全」という「しきい値」」はないという事実に後者が立脚していることにある。今や原発推進の立場に立つ国際原子力機関IAEAですら「しきい値」はないとしている。「危険であるという根拠」はすでに誠実に探せばしっかりと示されている。斎藤氏の低線量被曝に対する見識をもう少し医師として高めていただきたいと思う。チェルノブイリ原発事故は惨い犠牲の上で貴重な事実を残してくれている。以前にも紹介したがベラルーシのアレクシー・ヤブロコフ(Alexey V. Yablokov)博士ら3名の研究者が英文に限らず公表された5000以上の論文や、現場の病状を見て来た医師や保健士、科学者からの聴取も含めて書いた『Chernobyl』(「チェルノブイリ~大惨事の環境と人々へのその後の影響」)は「しきい値」がなく、1986年から2004年までに98万5千人が死亡したことを報告している。この本は現在有志の手で邦訳に取り組まれている。IAEAのHPに掲げられた「チェルノブイリフォーラム」調査報告書は英文に限られた公開されたわずか350の論文で結論を出したものであり、意図的に、これを「安全論」の論拠とされている。これではチェルノブイリの犠牲者が無駄死にしたことになるだろう。
家の近くの公園に建てられた仮設住宅にも雪が積もっていた

詩人たちと津波

2012-01-24 19:16:20 | 文化
今朝は-5度まで下がって、また庭の水道が凍った。一昨日から降った屋根の雪が昨夜は大きな音を立てて、下へ落ちて来た。運良く外へ出ていなかったので助かった。まともに当たればかなり酷いことになっていただろう。釜石へ来て初めてのことだ。今朝は寒かったが、朝焼けの空がきれいだった。青空が広がり、1日晴れてくれた。岩手県からはよく知られる詩人二人が出ている。石川啄木と宮沢賢治だ。東京生まれの詩人高村光太郎も1945年の空襲で駒込に建てたアトリエが焼かれてからは岩手県の花巻郊外の山裾に現在も高村山荘として残る小屋を建てて7年間疎開していた。光太郎は1931年に三陸を旅しており、宮城県石巻市から船を使って、気仙沼、釜石、宮古まで巡っている。『三陸廻り』には「いつ知らずうとうとするまに、「快挙録」で知つていた綾里や、越喜来や、津浪惨害の甚大で聞えた吉浜を濃霧の中に通り越し、しらしら明けの空に尾崎の三角岩があらはれる。やがて船はもういいといふやうに勢よく汽笛を鳴らして釜石港の午前六時に挨拶する。」とある。戦争中智恵子亡き後、戦意高揚の詩を書いた光太郎は、敗戦後は花巻の小屋で出歩くことなく、黙していたようだ。啄木は1900年盛岡中学時代に14歳で教師に連れられた7人の生徒の一人として、陸前高田から北上して沿岸部を歩いている。啄木は北海道へ渡った後にも、もう一度三陸を歩いている。三陸沿岸部には従って各所に啄木の歌碑が建てられている。最初に啄木が歩いた時は明治三陸大津波から4年後であったので、まだ津波の爪痕は残っていたと思われる。大船渡市の北端になり、釜石市に隣接する吉浜にも啄木の歌碑が建っている。「潮かほる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや」。今回の津波はこの歌碑のところも襲っている。しかし、吉浜の人々は明治の大津波の教訓で高台への移転を行っており、今回の津波の被害は少なくて済んでいる。ただ人々が移転して畑地となっているところはすっかり荒れてしまった。啄木は大津波の4年後の吉浜のどのような光景を見たのだろう。啄木は津波については特に書き残してはいないが、この旅で「ああ惨かな海嘯」と書かれた碑を見ているようで、旅の最後には釜石の従兄弟の家に泊まっており、この従兄弟は津波のためにいなくなった医者を補うために釜石へ赴任したようだ。おそらく旅の中で多くの津波被害の話は聞いているのだろう。啄木より10歳若い宮沢賢治も三陸沿岸を旅している。明治三陸大津波は1986年に発生しており、この津波の直後に賢治が生まれている。偶然だが、賢治は昭和三陸津波の1933年に37歳で亡くなっている。賢治は1925年1月に花巻を発って、八戸へ出て、三陸沿岸を南下し、釜石から徒歩で仙人峠まで至っている。当時の岩手軽便鉄道は花巻からこの仙人峠までしか来ていなかった。仙人峠の釜石側は難所だったのだ。峠に立って歌った詩に「黒い岬のこっちには 釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド」の節がある。製鉄所によって繁栄を続けていた釜石は、この時すでに再建された遊郭や料亭でにぎわい、暗い夜のしじまの中で、その明かりが華やかなエメラルドの輝きを放っていたのだろう。『遠野物語』で知られる民俗学者の柳田國男も1920年に二ヶ月かけて仙台から石巻、気仙沼、釜石、宮古、八戸と三陸沿岸部に沿って、明治三陸大津波の伝承を記録して歩いている。その記録は『雪国の春』に「豆手帖から」として収録されている。柳田の1910年に発表された『遠野物語』にも遠野の土淵村の助役の弟が、現在の山田町の船越半島の南側の付け根にあたる田ノ浜へ婿に入り、そこで、明治三陸大津波に会い、妻子を失った話が載せられている。亡霊となった妻が若い頃の恋人である別の男と歩いているのに出会う非常に切ない話だが、こうした伝承は三陸沿岸部にはたくさんあるようだ。

向こうに見える山と右端の山に挟まれて釜石市街が広がる。火力発電所の煙が今日は海に向かって流れている。
左手が海側で見えているところは海から1Kmも離れていない。山に挟まれ右手奥に甲子川に沿って市街地が広がる

隠蔽や欺瞞をも乗り越えて

2012-01-23 19:20:29 | 文化
今朝はあちこちから雪かきの音が聞こえて来た。幸い曇天だったので気温が極端に下がらなくてよかった。それでも車の窓は昨夜の雪かきにもかかわらず、凍り付いていて、今朝は専用の道具を使って薄く張った窓の氷かきをやらねばならなかった。それをしないと中からは全く視界が利かない。家の近辺の道路は雪が凍っていて、ブレーキを踏むとスリップする。表通りは曇天のおかげで凍っておらず、運転も思ったより楽だった。後から家を出た娘もどうやら無事に職場まで運転出来たようだ。昼頃から青空が広がって来たのでちょうどいい気温の変化になった。東京新聞によると今回の震災で被害の大きかった東北沿岸部の岩手、宮城、福島3県の昨年11月の失業手当受給者のうち、女性が3万7601人と、男性(2万6631人)の約1.4倍に達し、被災地の自治体が雇用対策として提供する短期的な仕事や復興需要が建設、土木関係など男性が就きやすい仕事が多く、震災前に女性が多く働いていた水産加工業の復旧が遅れていることが原因だという。また、同紙によれば、宮城県石巻市立大川小学校は津波で全校児童の7割に当たる74人が死亡・行方不明となっており、昨日校長が「津波被害は想定しておらず、教員の危機意識の低さが原因。申し訳ない」と保護者に詫びたという。確かに、過去に三陸ほどの津波被害が無ければ地震と津波は直結して思い浮かばないかも知れない。当時、自分でも地震直後に津波のことは全く思い浮かばなかった。今日の各紙が報じているが東京大学地震研究所の研究チームによると「マグニチュード(M)7級の首都直下地震が今後4年以内に約70%の確率で発生する」という。震災後首都圏では地震活動が活発化しており、気象庁の観測によると12月までにM3~6の地震が平均で1日当たり1.48回発生しており、震災前の約5倍に上っているそうだ。政府の地震調査研究推進本部が以前発表していた「30年以内」よりはるかに切迫している。首都圏だと石巻市以上に地震そのものへの意識もなく、まして、津波の意識なども全くないだろうと想像出来るだけに、被害は極端に大きくなる可能性があるように思う。震源がさらに南と連動すれば静岡県の浜岡原発の存在も憂慮される。昨日の共同通信によれば原子力委員会の近藤駿介委員長が作成した「福島第1原子力発電所の不測事態シナリオの素描」が最悪の場合の内容が凄まじいため、昨年3月下旬政権中枢で「なかったこと」として封印され、昨年末まで公文書として扱われていなかったことが明らかにされている。本年夏の電力需要予測についても、実際には6%の余裕があるにもかかわらず、政府は「全国で約1割の不足に陥る」と公表していたことが毎日新聞で報じられている。公表された試算には、再生可能エネルギーがほとんど計上されていなかったという。現在、原発は54基中49基が停止しており、残りの5基も定期検査が控えているため、再稼働がなければ原発ゼロで夏を迎えることになる。政府は何とか再稼働を進めようとして、情報の隠蔽や改ざんを図っているようだ。債務超過に陥り、実質国有化されることを嫌って、東京電力は原発再稼働と電気料金の企業向けを17%、一般家庭向けを最大10%値上げする意向だ。しかし、一般社員の年収を2割カットしても尚、国家公務員より高い給与を維持している。アメリカ海軍の原子力潜水艦の開発推進を担っていたジミー・カーター米国元大統領は大統領在任時、核燃料サイクル事業の撤退を決断し、核兵器に転用可能なプルトニウムの拡散を憂慮して、日本の東海再処理工場(茨城県東海村)の運転にも懸念を示したという。東京新聞のインタビューで今回の福島第一原発事故について「七九年の米スリーマイル島原発事故に取り組んだ経験をもとに情報の透明性、公開性が欠かせない」と述べている。日本原子力発電東海第2原子力発電所が立地する茨城県東海村で昨日村議選が行われ、原発推進派は改選前の過半数を失う見通しだという。村上達也村長も「脱原発」を掲げている。「東北学」を主宰している赤坂憲雄学習院大教授は共同通信への寄稿「豊かさの虚像あらわに」で、「原発は東京一極集中の構造にマッチしていますが、自然エネルギーは地域ごとの風土や自然の条件に対応しており、極めて地域分散型、地域分権型といえる。そこでつくられる産業のかたちは東京一極集中のイメージと対極にあります。原発から自然エネルギーへの転換は日本社会のイメージを大きく転換させるきっかけになる。その取り組みを東北から始めることにとても意義がある。」と書かれておられる。
白煙を立ち上らせている新日鉄火力発電所
見える範囲も二階の高さまで津波に襲われた

現場支援者たちの疲弊が始まっている

2012-01-22 19:22:49 | 文化
昨日、日中はみぞれ模様だった低気圧は夜には本格的に雪をもたらした。今朝はすっかり雪が積もってしまった。気温が上がるとまたみぞれに変わり、積もった雪に水分が加わり、道路は重く湿った雪で覆われた。夜間や朝方の低い気温で凍った路面になってしまうだろう。明日からの出勤時が思いやられる。初めての冬場の運転を経験する娘の運転も心配だ。今日も行われているはずの復興イベントには関西から女子大のチアーガールたちが参加している。周囲に雪が積もった大テント内の舞台を使うのだろうが、大テント内も結構寒い。日曜日なので訪れる人も今日の方が多いのだろう。珍しくこれだけ雪が積もると外へ出かける気がしなくなる。北海道に住んでいた頃を考えれば、大した雪とは言えないが、北海道だと冬に雪があるのが当たり前だと思えるが、釜石の冬は基本的に雪が積もらないので、その分積もった時は、特別に感じさせられてしまう。これだけ雪が積もると津波の被害を受けた仮設住宅の人たちは大変だろう。夜間や朝方はかなり冷え込む。断熱材を後から施した仮設住宅も、雪がない時でも寒いのだと聞いた。小さな子供のいる家庭は特に、狭い仮設住宅で危険な灯油ストーブは使えない。効率の悪いエアコンに頼らざるを得ないため、尚更、寒くなる。今冬は例年以上に冷え込んでいるせいもあって、仮設住宅では水道管の凍結も相次いでおり、県へも苦情がかなり来ているようで、県は県内の仮設住宅全戸の水道管の改善を行うことを決めたようだ。しかし、全戸の改修にはかなり時間を要する。中には1週間水道が使えない状態になった仮設もある。震災後急遽建設された仮設住宅は特に寒冷地仕様というわけではないので、床下がかなり冷え込むのだという。各仮設には保健士や看護士が1名ずつ常駐して、仮設住民の健康面のケアに当たっているが、この方たちの仕事も大変で、かなりストレスが溜まっている。その割に、市の幹部の人たちからは評価されておらず、一層、ストレスが増強されている。こうした仮設住宅へは全国から様々の支援が寄せられているが、それらをも、こうした保健士や看護士の方たちに任されている。多くは、1回限りの来訪で、その準備の一切を彼女たちが仕切らねばならず、負担が大きい。十分な心のケアの訓練もなく、いきなりそうした問題に直面させられている。普段は肉体的な疾病予防や、治療に関わって来た人たちなのだ。今、被災者だけでなく、被災者を支援する立場にあるこうした人たち自体が心に重い負担がかかり始めている。自治体は通常業務に加え、被災関係の仕事があり、他府県からの応援があっても尚、業務は過剰状態が続いている。とても現場の状況を十分には把握し切れていないようだ。全国からの支援自体が重荷になっているところも結構あるようだ。支援物資が届けられても、それをさばくのは現地であり、大部分が自治体に任される。イベントとなるとさらに大変になる。日程調整から、会場設定まですべてが現地任せのイベント支援がほとんどだ。こうした状態が続くと、現地側が支援の申し出に逆に警戒感を強めるようになってくる。被災者の方たちには支援が必要なのは確かだが、支援の仕方に問題がある。支援者が支援のすべてを賄うような支援方法が必要なのだ。現地に負担を強いる支援は、本来の意味の支援にはなっていない。酷いものになると、宿泊場所の設定まで自治体に依頼して来る支援者がいる。どこかはき違えているのだ。
珍しく雪が積もった釜石