釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

原敬(はらたかし)

2013-11-25 19:16:43 | 歴史
朝から空を雲が覆い、今にも降りそうな気配であった。案の定、昼頃から小雨が落ちて来た。周囲の山々の紅葉も今年は不揃いのまま、もう葉が散り始めている。裸になった木を見ると、もう冬だと感じさせられる。小雨が少し降る中、昼休みに八幡神社へ出かけた。思った通り、紅葉がまた一段と進んでいた。晴れていれば、とてもきれいに見えただろう。もう表面は全体が紅く、枝先の一部は風で散っている。真下から見上げるとまだ緑の葉も少しあるようだ。明日は晴れてくれるといいが。 東京駅にはレンガ造りの建物がある。明治時代の日本の建築学の土台を造った東京帝国大学の辰野金吾の設計し、1914年に完成したものだ。唐津藩士の息子である。辰野金吾の息子も同じく東京帝国大学の仏文学の教授である辰野隆でやはり仏文学の著名な弟子をたくさん育てた。小林秀雄、伊吹武彦、渡辺一夫、森有正、三好達治、中島健蔵、中村光夫、鈴木力衛など。辰野金吾は自分の希望であった日本銀行本店、国会議事堂、中央停車場のすべてを手がけた。岩手県盛岡市には東京駅と同じく赤煉瓦と白の線が入った、いわゆる「辰野式」と言われる辰野金吾の設計した岩手銀行本店が現存している。辰野金吾が建てた東京駅では岩手から出た平民宰相と言われた原敬が1921年に18歳の青年により暗殺された。暗殺者の青年は大塚駅転轍手であったが、この暗殺やその後の裁判については多くの謎がある。予審や裁判関係の資料が一切残されておらず、裁判も十分に審理が尽くされないまま判決を下している。原敬は祖父が盛岡藩の家老職の家に生まれ、次男であったために20歳で分家し、平民となった。15歳までは藩校で漢学を学び、16歳で東京へ出て、漢学や英学を学んだ後、神学校や司法省法学校、中江兆民塾などで仏学を学んでいる。司法省法学校在学中には待遇改善運動に参加し、退学となっている。新聞社に勤めた後、外務省に採用され、官僚の道を進み、農商務大臣であった陸奥宗光の目にとまり、外務次官にまでなったが、大隈重信が外務大臣になるとともに、外務省を辞めてしまった。大阪毎日新聞社に入り、1898年に42歳で社長となる。1900年伊藤博文が立憲政友会を設立すると、誘われて、幹事長に就任する。1902年に初めて衆議院議員に当選する。1918年には首相となった。原敬は西欧列強に対して、日本を産業国家として国力を強めることを目指した。また、藩閥であった官僚の中で、その弊害を感じ、官僚も藩閥を脱した近代的な官僚機構を作ろうとした。産業を強めるには教育が重要であるとして、首相となってすぐに総予算の4分の1を投じて教育機関を増設した。しかし、原敬は一方で、産業国家の育成に力を入れるあまり、政党による利益誘導を生み出し、汚職事件も党内で発生し、一部からの反発も招いている。さらに天皇直属であった軍部を内閣の下に置こうとして軍部からの反発も強かった。皇后の反対にもかかわらず皇太子を外遊させるなども一部の右翼的な国民からは怒りを買っている。こうした反発は本人も意識しており、暗殺の危険も承知していたようだ。すでに遺書もしたためていた。1882年には自由民権運動の板垣退助が暴漢に襲われており、1909年には伊藤博文が暗殺されている。幕末から戦前にかけて多くの有志の人々が命を奪われているが、時々、こうした人たちが存命であったなら日本はどう変わっていただろうと考えることがある。
紅く染まった八幡神社前のモミジ