釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

「釜石」地名再び

2013-11-20 19:18:16 | 歴史
今日は11度までしか気温は上がらなかった。少し出ていた風で庭の紅いモミジが夕方にはかなり散ってしまった。庭には3種類のモミジがあるが、一番遅いモミジはちょうど八幡神社のモミジくらいの色好きになっている。中間のモミジは黄色い葉のまま、これも風で3分ほどは散ってしまった。地面にはたくさんのモミジの葉が落ちている。歩くとかさこそと音がする。日射しを受けた落ち葉も場所によってはとても綺麗に見える。 先日、何となく釜石近辺の地図を見ていて、釜石湾に少し飛び出した馬田岬(まだみさき)のある半島部分に大字釜石があるのに気が付いた。かっては釜石村はこの海辺に近いところにあった。江戸時代になり、甲子川(かっしがわ)の上流になる甲子村が中心になったと言う。そこで、ふと疑問に思ったのは、釜石の名の由来だ。釜石の名の由来には和語とアイヌ語の二説がある。和語としては甲子村のあった位置の中では上流である洞泉にあったと言われる「釜淵」の直径2.5mほどの大釜に似た大石、「釜淵の釜石」に由来すると言われる。これは以前にも書いている。しかし、今回地図や釜石の地名の歴史を考えると、釜石は海辺近くの地名であり、甲子川のずっと上流の「釜淵の釜石」に由来するとは思えなくなった。地図を見ていてさらに気付いたことがある。馬田岬のある半島の北には「両石(両石)」があり、南には「嬉石(うれいし)」があるのだ。半島に大字「釜石」があり、三つの「石」地名が海辺に並んでいる。これは何らかの関係があるように思われる。和名由来とはとても思えない。アイヌ語由来では「カマ・ウシ・イ」(平盤な岩が・ある・所)、「クマ・ウシ・イ」(サケ干し竿の干し場が・ある・所)などが訛ったものとされる。さらに「両石」は「リヤ・ウシ・イ」(いつも・越年する・所)、「嬉石」は「「ウラィ・ウシ・イ」(簗(やな)が・多くある・所)などから由来すると言われる。釜石近辺には女遊部(おなつぺ)や花露辺(けろべ)のようないかにもアイヌ語由来を思わせる地名がある。釜石の地名は遠野市(とおのし)や一戸町(いちのへちょう)にもあるのだと言う。釜石市のHPでは「かまいしの歴史」のページに年表が上げられている。その最初は「霊亀元年(715) 奈良時代 蝦夷須賀君古麻比留ら「先祖来昆布をたてまつって居りますが国府まで遠いから閉村に郡家を建ててもらいたい」と請うて許される。」と書かれている。これは797年に成立した『続日本紀』(しょくにほんぎ)に書かれている記事だ。しかし、釜石よりさらに南の内陸の胆沢(ひざわ)にいた阿弖流爲(あてるい)を坂上田村麻呂が討ったとする『日本紀略』はその年を延暦21年(802年)とする。さらに、最後まで抵抗した蝦夷は『日本後紀』では爾薩体(にさったい)と弊伊(へいい)であり、朝廷より派遣された文室綿麻呂は弘仁2年(811年)に陸奥と出羽の兵を合わせて2万6千人余で攻めたが、弊伊はさらに俘囚(朝廷に下った陸奥・出羽の蝦夷)の助けが必要であったとしている。811年になってようやく平定されたとされる弊伊が715年の時点で「閉村に郡家を建ててもらいたい」などと朝廷に申し出るわけがないだろう。「閉村」は阿弖流爲(あてるい)たちのいた胆沢よりさらに北であった。こうした矛盾は朝廷の史書には多々見られる。東北の地名は多くにアイヌ語地名が残されているとされるが、現代のアイヌ語で地名を解釈する方法にもすなおには頷けないところがある。和田家文書には確かに「エカシ」や「コタン」など、いくつかアイヌ語が出て来るが、荒覇吐王国(あらはばきおうこく)で使われていた言葉とアイヌ語が同じかどうか。問題は荒覇吐王国の構成員であった阿蘇部族や津保化族の言葉とアイヌ語がどういう関係であったかではないかと考えている。いずれにしろ、両石、釜石、嬉石などの地名は古代荒覇吐王国の人々によって付けられた地名ではないかと思う。
すっかり紅くなった庭のモミジ