暇な月日をだらだらと・・・・・爺々放談   Since 2009.01.01

  日々の生活の一部、散歩などをコラム風に
       ~ my winding road ~

西へ・・・

2012年10月10日 14時15分36秒 | つれづれ日記


シモツケ
                               ~なのに~~~~~~~~心は
7日に紅葉の焼岳登山をするためのリュックを玄関に置き、登山靴を並べるなどの準備が終わり
フランス《凱旋門賞》のレースの実況中継を見始めたときだった・・・・
電話が鳴った・・・「大姉の婿どの(80歳)が、亡くなった」との訃報だった 

登山中止が決まった瞬間だった・・・楽しみと哀しみ・・・なんともいえない落胆の空気が広がった
二十数年前の事がよみがえった。
家族4人で白馬岳に行く前日の夜にも同じ事が・・・長兄が亡くなった時のこと・・・

WEBで、旅館の宿泊を解約、など数箇所の解約手続きを開始
翌8日には会社へ「慶弔連絡」のファックス・・・・
この青い空の下の「真っ盛りであろう焼岳・りんどう平」を思い浮かべながら・・・出発
西へ・・・・

行き当たりばったりの帰省・・・列車がうまく継がらない   
名鉄・矢作橋に着いた途端・・・電車が出て行った・・・(15分待ち)
JR新幹線・名古屋駅・・・ベルが鳴っていたので階段を走って登ったら・・・もう走り出していた(20分待ち)
JR小倉駅では・・・電車が出て行ったばかり・・・待つほどのものではないが5分待ち
電車の車窓からは懐かしい山々・・・そして様変わりしてゆく町の風景が・・・
折尾駅からワンコインで式場に到着・・・5時間以上もかかってしまった

目の前には懐かしい建物が・・・友人たちが通った「福岡県立東築高校」、
イチロー選手を育てたと言われる仰木彬監督の出身校でもある

部屋の中には姪の子供達がひとまわり大きくなって座っていた。
大姉の次女夫婦は教師だ。 だからその子供の迎えなどは義兄がやっていて
子供らは・・・爺ちゃんっ子だ 小学2年生の子が線香の火を絶やさずに管理していた。

我が○○家の四男坊は以前は何となくこの義兄に似ていたのだが、頭のテッペンの毛も無くなり今はオヤジそっくりだ。
大姉もぐっと痩せて母ちゃんそっくりになってきた。 80歳で腰も曲がり始め、杖が必要になっていた

今年71歳になった次姉、そののダンナも・・・「ボケ」が始まっているようだ。アレだけしゃべった事のある私を覚えていない。
次姉は、孫に水泳を教えているらしい。さすが県大会出場経験のある元選手だ。
骨量(骨密度)チェックしたら・・・130以上あったという。 (オレより高い!)
さすが我が○○家の大黒柱だ。 元気そのもの・・・動く! 喋る! は今も健在!  兄弟誰も敵わない。

義兄は坊主が嫌い(自分はハゲ)だったので、式は自由葬だった。

私が初めて義兄を見たのは小学2年生のとき、
私が生れた頃、我が家はアヒルを1000羽ほど飼って、卵を売っていた。
幼稚園の頃、大姉はオヤジの反対を押し切って結婚したようだ
時代がニワトリの卵に変わったため小学1年のとき他の場所に家を建て豆腐屋を開業した
その頃、大姉に女の子が生れた・・・が 小児マヒを患ってしまった。
(その娘は・・・看護師のトップ付近で鎮座している・・・母ちゃんを看取ってくれた)

家を建てて1年もしないうちに大姉の住む直ぐ裏手に引っ越した。 
そこは炭鉱の街・・・私は豆腐がよく売れるとオヤジが判断したと思っていた(手助けをしたかったようだ)。
小学校2年・・・兄貴達と約一年 片道約6kmの徒歩通学だった
 
大きい兄ちゃん(長男)と次男坊、三男坊は好き勝手し放題の生活
対して義兄は・・・一所懸命に働く姿を私に見せつけた・・・
炭鉱が斜陽化し潰れていく中、職業訓練所に通い、電気の仕事を身に付け、後に独り立ちしていく姿は
四男の眼にも同じように映っていたようだ。 
「車の整備には高卒の肩書きは要らん」 と訓練所通い、25歳の頃「2級整備士免許」を獲った。

義兄から初めて借りたレコード、 それはザ・プラターズの「煙が眼にしみる」だった。
それまでは次姉の好きな「曽根四郎」や「中原一郎」、母ちゃんの「南国土佐をあとにして」などを聴かされていたので新鮮だった。
私もスクリーンミュージックなどを聴くようになった・・・小学生で・・・

式のときに見せてくれた写真 丸いサングラス・・・意外とダンディな画像も見せてもらった

式が終わったら・・・次の三途の川渡りは次男坊だと・・・全員一致
四男坊は・・・独り身だから、死後約1ヶ月で発見・・・孤独死・・・とTV報道されるのかナ 等・・・
ゲゲゲのゲの私は・・・男ではやはり最後になりそうなので・・・言ってやった
『オレが動け回れるうちに、死ね そしたら来てやる』 と ・・・

北九州市西部


この山から見れば・・何とか場所は特定できるのだが・・・
道路を走ると・・・判らん場所が出て来た 記憶が消えていくのではなくて、山や丘が開発により消えていくのだ
少し前までは北九州市西区の中心地は黒崎だったのが、現在は折尾・・・しかし時期に三ヶ森の方面に中心は移動していくようだ・・・


コメント
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