人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

2014年度中古文学会春季大会感想(1日目)

2014-06-09 14:25:43 | 学会レポ
6月7日、8日は中古文学会に行ってきました。

立教大学新座キャンパス、遠い!
特に志木駅からが、徒歩15分と書いてあったけれど、30分は見といたほうがいい感じ。
何も重いもの持たずにさくさく歩けば15分で行けるのかもしれないけれど、荷物抱えて、雨の日だったので傘も持って、だと、よいしょよいしょとしか歩けないです。

忘れないうちに、簡単に感想書いときます。

とりあえず1日目。
1日目はミニシンポジウムが二本。
これまでもシンポジウムが開催されることはありましたが、今回のようなスタイルははじめてとのことです。
確かに、これまでは中古関係の人はシンポとかパネルとか苦手なのかな、という印象でしたが、今回はよく準備されていて面白くうかがうことができました。

1本目は「定家本・青表紙本『源氏物語』とは、そもそも何か?」。
提言:久保木秀夫・田村隆
コメンテーター:大内英範・中川照将
司会:陣野秀則
私古典が専門のくせに本のことはどうにも苦手で、よく分からないことが多いのですが、今回のミニシンポは面白く聞くことができました
…はずなんですが、いまメモを見ながらどういう話だったか思い出そうとするもののちゃんと思い出せない。
「定家本『源氏物語』」と呼びならわしているけれども定家が書写した『源氏物語』というものの本文がそもそもよく分からず辿ることができないから、そう呼びならわすのが適切なのかどうか、と言っていたのは覚えてます。

2本目は「中古文学会で、中世王朝物語を考える」。
司会:加藤昌嘉
パネラー:中島正二・宮崎裕子・西本寮子
「中世王朝物語」という用語が誕生してから四半世紀が過ぎ、研究が進んできた今だからこそ、そもそも「中世王朝物語」って何?その用語でいいの?ということから立ち返って考えてみたい、というシンポでした。
はじめに加藤さんのほうから「中世王朝物語」という用語、研究史と問題点の整理があり、
中島さんの報告では「中世王朝物語」という用語を問題にします。
王朝物語=平安時代の物語なので、中世王朝物語というと王朝風の、とか、宮廷を舞台とした、とかいう風に「王朝物語」の定義を拡張せねばならず、そうすると平安時代の宮廷を舞台としていない物語は、その意味での王朝物語に含まれなくなる、
→狭義の「王朝物語」の一部が、広義の「王朝物語」に含まれない、
→用語としておかしい、
というところから、散逸物語なども含めた新しい用語・区分を提案します。
宮崎さんの報告は、『風葉和歌集』をつかって中世王朝物語の復元するやり方に疑問を呈したもの。
主に詠者名表記に注目されていました。
西本さんの報告は、「中世王朝物語」研究の課題をコンパクトにまとめたもの。
写本の問題、それから「中世王朝物語」とはどういう質のものか、ということ。
写本・伝本の状況から作り手や享受のあり方を考えることができる(けれどもはっきりしたことは言いにくい)こと。
文学史的には『源氏物語』を頂点として見る見方がいまだに強いけれども、『源氏物語』というのは特異なもので、そういう特異な性質のものを中心として、そこから中世王朝物語も読んでしまう方法に疑問を呈します。
質疑応答で、
阿部好臣先生のほうから「そもそも中世王朝物語というものがアナクロニズムで矛盾したものなんだから矛盾した用語でいいんだ」
三田村先生のほうから「王朝物語というのはイデオロギー的なもの」
という趣旨の質問があったのですが、その辺、そういう風に読みたくないパネリストたちとの立場の違いが明らかになって面白かったです。

二本とも、用語の問題に立ち返って考える、という点で共通してますね。

続き(2日目)はまたあとで。

おまけ:甘いお酒を飲んでます。

日文協2013年度大会(2日目)雑感

2013-11-23 12:46:55 | 学会レポ
こんにちは。
ここ数日ちょっと風邪気味で、もうだいぶん良くなってきたんですが、鼻がずびずびいってます。
この調子だと皮が剥けてしまいそう(くすん)。

11月17日(日)に、日文協2013年度大会(2日目)に行ってきたので、今日は感想を。
…結構忘れてしまってる部分もあるのですが。

読書日記:日文協2013年度大会関連

◎一人目の登壇者は、鈴木健さん。
「なめらかな社会と文学」
たいへん爽やかな方でした(『なめ敵』の著者近影よりは、若干丸くなられた感じも)。
お話はだいたい『なめらかな社会とその敵』をなぞるかたちで進んでいったのですが、特に文学と関連づけた部分は、パラレルワールドに関する部分かな。

鈴木さんは、
・生命にとって文学とは何か
と問いを立て、
・集団内で共通の"世界"を生きるための拡張現実の手法
と定義づけます。

拡張現実の手法としてパラレルワールドがあるわけですが、
①環境型パラレルワールド
②身体型パラレルワールド
③…何って言ったかな、ちょっとメモし損ねたの。現実のなかにオーバーレイしたパラレルワールド。
の3つに分け、

さらに、現実と虚構の関係を、
・口承・伝承の時代…現実/虚構は一体化
        ↓
・テクストの時代…現実/虚構の分離
        ↓
・AR(拡張現実)の時代…現実/虚構の再統合
と段階的に整理します。

最後に、個々が拡張現実を生きるためには物理的な制約があるので、
物理的なコンフリクトを回避する法システムや統治システムが必要、であることに触れましたが、
ここはまあ『なめ敵』のなかで詳しく述べてたことでした。


◎二人目は千田洋幸さん。近代の会員から。
「〈パラレルワールド〉を超えて―2010年代文化の世界構成」

前半はざあっと90年代から0年代の文化状況を整理した感じでしたね。
再帰的近代の必然から、「ここではないどこか」「もうひとつの世界」が欲望される、ということから、
パラレルワールドの話。
因みに再帰的近代というのは社会学の用語。
常に自分が何者か問われ続け、「本当の私とは何か」「私はなぜここにいる」という問いを問い続ける「再帰的自己」が出現する、と千田さんはまとめてます。
哲学・思想系だとポストモダンと言うんですけど、社会学的には近代は終わらないので、再帰的近代とか後期近代とか言ったりするんですね。

メインは2010年代の話かな。
〈パラレルワールド〉と化した自己/他者、こちら側の共同体/あちら側の共同体、現実/仮想現実…にどのような接続の回路があり得るか
ということで、AKB48のドキュメンタリー、『あまちゃん』、いとうせいこう『想像ラジオ』、和合亮一『詩の礫』をとりあげます。
結論としては、「二重性を生きる」とか、
「無時間性を(一つの)根拠とする乖離的主体としてのAKB48は、被災地に降り立つことによって、「声」と「互いの有限性」を分有する主体となる」あたりなのかな。

…個人的には、AKB万歳だったのがちょっと…
というか、相当違和感がありました。


◎ということはとりあえず置いといて、3人目の登壇者、助川幸逸郎さんの話に。
「女房という無意識―テクストに向こう側はあるのか」

『源氏物語』宇治十帖、浮舟が登場して以降の部分を取り上げて考察されました。
主に、「大内記」という登場人物と、浮舟と薫が「かたみ」に「あはれ」を感じる場面、
入水未遂の場面で浮舟の記憶がないことなどを取り上げての考察。
「大内記」というのは、匂宮側に近い人物なのですが、奥さんの親族に薫の従者もいて、それで薫側の情報を得たりする。公的な官位などでは知ることのできない、私的な、密かなつながりが物語を動かしてゆくことを指摘します。
浮舟と薫とが「かたみ」に「あはれ」と思う場面では、
浮舟は匂宮と逢瀬があったことを後ろめたく思って「あはれ」と思い、薫は大君を思って「あはれ」と思う、内容は共感されていないのに、まったく別々のことを思いながら気分が共有されていることを指摘します。
最後の場面で、浮舟の情報をみんながみんな断片的にしか知らなくて、浮舟が薫のことを拒絶する文脈が理解できない、そして肝心の浮舟にしても、入水未遂の時の場面、それから僧都に発見される場面でも、意識がない。
統一的な自己を形成することのできない物語なのだということを指摘します。
そしてそこに、現代的な意義がある、と。


◎質疑応答、どういう順番でどういうふうになされたのか、きちんと覚えてないので、印象に残ったものだけ。

震災に対して文学は無力なのか、無意味なのか、という質問に対して。
・鈴木さんは、文学(研究)には文学(研究)の意味があるんだろう、と。
開かれた研究で意味があるものもあるけど、閉じられたやり方でやることに意味がある研究もある、と言ってましたね。
で、なおかつそういう研究は、お金持ちのスポンサーを集めて研究す仕組みを作っていかなきゃいけない、と。
←これ、宇野常寛もたしか同じようなこと言ってたけど。千葉雅也と西田亮介といっしょにやってた、立命の若手研究者の行く末を考える、みたいなシンポで。宇野常寛が言ってたのは、クラウドファンディングみたいな話なんで、鈴木さんのイメージしてるのと違うかもしれないけど。
・千田さんは、無力で無意味だ、と。要するに近代文学は終わった…ってことなんですが。
よく考えてみると、近代は終わらない社会学の用語使いながら、文学に関しては近代文学は終わった、って、ポストモダンなんですね、ちょっと変な気が。
・助川さんはもうちょっと複雑な答えをしてた気がします。文学そのものと文学研究とは分けて考えないといけない。無力だと感じられることも多いけどでも…という感じ。

最後に一言づつというところで、
助川さんが統一的な自己を夢見ることもできない、カタストロフも来ない、ばらばらなまま、ちょっとずつ被曝するせかいでどうやって生きてゆくか、それでは寂しいんだ、ちょっとずつ寂しさを紛らわせるもの→というところから、鈴木さんのステップでもフラットでもないなめらかな社会モデルにつなげ、
千田さんは、統一的な自己を夢見ることができない人が寂しさを紛らわせるものとしてはポップカルチャーとかオタクカルチャー万歳、みたいなことを言っていたのですが。

…それってさ、『終わりなき日常を生きろ』と一緒じゃん、と思ってしまった。
それだったらわざわざ「なめらかな社会」モデルじゃなくても。地下鉄サリン事件の後くらいに指摘されていることであって。
あれだけの震災があって、原発事故があってもまだ『終わりなき日常」なんすか、という…。確かにどうもこの社会はそういう流れになっている気はしますけど。

鈴木さんは生物学的時間のスパンで、たいへんに希望に満ちたことをおっしゃっていました。10年でも20年でも100年でも1000年でも同じことをやり続けていたらいい…と。
その割に懇親会の挨拶では、この「一週間くらい」、「文学ってなんだろうな」と考えて、大変幸せな時間を過ごしました、とおっしゃってたんですが(笑)。はい、大変にさわやかな感じでしたよ。

AKB万歳に対する違和感についても書こうと思っていたのですが、
ちょっと長くなりそうなので、また日を改めて書きたいと思います。
適当なブログの文章とはいえ、まとめて書くのはちょっとしんどい。

では。

 
新宿にて。ひとの顔の消し方が適当なのはどうかご勘弁を。






読書日記:日文協2013年度大会関連

2013-11-10 13:52:31 | 学会レポ
こんにちは。
日文協の大会に行くつもりにしてるんで、いちおう関連書籍読んで予習してます。
去年書いたんで、今年は学会印象記頼まれることはないと思うけど…

文学の方のシンポは、2013年11月17日(日)13時~
於:青山学院大学渋谷キャンパス
テーマは「流動化する世界と文学」。

* * *

◎ひとりめの報告者は鈴木健さん。『なめ敵』で話題の人。
いちおう、「なめらかな社会と文学」という題目が出てるんですが、「発表要旨」は未定(笑)。
まだ比較的若い方なんで、要領よくなんとかはしてくるんでしょうが、ちょっとどんな話になるのか、想像がつきません。

なめらかな社会とその敵』、システムの話なんですよね。
境界を区切って敵と味方を分けるような「個」的発想を否定しながら、
2000年以降流行ったような完全にフラットな世界像もまた否定し、
なめらかに変化するような社会像を提案します。
で、そのためのいくつかのシステムを提案する…貨幣、投票(民主主義)、社会契約に関して。
数式が登場するような本は久々だったし、とりわけ順列組み合わせは苦手だったので(爆)、
詳しい内容は省略します。

で、これが文学の話とどう結びつくのか。
単純に考えれば(そして企画者側の意図としてはたぶん)、
近代文学は「個」を前提とするから今の社会にはそぐわないし、
フラットな社会像も商品として消費されることと結びつくから問題があって…
というところで、鈴木氏の提案する「なめらか」な社会像に希望を見出したのでしょうが。
どうも読んでいてそういう発想の人ではない気がします。

個人的なポイント。「核・膜・網」の比喩。
論理の過程は省略しますが、核は意思や脳、制御の比喩、膜は境界、網は(そのまま)ネットワークで、
「なめらかな社会」は網のイメージで捉えられてるんですね。
で、気になるのは、私たち文学の世界には、(膜的なものである)皮膚=織物=テクストという比喩が存在することです。
これは必ずしも統一された主体に制御されるようなものばかりを指すのではなく、
切り刻まればらばらになった、あるいは、微妙なバランスでつながっているような皮膚=テクストを表象することもあります。
さらにこの比喩は、網=編み物とも結びつく。

皮膚=織物=テクスト≒編み物=網

ギリシャ神話のアラクネの物語、みたいな、ね。
私のなかでは飛浩隆の『グラン・ヴァカンス』ですが…。
『なめ敵』的な「核・膜・網」の比喩と関わってゆく部分があれば面白いと思います。

ちなみに、「はじめに」で書かれてるベルリンの壁のエピソード、
文章も美的でふつうに文学的で、この本が売れた理由が何となく分かります。


◎ふたりめの報告者は千田洋幸さん。近代分野の会員から。
題目は「パラレルワールドを超えて」。
『ポップカルチャーの思想圏』が関連書籍、になるのかな。

ポップカルチャーの思想圏』では、「偶有性」(たまたまそうであること)と「有限性」(時間に限りがあること)をキーワードにいくつかの作品を考察していたので、その続きで、もっと最近の作品を考察するんだと思います。
「偶有性」の感覚から、1990年代後半から2000年代には、パラレルワールドを描くものが多かったけれど、
2011年以降、どのような転回を見せたのか…ということのよう。

『ポップカルチャーの思想圏』に関してちょっと気になったのが、
一貫して男性の側に立って、なおかつ商品化の問題を無視している点。
何かオブセッションでもあるんじゃないかと思う(笑)。
例えばAKBに関して、「偶有性」をキーワードに考察する場合。
とりたてて特長のない女の子がトップアイドルとなり、
たまたまそうなったものとしてかけがえのない自己も否定されたときに起こるのは、価値の暴落です。
同じような商品を大量に売ろうとすると、暴落しますから。AKBは安すぎる。
最近のアイドルの、というか女の子そのものの、価値の暴落は半端ない。
ちょっとやばいと思う。

もう一点、一貫して男性の側に立っていることとも関係すると思いますが、読みに関して気になったことが。
『少女革命ウテナ』の考察に関する部分(「90年代アニメは「外部」をどう語ったか」)。
私見てないので間違っていればご教示いただきたいのですが。
主人公の天上ウテナが王子様となって、ヒロインの姫宮アンシーを救おうとする、というのが基本設定のようです。
しかし終盤で、主人公が逆に「王子様」であるラスボスの登場人物に惹かれていることを察し、
「あなたは私の王子様にはなれない。女の子だから」とヒロインは言います。
ヒロインは背後から主人公を刺し、倒れた主人公に対し「おせっかいな勇者様」云々、と言う場面について。
「二人の関係の変容を追いつづけてきた視聴者はすくなからず困惑せざるを得ないだろう」
「思考の一貫性や連続性、葛藤を経ての「成長」などといった内面性を決して見出してはならないキャラクター」
とあるのですが。
これを二人の恋愛として読めば、主人公は浮気したことになりますから、
どんなに尽くしていても一回相手が浮気した途端に、ひどいことをする、のは女の子像としてそんなに変じゃないと思います。
確かに「あなたは私の王子様にはなれない」の科白、拒絶とも読めるんですが、もう少し深読みすれば、
「女の子のまま女の子を愛することはできないのか」、「王子様なんかいらない、女の子のままのあなたが欲しい」
と言っているようにも読めるんですよね。
女の子はよくそういう話法を駆使します。
まあ、私は実際見ていないのでどう読んでもそうは読めない、のかもしれませんが…


◎三人目の報告者は助川幸逸郎さん。古典分野の会員から。
「〈女房〉という無意識―テクストに〈向こう側〉はあるか?」という題目です。
『源氏物語』宇治十帖の女房について考察するようです。

「精神分析を援用して、今の日本で言うべきこと 想像界的なるものへの批判」
(高木信、安藤徹編『テクストへの性愛術』所収)、が関連するようです。
この論文の最後で、「想像界的なものに救済を求める」ことの「不毛」さが指摘され、
今後の可能性のひとつとして、女房同士の結びつきを読むこと、「小さなユニット同士の結びつき」を読むことで、
「各ユニットが(中略)絡みあって、錯綜した結びつきが形成される」様子を考察することが提案されていますので、
そういう話になるんだと思います。


◎と、こう、順番に並べてみると、
「パラレルワールド」(境界のあるもの)を超えて、という部分と、
女房同士のネットワーク(網)という部分で、
核(制御)・膜(境界)・網(ネットワーク)という比喩と関係してくるのかな、という感じがしてきました。

実際にどんな話になるのかは、行ってみないと分かりません。

追記:助川さんのお名前の漢字、間違っておりましたので訂正致しました。
たいへん申しわけありません。…知っているはずなのに、ダメだなあ、私。
すみません…。








日文協第33回研究発表大会レポート

2013-07-14 10:25:08 | 学会レポ
 こんにちは。今日は、先週日曜日に参加した(というか、自分も発表した)日本文学協会第33回研究発表大会について、簡単なレポートを。日文協の夏の大会は時代別に分かれていて、並行して発表が行われる形式なので、すべての発表を聞くわけにはいかないのですが、自分が参加したぶんだけ、簡単に感想を書きます。
 まあ、自分の発表でそれどころじゃなかったので、あんまりちゃんと聞けてないんですけどね~。

 実は私は『源氏物語』が専門なので、だいたい古代後期のお部屋にいました。

 午前一本目は堀江マサ子さんの「「中の戸開けて」対面する紫の上―六条院の秩序との関わりにおいて―」。「中の戸」という空間装置に着目し、「中の戸」を開けての対面が、対面する両者の身分差の顕にならない対面であること、それによって六条院空間の秩序が「再編」された、と結論づけるものでした。質疑応答によって、女三の宮と明石女御の対面に乗っかるかたちで対面した紫の上のずるさが明るみになりました。

 二本目が私の発表。すでにさんざん自分で宣伝したような気がするので、これ以上何を言おう、という感じですが、一応。
 私の発表は、大君の臨終場面で、彼女の身体が「雛」に喩えられることに着目し、男性のオブジェ嗜好を女性自身の自己表象へと転換してゆく現代的な人形の流行と『源氏物語』の末尾を重ねあわせようとしたもの。私自身がやりたいのが人形論だったこともあって、『源氏物語』論へと戻ってこれなかったことが、一つの発表としては失敗だったと思います。でも一部の人には(笑)好評だったし、自分で楽しかったからO.K.。
 後から津田博幸さんに指摘されたのですが、『源氏物語』をあくまでも現代的なものとして読んでゆくということをちゃんと言ったほうが良かった、と。確かに。
 近代や近代的内面の批判をすると、『源氏物語』を古代的なものとして読む立場なのかと勘違いされてしまうこともあるのですが、私の近代批判はそうじゃないんですよね。あくまでも『源氏物語』を現代的なもの(というと語弊があるかもしれませんが)、アクチュアルなもの、そして自分の目で読むための手続きなんですよね。だからさんざんシュルレアリスムとか、絵画と彫刻と人形とか持ちだしたんだし。でも、そういえばそこを説明してなかったです。
 もうひとつ、津田さんに指摘されたことで。レジュメのミスがありました…。

 レジュメ5枚目、9頁。後ろから3行目。
 「尼衣と墨染めの衣」→「尼衣と法要の衣」

 すみません、尼衣と墨染めの衣は同じです。私このレジュメ作ってたとき、相当テンパってたのね、ごめんなさい。

 ここでお昼休み。ごはん、おにぎり1つだったんですけど、それでも食べると眠くなる。

 午後一本目の発表が、齋藤梅香さん「「手習」巻における浮舟の心情表現と手習歌の機能」。浮舟の「手習歌」を、作者が浮舟の心情をより直接的に表現させたもの、と結論づけるものでした。分かりやすく、それなりによく頑張った発表だったと思うのですが、これが何というか…、どう言えばいいのか分からない。三田村雅子さんが一生懸命いろいろおっしゃってましたけど。

 いつだったか、大橋完太郎氏がつぶやかれてた
 学生の指導や論文査読などをしていると、大きな文脈を知らないままその人なりに「論理的に」読んだものを提出されたときに、違和感を感じるケースが多いですね。本来の問題の枠組みと設定された問題との不釣り合いとでも言いましょうか。
という、この違和感。
 部分部分で先行研究に反論しなければならない、という認識はあっても、研究史を全体像で捉えてないんですね、たぶん。だから保守反動で浮舟の「手習歌」を近代的なものとして捉える、という気持ちもないままに、「作者」とか「心情を直接表現」とか言えてしまう。ただ大学に入るまではそういう学校教育(国語教育)を受けてたから、ある程度は仕方ないのかな、とも思います。

 ただ、私にどうしても理解できないのが、そうやって反論しようとして、ごくごく一般的な理解に戻ってしまう人って、何の疑問も持たず、問題なく社会に順応できてるわけじゃないですか。なのに研究なんかしようというモチベーションが分からない。研究なんかしたって、就職に不利になるだけなのに。社会に違和感や怒りを感じない人が、研究なんてしようと思うものなのかな? まあ、修士までだったら、専修免許をとるためなのかもしれませんが。
 

 その次の発表は、ちょっと自分に関係がありそうなものがあったので、近代のお部屋に。林淑丹さん「聖女の仮面―澁澤龍彦「花妖記」を読む」。少しポイントを絞りきれてない感じがしたのですが、いろいろ面白いところがありました。たぶん、「聖女」と「淫女」の二面性と、鉱石(永遠性、無時間性)と球体幻想(房事に効く、孕むイメージ)の二面性は、重ねられてるんだろうなあ…。
 女主人公の白梅=緬玉(賭けられる、房事に効くという玉)なのではないか、と質問したのですが、そうしたら後から、「人形の人ですね」と言われてしまった。ちゃんと、チェックしてるのねえ…。
 はい、私人形の人です。

 また古代後期のお部屋に戻って。
 三本目の発表は宝塚。橋本ゆかりさんで、『源氏物語』を舞台化した宝塚歌劇『あさきゆめみしⅡ』について考察した発表。空間装置や宝塚オリジナルキャラ「刻の霊」、『源氏物語』を知らない人に分かりやすくする工夫などに着目した発表でした。宝塚歌劇って、いろいろなお約束事があるのね。なるほど…。

 最後の発表が、大谷久美子さん「『栄花物語』の歴史叙述の一側面―女房による儀式書的性格の考察」。『栄花物語』の衣装描写に着目し、女房たちが参与できる範囲のことで、為政者を評価する方法として位置づけたもの。たいへんしっかりした発表でした。

おまけ:退屈してるのすけちゃん。


 ではでは!

2013年度中古文学会春季大会2日目に行って来ました!

2013-06-10 13:04:07 | 学会レポ
 昨日は学会(中古文学会)に行って来ました。本当は土曜日と日曜日の2日間なのですが、土曜日も参加するには仕事の都合がつきにくいと思ったので、日曜日だけの参加にしました。
 自分の発表でもないんで、お金をけちって夜行バスで。だって、ふつうに新幹線で行くと、4~5万かかるんだよ(東京って遠い)。行きの夜行バスは、ともかく寒かった!

 会場は学習院女子大。最寄りの駅は西早稲田駅ですが、あの辺りは10年ほど前にちょっと住んでいて土地勘もあるし、時間もあるし、東京駅からは東西線で早稲田駅に行くのが一番乗り換え少なそうだったので、早稲田駅から歩くことにしました。それでも早すぎたので、早稲田駅近くのあゆみブックスで時間をつぶす。不意に「いま革命が起こっているらしいよ」という声が飛び込んでくる。え? 何のこと?
 ずっと気になっていたリピット水田堯『原子の光(影の工学)』を発見したので購入。装丁もきれい。この本、原著は震災より前に出されてるのね。

 時間があるので会場まではのんびり歩きます。9時10分ごろに到着。門を入るときに、守衛さんに呼び止められちゃった。まだ早いけど、結構人います。やっぱり便利な場所だから、人多いのね。中古は例年オーソドックスなダークスーツが多いけど、今年はさすがに暑かったせいか、若干ラフでしたね。女性は特に、ワンピとか、ひらっとしたスカートの人も。

 なぜだか知り合い数人から、「痩せた?」って言われてしまう。痩せてないです。
 ひょっとしたら、やつれたとか、ふけたとかってことなのかな? そうは言えないから「痩せた」って言ったのかも。私もう32(もうすぐ33)だから、ふけても当然なんだけど。どういうわけかみんな(ドラえもんか何かのキャラクターのように)私は歳をとらないと思ってるらしいから。

 午前中の発表は、朝一2本、休憩を挟んで1本の、計3本。『源氏』の発表をまとめたようです。
 朝一の青木慎一さんの発表は、『源氏物語』夕霧の童殿上について、史実上の童殿上から意味づけたもの。きれいにまとまった発表でしたが、どうやらご本人、ネクタイのほうが気になるもよう。オーソドックスなのは似合わないけど、発表の場であまり派手なのはつけられないから、とか何とか。青木さんは研究の手法も堅実だし、いかにもまじめな雰囲気の人(だって夕霧だし)だけど、やっぱりその辺私立文化だなあ…、と感心してしまいました。

 2本目は朧月夜と玉鬘に関する表現上の重なりを丁寧に考察したものでしたが、意味づけの部分がちょっと弱かったかな。『源氏物語』にはほんとうに表現上の照応が多くて、それもさまざまな照応の仕方があるので、どう意味づけするかがほんとうに難しい。

 休憩を挟んだ3本目は、「くだもの急ぎにぞ見えける」という表現を、(教養のない)浮舟に傾斜する薫と、(教養のある)大君の側にひきとどめようとする弁の尼との攻防として読み解いたものでしたが…。この内容だとやっぱり、「食欲=性欲」って印象になりますね。一緒に話してたMさんは、そういう論文あった、って言ってたけど。確かにありそうだし、あったかも知れない。
 ついでに「琴をおしやりて」っていうの、源氏と女三宮にもあります。試楽の後の場面。女三宮がまだ一生懸命琴の練習をしようとするので、源氏が琴をおしやりて一緒にお休みになった…、っていう。琴=恋愛関係の表象が壊れてる、って私指摘したことあるんだけど、浮舟についても言えるのかな…?女三宮の場合は、教養がないとかではなくて、そもそもそういう発想がないんですが。

 午後は『狭衣』で2本(珍しい)と、伝本系の発表が2本。1本目は『狭衣』の『伊勢』引用から、禖子内親王との関係を考察したもの。どうなんだろうなあ…、私『狭衣』はほんと読むのがしんどくて、なかなかちゃんと読めないから、何とも言えないんだけど。

 2本目の千野さんは発表も上手。ちょっと早口だったので緊張してるのかなと思ったんですが、内容的にぎゅうぎゅうだったみたい。『狭衣』の一品宮に関して、『源氏』の落葉宮からの引用を指摘し、物語展開の手法として位置づけたものでした。
 ひとつ思ったのが、『狭衣』の「うわさ」は物語を動かしてゆくが、手紙は物語を動かさない、ということに関して、単純に「うわさ」(話し言葉)と「手紙」(書き言葉)という問題なのか、ということ。というのも、『狭衣』における「うわさ」は、まったく関係ないところに噂が立つ、と言っていたから。ひょっとしたら「うわさ」がフィクションだから物語を動かし、『狭衣』における「手紙」が事実を書くものだから、物語を動かさないのではないか。つまり、フィクションが物語というフィクションを動かし、事実はフィクションを動かさない、ということではないのか。その辺の、「うわさ」と「手紙」、フィクションと事実との組み合わせはどうなってるのかなあ…、ということを感じました。
 休憩を挟んだ最後の発表は、疲労から撃沈。すみません…。

 学会には本屋さんが来て、本が二割引になるのですが、人ごみが苦手な私はどうも買えないことが多いです。今回もとりあえず目録だけ貰って帰ってきた。

 帰りは高田馬場駅から乗りました。途中でかわいい文具屋さんを見かけたので色々購入。3000円くらい使ってしまう。くじをやっていて、新宿区の商店街で使える100円券が1枚だけ当ったのだが、当然使うあてはないです。

 浅草橋までJRを乗り継いで夜想の展示室に行ってきました。途中でゴスだったりロリだったりする女の子をちらほら見かけ、きっと私がいまから行くところから帰ってきたんだろうな、と思う。私みたいなダークスーツは、あそこだと却って浮くんだろうな。入るときに今野裕一らしき人と遭遇。今やってる展示は『毒姫』展、カフカトリビュート展、hippie coco's planet展の3つ。

 カフカトリビュート展が気に入りました。hippie cocoさんのぬいぐるみは、ふつうに可愛いのもあれば、ちょっとゴスっぽいのもありました。球体関節人形でも縫い目が入ったものが増えてきてたから、最近は関節よりも「縫い目」がフォーカスされてるのかな。
 返品された『夜想』を安く売ってたので、購入。

 帰りのバスは新宿から。バス乗り場の近くに紀伊国屋ができてたので、閉店時間の20時30分まではそこで時間をつぶします。森見登美彦の『聖なる怠け者の冒険』が出てるのを見かけたけど、たぶんこれは近所の本屋さんにも入るので買わない。
 帰りのバスは寒くなかったです。座席の関係なのか、空調を弱くしてたのか。インターチェンジのトイレが、帰りよりも行きのほうがなぜかきれいだった。

 今回のお買い物。


 これに行ったはずなんだけど…なぜか